ひゆう


兄さんが出て行ってから、僕は代わりに医者になることを命じられた。


初め母さんは大反対だった。三人目の子を作り、その子にあとを継がせようとか養子をもらって育てようとか父さんに提案するがいずれも却下された。


「今ある素材をうまく使った方が手っ取り早い」からだそうだ。


大学に入れるまでの知識はまだないから、まずは家庭教師をつけられて丸一日大人しく勉強をした。猿でも、どんなに馬鹿でも頭が良くなるようにと休みも与えられずに厳しく教えられた。


一問でも間違えたら勉強量を倍増やされた。新しい地獄の生活だった。


そうしてまで学校に行かせないのは、僕を逃げられないようにするためだろう。


兄さんのように出て行かれたら跡継ぎがいないから、父さんも母さんも困る。


だから変わらず屋敷に閉じ込められたままだ。


それでも良かった。食事も与えられ、風呂にも入れて、兄さんの部屋が使えてふかふかのベッドで眠れる。何より母さんにぶたれない。


僕はきっと幸せなのだろう。


でも時折魘されて、真夜中に飛び起きることがある。


熱しられた鉄の足枷をつけられている夢、食べ物が全て虫の死骸だった夢。


そうして僕は布団に顔を押し付け、声を殺して泣く。


朝になったら勉強。次の日になったら勉強。また次の日になったら勉強。同年代の子に遅れを取ってはいけない、学校に行かせられなかった分今頑張らないといけない。


両親を落胆させたら、また殺されそうになるかもしれない。


そもそも僕のような頭の悪い人間が、人の命を救えるわけがない。


だって今もあの綺麗な物がたくさん欲しくて欲しくてたまらないんだ。


一つじゃ足りないんだ。


誰かに僕を見てほしい。あの丸くて滑らかな手触りの良い物を、ずっと握りしめていたい。



午後九時。ふと、窓を見た。ここは二階。夜中は屋敷一階の窓全てと玄関のドアは施錠され、内側でも鍵を使わないと出られない。鍵は母さんが持っている。


二階の窓は、鍵がなくてもつまみをいじれば開けられる。


まさか二階から屋敷を出るとはおもわなかったのだろう。僕は兄さんが残していった衣類やベッドのシーツ、布団などを結び繋げて一本の綱を作った。それを窓枠に引っ掛けて結んで、外の地面に向かって投げ下ろす。


三角定規だけを持って、綱をしっかりと掴みながら下へ降りていく。物音を立てずに、そっと。


見つかったら、どんな目に合うだろうかと手に汗を握りどきどきした。


裸足で地面に着地する。春で良かった。冬だったら冷たくて歩けたもんじゃない。


ふう、と息を吐いた。外の空気がこんなに美味しいなんて。


満天の星空が広がっている。昔は屋敷から追い出されて一晩外で星を眺めていた。今じゃ屋敷に閉じ込められて机に縛り付けられている。


いっそのこと、このままどこかに逃げてしまおうか、なんて考えて僕は芝生を踏みしめて門へ走った。


丘の上から見下ろす街は、ちらほらと灯りが点いている。こんな夜中でもまだ起きている人がいるらしい。


もちろん夜道を歩く人もいるだろう。


ぺたぺたとアスファルトの道路を歩く。


僕は自由を手に入れた。毎日こうして抜け出して、だんだん慣れてきたらたくさん綺麗な物を持って出て行こう。


さっそく僕は綺麗な物探しを始めた。ふと、猫が横切りこちらを睨んでいたが、僕は無視をした。


猫の目は怖いからいらないんだ。


街灯が道を照らす。それを頼りに歩いていく。なかなか宝石は見つからない。


そのうち店舗が並ぶ明るい場所に着いた。店じまいをしている人達の声が聞こえる。僕は電柱の裏でじっとしていた。


あの中に綺麗な物を持っている人がいないだろうか。


人が一斉にこっちにやって来た。僕は息を潜めて電柱裏で縮こまる。女の人が四人、香水の甘い匂いがした。気づかれないようにそっと顔を見る。


上まつ毛がくりんとして、その下につぶらで可愛らしい目をした人がいた。


どきどきした。あの目に見つめられていたい。


一目惚れってこういうことなんだろうか。


僕はこっそり後をつけて、あの人が独りになるのを待った。


やがて、彼女は仲間と別れて暗い路地を独りで歩いて行った。


闇と一体化した僕は、彼女にゆっくりと近づいていく。


あの、真っ暗な地下室に閉じ込められていたことがあるせいで夜目はきいていた。


どこに、どの角度で三角定規を差し込めば、綺麗な物が掘り出せるのか。例えるなら鉱石を掘る感覚だった。初めは上手くいかないだろうけど、実践していけば上達するだろう。


僕は彼女の肩に手を触れた。彼女は声もあげず勢いよく振り向く。艶のある目が、街灯に反射して綺麗だった。その片方だけを狙って、僕は三角定規を思い切り差し込んだ。


✱✱✱✱✱



昼。夏休み前集会を終えた生徒達は多くの荷物をまとめて帰って行く。休みはキャンプに行こうか、海に行こうかとはしゃいでいるのが大半だ。


教師は生徒が夏休みだからといって一緒に長期間休む訳にはいかず、明日も明後日も学校に来なくてはいけない。今日は生徒達と同時に帰るかまだ残るかに別れるが、霧生は書類を整理するために少しだけ残ることにした。


「いたいた」


全開にした窓の外から雨ケ谷が霧生を見つけて手を振った。


霧生は少し面倒くさく感じながら職員出入口から外に出て、雨ケ谷と合流する。それから人気のない体育館裏までわざわざ行く。彼との会話を他の人には聞かれたくなかった。


話す内容はいつも、教師と生徒がしては良くない物騒な話題だからだ。


「六日も休んでいたみたいですけど。体調悪いんですか?」


困った表情を浮かばせてはいるが、さほど心配していないような口調だった。


「持病の痔がね。悪かったね、先週の放課後会えなくて」


雨ケ谷は眉間に皺を寄せ、心の篭っていない労いの言葉をかける。


「…お大事に。小説の方ははかどってますか?」


「まぁね。明日から夏休みだから、君から怖い話聞けなくて残念だ。まさか夏休み中に会おうなんてことはないだろう? 忙しいと思うし」


ここで言う忙しいというのは、遊びとか勉強とかの意味ではない。母親の看病のことだ。きっと夏休みの間病院に入り浸るに違いない。


この時、雨ケ谷の下瞼がぴくりと動いたのを霧生は見落としていた。


「お気遣いありがとうございます。僕も夏休み中に片付けたいことがありますからね。一旦は眼球盗難事件のことは休憩しましょう。でも、今日お時間があったら付き合ってほしいことがあるんです」


「付き合ってほしいこと?」


「夏といえば、何でしょう?」


かき氷、スイカ、海、花火、祭り。


突然夏の風物詩を訊かれた霧生は、たくさんある中で何が正解なのかを考えるあまりすぐに答えを出すことができなかった。


「肝試しです」


痺れを切らした雨ケ谷は得意げに正解を教える。


「今日の夜九時、学校に集合してから廃神社で肝試ししませんか?」


いきなりの誘いに霧生は怪訝しながら眉をひそめた。


肝試し。教師と生徒が二人きりで。


「君ってもしかして友達が少ないのか?」


「多くはありませんね。どうします、行きますか? 行きませんか?」


「それは、俺を怖がらせるために開催するってわけか?」


「そうですね、その目的もあります。あとは学校以外でもゆっくり二人で話をしたいと思って。僕の母のことなんですけど、先生はもう知ってるんでしょう?」


意外だった。雨ケ谷本人から母親のことを話題に出してくるとは思いもしなかった。すでに霧生が事情を知っていることも見抜いている。


「出雲先生から聞いてるでしょ? 向かいの席だし口が軽いから」


確かに、聞いていない情報までベラベラと喋っていた。雨ケ谷のことだけじゃなくて、生徒のプライベートの話も鼻高に暴露していたことがある。


あの見た目に騙されてついつい悩みを打ち明ける生徒がいるらしい。秘密を約束したのに彼はそれを陰で言いふらすという、屑な本性。


「メガホンなんですよ。口から先に生まれたんじゃないでしょうか」


「口は災いの元って言うからな、いつか痛い目に合わなければいいけど。…悪いな、その通り出雲先生から教えてもらったんだ。別に聞くつもりはなかったんだが」


「いいんです、霧生先生にはどうせ話すつもりでいましたから。それで、今日の夜どうしますか?」


雨ケ谷は目を細めながら再度尋ねた。はっきりとした意図は不明だが、何か魂胆があるような顔だ。


時折漂う負の念、自分に向けられた敵意。


「わかった、行こう」


ここで断っても、いつかきちんと話をしなければならない時が来るだろう。霧生は肝試し参加の返事をした。


「じゃあ、九時にまた学校の正門で」


雨ケ谷は作ったような笑顔で手を振りながら走り去った。


何か良くないことが起きる気がしていた。誘いに乗るべきではなかっただろうか。


蝉の煩い鳴き声が、返事を急かしていたのかもしれない。


霧生は今夜、教師と生徒の関係が終わるだろうということを予知していた。


夜九時。約束通り霧生は懐中電灯を片手に学校へ行った。


昼間とは違って気温が下がり喧しい蝉も眠っている。街中は静かで生ぬるい空気に包まれていた。


暗い道の先に正門がある。前には見慣れた生徒が佇んでいる。


「こんばんは先生」


雨ケ谷は制服姿ではなく、黒いティーシャツに黒い短パンを履いていた。全身が暗闇と同化していて、白い肌だけが浮き彫りになっている。


「黒い服は霊が逃げると聞いたことがあるんだが」


そんな悪態をつくと、雨ケ谷は鼻で短く笑った。


「先生は昼間と変わらず白いワイシャツですか。白は霊が寄ってくるらしいですよ。じゃあ、行きましょうか」


夜道を二人並んで、例の廃神社へ向かっていく。今は名前もなくなり、社へと続く階段も所々が崩れていて危険らしい。昼間一度家に帰ってパソコンで調べてみると、とある有名動画配信者がこの街に訪れ、真夜中に肝試しをした動画をあげていたのを見つけた。特に怪奇現象は起きなかったが、気味の悪い雰囲気が画面越しに伝わってきた。


「全国の心霊スポットとしては有名らしいですよ。だいぶ前にホラー映画のモデルに使われたこともあるとか」


ゆらゆらと懐中電灯を揺らしながら雨ケ谷は言った。神社は学校から徒歩十五分程の場所にあり、森林の中でひっそりと建っている。若者が面白がって集まることもしばしばあるという。


「心霊スポットなら、何かしらの怪奇現象やいわく付きのものがあるんじゃないのか?」


「そうですねぇ、着物を着た男の子が木にぶら下がっていたとか、女の人の生首が賽銭箱に乗っていたとか色んな噂はありますよ。先生が実際にそれを見たとして怖がるかどうかはわかりませんが」


幽霊などいるかいないかわからない存在よりも、人の目を抉り出して持っていく人物がこの街にいる方が十人中十人が恐れるに決まっている。


眼球盗難事件のことは一旦考えるのを休むと言われたが、霧生は受けを狙ってこんなことを口にした。


「眼球盗難事件のことだけど」


「はい?」


「目玉しゃぶりの仕業なんじゃないか?」


目玉しゃぶりは、橋に立つ美女が旅人に箱を渡し、中身を見ず橋の袂にいる別の女に届けてくれと言う。言われた通り箱を渡せば何事もないが、渡し忘れたり箱の中身を見てしまったりすると、その人は高熱を出して死んでしまい、死体は目玉を取られてしまう。箱の中にはこうして抉り取ったと思しき目玉が詰まっている。


場の雰囲気を和ませるために、調べて知ったばかりの妖怪の話をしたのだが、逆効果だった。雨ケ谷は呆れたようにため息をついた。


「笑えないですよ先生。眼球盗難事件は立派な犯罪です。妖怪のせいにするってことは、犯人を擁護するという意味ですよ」


苛立ちのこもった重い声が暗い空間に響いた。


「出雲先生から母のことを聞いたはずです」


「…ああ、事故で失った片目のことなら」

「母の目は、今でも何かを映している。目を奪われた被害者達と同じ現象ですよ。犯人は特殊な力を持っているんです。にわかには信じ難いですけど」


街灯が立っていない、真っ暗な細い一本道に着いた。辺りは草むらで囲まれ、虫の鳴き声があちらこちらで聞こえる。


「君のお母さんと、眼球盗難事件の犯人が同一人物だと思っているのか?」


「これだけ偶然が重なっているなら、そう考えるしかありませんからね」


「君は、犯人を見つけてどうするんだ?」


「もちろん許しませんよ。犯人も、犯人に関わる人間も。地獄を見せてやりたいくらいです」


怒りの篭った声が暗闇に響く。隣を歩く彼からは不穏な空気が漂ってくる。


ゲッゲッケッゲッ。


用水路の近くで蛙が一定の律動で鳴いている。鳴き声は霧生の心拍にぴたりと合っていた。


「だが、どうやって見つけ出すのか考えはあるのか?」


住宅街を離れた細い農道で、雨ケ谷はぴたりと足を止めた。


「母は、犯人の顔を見ているんです。僕は特徴を聞き出してたくさんの人の顔のパーツを切り取り、繋げて顔を作りました。これです」


ズボンのポケットからくしゃくしゃになった紙を広げて見せる。霧生は懐中電灯でそれを照らした。


「右のこめかみにほくろが二つ。マジックペンで描きました」


その写真を見て、霧生はてっきり鏡を見せられているのかと錯覚した。


写真は、自分にそっくりだったからだ。


「自分にそっくりだ、そう思ったでしょう?」


雨ケ谷はこれまで見たことのない恨みたっぷりな表情で霧生を睨めつけた。


「まさか、俺が犯人だと言いたいのか? 写真に似ているだけで?」


「しらばっくれるのはもうやめましょうよ。十四年、十四年だ。もしあんたが母の目を持ち去らなかったら、僕は大切な時間を奪われずに済んだんだ。父が出ていくこともなかった。家族を壊したんだよ、あんたは」


雨ケ谷は写真を霧生に投げつけた。地面へと落ちた写真を見下ろすと、何度も針で刺したような穴が空いていた。


「そりゃあ恐怖を知らないはずだ、人を傷つけるのが快楽の化け物なんだから。自分の気味の悪い力を自覚していたのか? 知らずにやっていたのか? 次は誰を狙うつもりだったんだよ?」


緊迫が高まると共に蛙の鳴き声も大きくなっていく。主張がかき消されないように、霧生は声を張り上げた。


「考えてもみろ、俺が犯人なら、白藤さんと一緒にいた時はどう説明する? 一緒にいた時彼女の目は男を映していた。他の被害者達もだ。常にリアルタイムを映しているんだったらアリバイがあるじゃないか」


「そうだな、逆を言えば白藤さん達が映していた男が眼球盗難事件の犯人だという証拠もない。先生、あんたには共犯者がいるはずだ。眼球を盗む役と盗んだ眼球を見張る役だ。だって、例の屋敷はあんたが一番知っている場所なんだから」


霧生は焦った。


説得を試みてももはや言葉が通じない。思い込みが固定されている。


懐中電灯に照らされた雨ケ谷の片手には光るものがあった。いつの間にかナイフが握られていたのだ。その先端は霧生に向けられている。獲物を狩る鋭い獣のような目には、殺意があった。


「待て、俺じゃない。俺には人の目を取る理由もないし、そんな力はない」


「往生際が悪いよ! こんな瓜二つの顔が他にどこにいるって言うんだよ!」


雨ケ谷は落ちた写真を踏み潰した。


「…いいさ、そんなに認めたくないっていうんなら。あんたが犯人だって証拠は写真以外にもあるんだから」


雨ケ谷は、力が抜けたように懐中電灯を手放した。絶望した顔をして、霧生にゆっくりと近づく。


狭い路地で逃げ場などなかった。霧生は犯人として間違われたまま大人しく生徒に殺される道しか残っていない。


惨めだ、こんな状態に置かれてもなお、恐怖を感じることができない。


自身の命が惜しいのは確かだ。だが、感情は雨ケ谷に対する哀れみの方が強かった。


なんて馬鹿な奴なのだろう。


それで気が済むのなら、長年の悩みが解決するのしなら、死を持って最期に教師としての役割を果たすのも悪くはない。この生徒は後に自分のした行いを後悔することになるだろうが。可哀想に。


そんな綺麗事を浮かべてから、自分は殺されるはずだった。


「僕は、母さんを信じる」


雨ケ谷は片方の手を自身の右目に近づけて、指先を立てた。


そして、思い切り目の縁へ差し込んだ。


「ううっ…あああ! があああああああ!」


霧生の懐中電灯はその異様な光景を照らし続けた。指で眼球を掴み、外側へ引っ張り出していく。ぶちぶちと何かが切れる鈍い音に、頬を流れていく赤い血液。


雨ケ谷は前かがみになり唸り声をあげながら自身の眼球を取り出そうとしている。


予想もしていなかった彼の行動に、霧生は呆然としていたが我に返り止めようとする。


「雨ケ谷! やめろ!」


遅かった。


まだ繋がっている肉片や神経をナイフで切り取り、眼球は完全に取り出されてしまった。


「はぁっ…! はぁっ!」


拳の中の眼球を握りしめながら、雨ケ谷は両肩を上下させて息を荒くする。


「…ねぇ、先生。あんたがこの眼球を触って、もし、機能が維持していれば…眼球盗難事件の犯人はあんただってことだ」


雨ケ谷は激しい苦痛に顔を歪ませ、大量の汗をかいていた。摘出された右目の空洞には肉片が付き、そこから涙のように血が溢れていた。


「ほら、あんたの大好きな人の眼球だ。女のじゃなくて残念だな」


「雨ケ谷、どうしてそこまで…!」


「目の一つや二つ、くれてやるよ。母の苦しみに比べたら、なんてことはない。…触ってみろよ、本当は触りたくて仕方がないんじゃないのか? そして自分がしたことを認めろ」


雨ケ谷に差し出された眼球を、霧生は言われた通りに触れた。まだ温かく、瞳は輝いていた。


なんて馬鹿なことをしたものだ。


乾いた笑い声をあげて、雨ケ谷は地べたに這いつくばった。


「はは、ははは! 何で?」


眼窩を擦ったり、霧生の手のひらに乗った眼球を見比べたりして、ようやく彼は気づいたようだ。


「どうして見えないんだ? あんたが触れば、見えるはずだろうが!」


雨ケ谷は大きな勘違いをしている。


眼球盗難事件の犯人は、霧生ではない。


だから神経が途切れた眼球の機能を維持する力など持ち合わせてはいないのだ。


そもそも母親が、自らの眼球を持ち去った犯人の顔を勘違いした結果生み出した悲劇だ。


こうして息子までもが片方の眼球を失ってしまった。


「クソッ! 目玉が使えないじゃねえかよ!

戻せよ! 戻せえっ!」


過ちを嘆いた雨ケ谷は、受け入れられない現実と激痛で思考が狂っていた。


ぐちゃ。ぼとっ。ぐちゃ。ぼとっ。


何度も眼球を窪みに押し込んでは、地面に落下させる。そのうち眼球は泥だらけとなり丸い形を保てず歪んでしまった。


ずっと恨んでいた人間が、犯人ではなかった。そしたら彼の今まで割いてきた時間は無駄でしかなかったということ。


母親がこんなことにならなければ、普通に友人と遊び、普通に異性と恋愛ができた。


誰かを死ぬほど恨むこともなかった。


霧生は目の前で地面に這って奇行をとる青年を哀れんだ。


このまま傷口を放っておけば感染症にかかる危険がある。霧生は携帯で救急車を呼んだ。


その直後、学校の緊急連絡網で電話が来た。霧生は応答する。


「すいません、今急用なんですが… 」


「霧生先生! 大変なんです! 明日学校に集まってください、出雲先生が…」


相手の教師は切羽詰まった声で出雲の身に起きた情報を伝えた。


✱✱✱✱✱


夜の住宅街に、顔を手で覆いながら左右によろめく影があった。


それとすれ違う人々は、ただならぬ様子に一瞥するものの、早く家に帰りたいがために声をかけず足早に去っていく。


その中には親切な者もいた。心優しい青年だった。


仕事が忙しく残業をした帰りではあるが、具合の悪そうな人を放っておくわけにはいかない。


影は、どうやら男のようだ。よろめいては電柱やら人の家の塀にぶつかり、あてもなくどこかへと歩いている。


交通量は少ないが、車に轢かれる危険はあった。


ただの酔っ払いであるならそれはそれでよかった。


「もし、大丈夫ですか?」


青年は男に声をかけた。男は、腰を丸めて両手で顔を覆ったままだ。


ふしゅう、ふしゅう。


どこからか空気のもれる音がした。男の、顔付近だ。呼吸がうまくできていないのかもしれない。


「今、救急車を呼びます!」


内ポケットに入った携帯を取り出そうした時、男は青年の腕に掴みかかった。触れられた瞬間、温かい液体が付いた。鉄の臭いがする。暗くて見えないが、恐らく血だ。まさか、怪我をしているのではないだろうか。


「どこか怪我を?」


青年は携帯電話の光で男を照らした。


「う、うわああああああ!!」


顕になった男の顔には、三つの穴が空いていた。


まるでムンクの叫びのようだった。


両目が二つともなくなり、鼻下から顎、左右の耳に届くまで肉がなくなっていて歯茎と舌が丸出しの状態になっていた。唇のない男は上手く話すことができず、喉奥から声にならない音を出していた。


男は暴れだした。自分の身に起きた出来事を理解しておらずどうしていいのか混乱している様子だった。


路上のあちこちに血液と唾液が散布する。


暴れた拍子に運転免許証が落ちた。


騒動に集まった人々は、今では面影のない顔写真に出雲翔一という名前の書かれたそれにしばらく気づくことができなかった。


後日、出雲のものと思われる二つの眼球と切り取られた口の肉片が、とある市民公園の女子トイレの一室で見つかった。


便器の近くで転がっていた眼球、口。


使い物にならないはずなのに、それらはなぜか生きているようだったらしい。


ひゆう、ひゆう。


摩訶不思議なことに、ただの肉片となった唇が話をするようにパクパクと動いていたそうだ。







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