風雲急を告げる
兄弟は素晴らしい絆だ。
兄さんが知らないことは僕が、僕が知らないことは兄さんが。お互いに勉強を教え合って僕達は知識を深めた。
兄さんは将来医者になることを強いられている。だから同い年の子と比べてとてつもないプレッシャーを感じている。
勉強以外は食事をするかトイレに行くかお風呂に入るか寝るかだ。
遊んでいるところを見たことがない。それどころか笑った顔さえも見たことがない。
兄さんにひっついているおかげで、僕は母さんに叩かれることも殺されることはなかった。
しかし僕を嫌いであるのには変わりない。同じ部屋にいるようなら鼻をつまんで咳払いをされ、必ず一定の距離を置かれた。ぶたれなくなっただけだいぶいい。
兄さんのお気に入りになることで数年生き延びることができたけど、いつまでも続くはずはなかった。
兄さんが十八、僕が十二の時だ。
高校を卒業してこれから医大に通うという時、兄さんは父さんと母さんと大喧嘩をした。初めてのことだった。あれだけ何でも言うことを聞いて、静かに勉強をしていた兄さんが怒鳴り声をあげていた。
「俺は医者なんかになりたくないんだ! 医大には行かない、あんたらの人形でいるのはもうたくさんだ!」
父さんは真っ赤な顔をして兄さんの襟元に掴みかかる。
「俺が何のためにお前を育ててきたのかわかるか? 俺の跡継ぎのためだ! 欲しいものは何でも与えてきただろう? お前は恩を仇で返すつもりか!」
「勝手に俺の人生を決めるな! そんなに跡継ぎがほしけりゃ、俺じゃなくてそいつにしろよ!」
兄さんは僕を顎で指した。それは困る、僕だって医者になんかなりたくないのに。
屋敷内は兄さんと父さんが暴れたせいで荒れまくった。母さんはヒステリーを起こし奇声をあげながら皿を割っていく。僕はその様子がおかしくて笑いを堪えるのに必死だった。雇い人はどうにかこの喜劇を止めようとするが、父さんが「家庭に口出ししたらすぐクビにするぞ!」と喚き散らしたせいで誰も止めに入れず、喜劇は皆の体力がなくなるまで続いた。
やっと、皆疲れて屋敷内は嘘のように静まり返る。父さんと母さんは疲弊して壁にもたれ掛かりながら魂が抜けたようになっていた。雇い人もいつの間にか全員帰っている。
兄さんは自分の部屋の荷物を黙々とまとめていた。殴られたり引っかかれたりして髪は乱れ顔は傷ができている。
「兄さん、この屋敷を出て行くの?」
答えずにどんどん荷物を鞄に詰め込んでいく。
「僕も、連れてってくれよ。兄さんがいなくなったら、殺されちゃう」
そう懇願すると、兄さんは旅立ちの準備を終えて僕の方に歩み寄った。
「俺はこの家と縁を切った。お前のことなんか知ったこっちゃない。あいつらの言いなりになって医者になるしか生き延びられないよお前は。そうじゃなきゃ殺されるしかないな、この木偶の坊」
兄さんはそう言い放った。輝きが一切ない真っ暗な目をして。
あんなに仲良くしてたのに、兄弟なのに、守ってくれると信じていたのに。
ポロポロと涙が溢れてきて、僕は大声を出しながら泣きじゃくった。
嫌だ、嫌だ。
死にたくない。今死んだら、何のために生まれたのかわからないじゃないか。
父さんの名誉のため?
母さんにぶたれるため?
兄さんの代わりになるため?
誰か僕を守って。
僕を、ちゃんと見て。
その瞬間、何かがガラガラと崩れ落ちる音がして、涙がぴたりと止まった。
空っぽになった部屋の窓から淡い夕陽が差し込んでいる。とても暖かかった。
丸い夕陽は優しく僕を見つめていた。まるで空に巨大な目があるみたいに。
ああ、そうか。
誰も見てくれないなら、見てもらえるようにすればいいんだ。
たくさんの綺麗な物を、傍に置けばいいんだ。
✱✱✱✱✱
六日休んだ後、霧生は出勤した。
病欠だったのか、それとも身内に不幸があったのかと周りは囁く。
「おはようございます」
彼は静かに職員室へ入ってきた。いつもは明るい挨拶で他の教師達の気分をあげていたのだが。
隣の席の男性教師が少し間を置いてから霧生に話しかける。
「霧生先生、具合いでも悪かったんですか? あまり顔色が…」
すると、声をかけられた霧生の顔はパッと明るくなった。
「いやぁ、持病の痔が悪化しましてね。六日間お尻を圧迫しないよううつ伏せで寝ていたものですから、今度はアソコが痛くなって」
霧生はいつもの口達者を披露し、股間を抑えながら痛がった。
たちまち職員室は笑い声であふれる。良かった、いつもの霧生先生だと安堵した表情を皆浮かべていた。
「僕はてっきり怖い話のネタ集めに夢中になったから休んだのかと思いましたよ」
向かいの出雲がハンカチで額の汗を拭いながら冗談を口にした。
「夏休み明けに生徒達がわんさかやって来て怖い話を教えてくれれば良いんですけどね」
今日は夏休み前全校集会がある。明日から夏休みだ。つまり一ヶ月半近く授業ができない。国語の授業が人気絶頂の時は、霧生の怖い話を聞けなくなることを残念がる生徒もいただろうが、人気が下降した今はどうでもいいと思われているのだろう。
「そんな霧生先生のために、取っておきの話持ってきたんですよ」
「へえ、どんな話です?」
出雲は集会開始時間までの暇つぶしに、持ってきたという怖い話をするようだ。
霧生はあまり期待せず頬杖をついて聞く姿勢をとる。
「これは、カメラが詳しい友人の話なんですが」
友人の高齢の母親は、ある日幻視幻聴の症状が出た。何の前触れもなかった。しっかり者で生活も困ることもなく普通に暮らしていた。
そんな母親が突然、三輪車に乗った男の子が庭を走っていると訴えた。日中など自分が独りで家にいる時だけその子は見えるそうだ。
友人が家にいる時は現れない。もちろん車輪が回る音も聞こえない。母親の言うことには友人も困り果て首を傾げていた。
この辺りで三輪車に乗るほど小さい子はいないだろう、近隣住民も皆口を揃えてこう言うのだ。
しかし母親は嘘をつく人ではない。その証拠に、恐怖が顔に張り付いている。
他の人には見えず、母親だけに見える。霊感があるのかどうかは知らないが、次第に母親は一日ぼーっと庭を眺めたりたくさんお菓子を買い込むようになったり、異常な行動が増えていく。
真っ先に疑ったのは認知症だった。脳を調べてもらえれば診断がつくに違いない。
早めに治療すれば楽になるだろう。
しかし友人は万が一を考えて自宅玄関や庭に
動体検知機能付きの監視カメラを設置してみた。スマートフォンでアプリをインストールすれば、防犯カメラを遠隔操作もできるし映像も確認できる。
これなら母親が独りでいても防犯になる。三輪車の男の子はいないと母親に納得してもらえるだろう。
その日は友人が出張で泊まりに出ていて、母親は独りで一夜を明かすことになった。
防犯カメラがあることで友人はだいぶ気が緩んでいたらしい。
夜、就寝前にスマートフォンで現在映している監視カメラの映像を確認する。
動きが感知されれば自動録画されアプリを通して自分に知らせてくれる。
やはりカメラは何も映していない。母親の妄想だったのだ。
友人は疲れていたせいか、目を閉じるとすぐ熟睡した。
翌朝、スマートフォンを見た。寝ぼけ眼が一瞬にして見開かれる。
電話が何十件も来ていた。熟睡していたせいで全く気づかなかった。
一番古い着信は母親から、次に近所の人や見知らぬ番号。
順番に急いで掛け直した。母親は出ない。近所の人に掛けた。数秒で出てくれた。えらい剣幕だった。出張前に予め隣の人に母親が一晩独りでいることを伝えていた。だから心配で朝に訪ねてくれたらしい。ところがいくら呼んでも返事がない。嫌な予感がした。鍵はしまっているから窓ガラス叩き割って家に入ったという。
一体どうしたんです? 母に何かあったんですか?
いいか、落ち着いて聞け。お母さんな、亡くなってたぞ。自分の部屋で、菓子を大量に喉に詰まらせてな。
信じられなかった。菓子を、詰まらせて死んだ。
動悸がひどくて貧血を起こしそうになる。まさか、自分でやったのだろうか。あんなにしっかりしていた母親が。有り得ない。
友人は震える手で監視カメラを確認した。録画の通知も来ている。
もしかしたら、母親は不審者に殺されたのかもしれない。
震える手で再生する。録音が始まったのがちょうど午前0時。
ガラガラガラガラガラガラ
車輪が地面を走る音が近づいてくる。
三輪車だ。
三輪車に乗った男の子が、カメラの端から姿を現した。何度も庭を往復すると、ぴたりと玄関前に止まった。
男の子が立ち上がり、しばらく俯いて動かない。
すると、カメラに向かって笑った。
物音を立てず、すっと玄関のドアを通り越して家の中に入っていった。
後に、母親の死亡推定時刻がわかった。午前0時頃だそうだ。
こんなことを言ったら、今度は自分がおかしくなったと思われるだろう。
小さな男の子が、真夜中に母親を殺したなんて言ったら。
話を聞いていた他の教師はしんとした。霧生はあくびをしながら質問する。
「それで、どうなったんです?」
「野暮ですねぇ、これで終わりですよ」
なんだ、大したオチもなく終わったのかと霧生は落胆した。
なぜ母親にだけ男の子が見えたのかとか、なぜ男の子は母親を殺したのかとか、本当にあった話なのかとか謎が多すぎる。
理由や原因が曖昧な方がかえって後味の悪さがある。出雲はにやにやと卑しく笑っていた。
「知ってますか? 幻視幻聴のある人に機械を使用した実験をしたら、視覚にも聴覚にも何らかの反応があるみたいです。ようは本当に見えて聞こえるってことですね」
「幽霊はいるってことですね」
霧生は適当にあしらった。
「まぁ、幽霊以外でもこの街も物騒ですからね。年々発展して人口も増えてきてますし。詐欺や強盗だって日常茶飯事ですからカメラなんか一家に一台必要な…」
ペラペラと喋る口から何粒もの唾が吐き出される中、チャイムが鳴った。職員達は気だるそうにして席から立ち上がり、わらわらと教室や体育館に向かう。
出雲の隣の席にいた、白衣を着た女性の養護教諭も沈んだ顔をしている。
きっとまた校長の話が長くて脳貧血で倒れる生徒が出るからだろうな、と霧生は溜息をついた。
「ね、霧生先生」
職員室を最後に出ようとした時、稲垣が霧生に声をかけてきた。身体を密着させて媚びた目で見てくる。どうも苦手だ。
「はい?」
「さっき、カメラの話してたでしょう?」
「はぁ」
どうやらさっきの話を聞いていたらしい。稲垣は廊下の先を歩く出雲の姿を確認してから小声で言った。
「出雲先生、ああ見えて学生時代に実習先だった小学校で問題起こしたそうですよ」
「問題、ですか?」
意外な事実を耳にする。あの幼い顔をしたあどけない感じが残る男が。問題を起こすより被害に合うタイプだ。
「女子トイレに監視カメラ付けてたって。小児愛者の気があるって噂ですよ。しかもさっきの話、友人じゃなくて自身の話です。彼のお母さんは入浴中亡くなったみたいですよ。でも小児愛者だってことを知られたから殺したんじゃないかって、陰では皆言ってますよ」
衝撃的な内容だった。だから話が聞こえていた周りの人間が沈んだ顔をしていたのか。
確かにさっきの怖い話は切れが悪く曖昧なところがあった。仮にも友人に起きた出来事を、にやにやと語るのもおかしい。
稲垣の言うことに信ぴょう性があるわけではないが、話を聞いたことで出雲の印象はがらりと変わり、あのあどけない笑顔も腹黒く思える。
「当時はどう誤魔化したのかは知りませんが、そんな人が教師になれるなんて…。だから、あまり親しくしない方がいいですよ。もし霧生先生の周りに小さなお子さんがいたら狙われるかも…」
「もしそれが本当なら、この学校のトイレにも監視カメラを付けられるかもしれませんね」
霧生の言葉に稲垣は目を泳がせた後、小さく頷いた。
「入って間もない霧生先生にこのことを伝えるか迷いましたが、やっぱり知ってもらった上で出雲先生に気をつけていただきたくて…。おしゃべりで人の秘密も平気で言いふらすし、あんな人、酷い目に合えばいいんだわ」
話をしている間に校舎内はしんとして、体育館の方が騒がしくなっていた。集会が間もなく始まるため霧生達も向かわなければならない。
「怖い話をありがとうございます。自分も前々からお喋りだし、女子生徒を見る目が変だなっては思っていたんですよ。いつか痛い目見ないといいですけどねぇ」
霧生は意味深にそんなことを言った。
「あら、先生って…」
稲垣はつま先立ちになり顔を近づかせて霧生の目をじっと観察した。
「よく見るとオッドアイなんですね、右目だけ色素が薄いみたい」
霧生はすぐに顔を逸らし、稲垣へ普遍的な感想をただ言った。
「それが何か?」
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