旱に雨


地下室の鍵を閉め忘れた雇い人は即クビとなり、脱走した僕はとにかく殺されないように昼も夜も雇い人がいる時間以外は外で過ごした。


屋敷内に他人がいなくなれば、今度こそ僕は母さんと父さんに殺される。


街をぶらぶらと歩いては誰かに助けを求めようか悩んだけれど、失敗したら父さんと母さんにばれてそれこそ命が危ぶまれる。


小さな頭で、自分の身を守る方法を考えた。


やっと良い方法を一つだけ思いついた。


それは、弱い自分を守ってくれる強い味方を作ること。


えりな姉さんの目が欲しくてやった行為は、雇い人全員に知れ渡り僕をかまう人は誰もいなくなった。


食べ物も服もろくに与えられないのだから、欲しいと思ったものを一つくらい手に入れてもいいじゃないか。


皆で僕をいじめるんだ。そうして、ストレス解消にしている。


とても腹が立つよ。皆敵だ。


もっとも僕に近く、理解してくれそうな人を味方にしようと考えた時、たった一人だけ浮かんだ。


「兄さぁん」


二人の会話を聞いた直後、僕は最後の砦で兄さんへ泣きついた。


兄さんは家具が何でも揃った自分の部屋の机で、熱心に勉強をしていた。


僕の声は無視された。兄さんはいつもぼんやりしていて、何を考えているのかわからない人だった。


興味があることには周りの音が聞こえないほど熱中し、興味がないことにはそのものを無視した。


僕は兄さんにとっては後者の方で、まともに口をきいてくれた覚えがない。


それでも、自分を守るためには何とかしなくちゃ。


僕は机の脇に立って、兄さんの視線の先を辿った。


どうしたら、興味を持ってもらえるのか。兄さんの見る世界に忍び込むしかない。


「あっ」


机の上には教科書が山積みだった。問題集を解いてノートに書いている兄さんだが、間違えている箇所があった。


「兄さん、兄さん。ここの答えが間違っているよ」


その一言で走らせていたペンがピタリと止まる。


問題集の後ろにある答えを確認して、兄さんは目を丸くしながら僕を見た。


「お前、学校に行っていないのによくわかったな」


えりな姉さんから教えてもらったということは内緒にしておいた。二人だけの秘密だからね。


それから、兄さんは僕に興味を持ってくれた。大成功だ。僕が兄さんに勉強を教える日が来るなんて思いもしなかった。


やがて父さんと母さんが息子二人仲良く勉強をしていることに気づく。煙たい存在が、愛する存在とくっついていることに母さんは怒って引き離そうとする。それを兄さんは阻止した。


「母さん、僕は勉強を教えてもらっているんだ。だから邪魔をしないで」


嬉しいことに、僕は見事兄さんの心を射止めて味方にしたのだ。あの、母さんの悔しそうな顔は傑作だった。だって僕を殺す気満々だったものね。


それから兄さんとはどんどん仲良しになっていった。


「母さん、僕のお下がりばかりじゃなくて服を買ってあげて。それから、ご飯も腹いっぱい食べさせてあげないとだめだよ」


国語辞典で調べた。こういうのを鶴の一声って言うらしい。そして僕を虎の威を借る狐と言う。


兄さんは果たして鶴なのか虎なのか。


どっちにしても、おかげで僕の生活は一変した。


一日三食、皆と同じテーブルでお腹がいっぱいになるまで食べたし、お風呂も入れて服を取り替えることもできた。


母さんにまた箒で叩かれそうになったら兄さんの傍にくっついた。そうすれば諦めてどこかに行く。


僕は兄さんが大好きだ。いつまでもこうして守ってもらいたい。


ふと、兄さんの目を見た。


えりな姉さんの綺麗な目とは違って、兄さんはトンネルみたいに真っ黒でキラキラしてはいなかった。


これは、いらないかな。


しばらく平和は続いた。でも、母さんと兄さんの仲はどんどん悪くなっていくみたいだ。


この時、僕は兄さんがいなくなった時のことを考えておくべきだったんだ。


✱✱✱✱✱



霧生はなぜか五日ほど学校を休んでいた。国語の授業は毎回自習で生徒達は漫画を読んだりゲームをしたり好き放題。


しかし、三年生にとっては大学受験や就職活動という大事な時期を迎えるため遊んでいる場合ではなかった。教師がいない時間でも教室内はしんとしていてペンを走らせる音や本のページをめくる音しか聞こえない。


誰かの欠伸、くしゃみ、または腹の音で集中力が一瞬で途切れそうなほど皆神経質だった。


三年二組の雨ケ谷だけは違った。


彼は将来どころか明日のことさえ空白だった。


母親を救い出すこと、その一点だけを目標にしているからだ。


机の上は何も置かず、壁にかかった時計をじっと見ながら先日の休みに観ていたテレビ番組のことを思い出していた。


フランスパリデルマー・オルフィラ解剖学博物館。パリ大学医学部内にある解剖学ミュージアムだ。人体模型やホルマリン漬けの奇形児などが映っていた。


内蔵はまるでパズルだ。ピースが一つでも欠けると支障をきたすのだ。


母親も、眼球片方失くしただけでいかれてしまった。生死に関わることではないのに。


生物学にはとても興味があった。なぜ神はこんなにも複雑に命を作ってしまったのだろう。


人がただの水袋でできていて、何も考える脳やうっとおしい病気もなくてふわふわと漂うように生きられたら、幸も不幸もなくてどれだけ楽なのか。


テレビ番組以外でも人体について調べていた。


参考書の臓器写真と解説文を眺めて、人というものを知ろうとしていた。


人、というより母親のことをだ。


十四年前の事故で、人生が大きく変わってしまった。


物心ついてから初めて自分と母親の身に起きた事故を知った。


あの日覚えているのは、母親の悲鳴だけ。それが今でもふと蘇ることがある。きっと散らばったガラスの破片が目に突き刺さった時のものだ。悲鳴が蘇るたびに胸騒ぎがして、入院先へ電話をし母親の安否確認をするのだ。


取り拭えないトラウマを植え付けられてしまっている。何度両耳の穴にペンを差し込んで

鼓膜を突き破ってやろうとしたかはわからない。


あの時、ガラスの破片を無理に引き抜いたりせず病院で治療を受けていたら、眼球を落として誰かに持っていかれることはなかった。


得体の知れない風景に延々と苦しむことはなかった。


狭くて何もない病室に隔離されることも。


失くした眼球が風景を映すなど、常識では有り得ない話だが、母親は嘘をつく人ではない。これは実際に起きていることだ。認めざるを得ない。


もし、母親の眼球を持っていった人物と女性達の眼球を盗んだ人物が同じだったなら、今自分にできるのは決まっている。


犯人を見つけ出し、母親のように苦しむ被害者達を解放すること。


つまり、眼球を見つけ次第一つ一つを箱にしまって地中深くに埋めてしまうのだ。そうすれば暗闇だけを映すだろう。


もう、失った眼球に痛みを感じることも見たくない風景に苦しむことも無い。


犯人は、通常じゃ考えられない力を持っている。もしくは一種の呪いなのかもしれない。


切り離された身体の一部に触れると、その一部は神経が繋がっていないにも関わらず、機能を維持し続けるのだと雨ケ谷は推理した。


本人がそのことに気づいているかどうかわからない。もしかしたら気づいていないからこそ盗んだ眼球を部屋の風景が見える位置に置いているのかもしれない。


犯罪者は、自分の居場所を誰かに知らせるような危険行為はしないはずだ。


それとも、眼球を盗まれた被害者の訴えは頭が狂ったと受け流されると想定しているから自信があるのか。


最悪の場合、犯罪者という自覚を持っていないのか。


腹立たしくなり雨ケ谷は血が滲み出るまで拳を強く握る。


幼い頃から母親の人生を奪った犯人に対して復讐心に燃えていた。その復讐心を糧に生きてきた。


復讐をする相手が誰なのか、特徴はわかっている。


ぶつぶつと呟く母親の口から犯人の顔の特徴を知ることができたのだ。


まだ完全に狂う前、母親から得た情報だ。


「私の、目が映しているのは、小さな男の子。目はポケットにしまわれたり、布団の下に隠されたりしているけど、時々外の世界も見られた。なんて、広い庭なのかしら。ここは、この屋敷はどこ?」


どうやら母親の眼球は広い庭と屋敷を持つ人物の家にいるらしい。


「男の子は、そこに暮らしているの? その子が、目を持っているの?」


「ええ、私の目は、あの子に握られている。十二、三四くらいの歳かしら。音を聞くことはできないけれど、この男の子、親から叩かれているわ。身体が揺れた拍子に目が床に落ちたの。そしたら、男の子を叩く母親が見えた」


「その人に見覚えは?」


母親は首を横に振る。


眼球を掴まれたり、ちくちくする繊維が触れる不快感だったり、それよりも辛かったのは、男の子が虐待を受けているのを見せられる時だと母親は言った。


眼球を持っていったと思われる男の子の成長を、いつしか母親は優しく見守るようになっていった。


残った片方の目さえも、実の息子へ慈愛を向けることが少なくなっていく。


いくら薬を飲んでも虚言症、妄想、幻覚という精神病症状が治らない。入退院を何度も繰り返した。雨ケ谷の父親は仕事もせず酒を浴びるように呑み、やがて蒸発した。雨ケ谷が十歳の時だった。以後は叔父と叔母に面倒を見てもらっていた。


「あの子がね、大きくなったわよ。お兄さんが庇ってくれるからご飯も食べられるようになってね」

閉鎖された病棟の一室で、母親はもう一人の息子を愛でている。


雨ケ谷はくじけなかった。


母親の言葉を一語一句もらさずメモに残す。


いつか、犯人を見つけ出すのに役立てるように。


「母さん、その子は、どんな顔をしているの? ここから顔のパーツを教えてよ」


雨ケ谷は雑誌や髪型カタログを持ち込み、掲載されている数多の人間の顔を母親に見せ、その男の子に似た部位を切り取って作ろうと考えた。


「ええと、目は、この人に似てる。鼻は、この人。右のこめかみにほくろが二つあるの。可愛いでしょう」


「今はいくつになったの?」


「そうね、十八くらいかしら。もう立派な大人よ」


「こんな顔?」


「そうよ、まあそっくり」


雨ケ谷にとってその存在が妬み、嫉妬、恨みで溢れていた。


目の前に現れたら殺してやりたいくらいに。


そして、母親が完全に狂う出来事が訪れた。


「ああ! あの子が私を置いて屋敷を出ていくわ! 嫌! 嫌!行かないで! 私を一人にしないで! 他の目の方がいいの? 嫌!」


母親は病院の壁を何度も殴りつけ、両手が腫れ上がり血だらけになっても行為をやめなかった。


そこに、母親にしか見えない扉があるのだ。向こう側に、愛すべき男が行ってしまった。


医者と看護師数名におさえられ、注射を打たれて徐々に全身の力が抜けていく。


「行か、ない、で…」


実の息子がすぐ隣で悲しそうな顔をしているというのに、彼女にはそれが見えていない。


雨ケ谷は、パーツを切り取って作った男の顔にナイフを突き刺した。


顔は覚えた。あとは見つけ出して罪を吐き出させた後に積年の恨みを晴らすと心に強く誓った。




男は屋敷を出て行った、 母親はその後の経緯を話さなくなり、人形のように沈黙してしまった。


では、盗まれた眼球はどこに置いてあるのだろう。何年も執着していたものをあっさりと手放すだろうか。


男は、きっとまだ眼球を持っているはずだ。


雨ケ谷はささやかな情報を頼りに男を探した。そして、中学生から高校生になる数年の間に、この街で不定期に目の傷害事件が起きていることを知った。


眼窩に刃物のようなものを差し込んで、眼球をくり抜き持っていく。


眼球を盗む、という犯行が母親の件と無関係には思えなかった。


被害者の情報をネットで集めた。噂によると、被害者は皆失った眼球がどこかの風景を映していると訴えているようだ。


母親と、全く同じ状況だった。


「母さんと被害者女性達は同じ景色を見ている。犯人は同一人物なんです!」


ただの推測を張り上げた声は虚しく、誰も信じてはくれなかった。


被害者の家を訪ねては怒声を浴びて追い出されたこともあった。


事件が発生した場所を地図にしるしを付けてたが、犯行をする場所がバラバラだ。


警察署に行き事情を話して眼球盗難事件についての情報がないか訊いてみたが、興味本位で警察署に来るなと言われた。


無能。何もできない自分に嫌気がさした。


それでも雨ケ谷は独りで戦うのをやめなかった。


しかし、未成年者独りでできることなどたかが知れている。


何も進歩がないまま時間が過ぎていったある高校二年の一月の寒い冬、友達の友達が被害を受けたと知った。名前は白藤美雪という。交渉し、幸運にも本人から話を聞くことができた。


「なぜ、この事件が解決しないと思う? 犯人はね、霧のように現れて霧のように消えてくの。だから警察も諦めてる。都会から見たら田舎だけど広い街だからね、他にも物騒な事件は多いでしょ? 眼球を取られたのだってその内の一つに過ぎないの」


聞き逃さないようビデオにおさめた。彼女の精神はかなりまいっているようだ。有力な情報は得られない。


写真を切り取って作った男の顔は月日が経ちボロボロになっていた。しわになった口元は笑っているように見えた。


雨ケ谷が高校三年生になった四月、新しい教師が何名かやって来た。


体育館で全校生徒が集まり、紹介されていく。


その中に一人、見覚えのある男性教師がいた。

会ったことはない。あらゆる写真を繋ぎ合わせて作った顔、右こめかみに二つ並んだほくろ。


動悸がした。


探し求めていた男が、体育館ステージの上で自分を見下ろしている。


「えー、霧生一閃と言います。国語担当です。よろしくお願いします」


雨ケ谷は、瞬きを忘れてその男をじっと睨みつけていた。


こんなに瓜二つな人間は他にいない。母親が証言していた。男が屋敷を出たのは十八の頃、あれから八年経っている。男の年齢は二十六、霧生の年齢も二十六だった。


絶対に犯人はこの男だと確信した雨ケ谷は、今すぐにでも復讐を遂げたかった。


しかし、証拠を突き出して犯行を認めさせ、母親の目を取り戻すのが先だ。


そのために、どう自然に霧生へ近づくか作戦を練る。


唯一得た協力者と共に霧生を監視する。学校では本性を出さないだろう。学校が終わり、彼が帰る場所を特定するため尾行をしたが、母親の言っていた屋敷ではなくごく普通のアパートで独り暮らしをしているらしかった。


毎日一晩中見張るわけにはいかず、またアパートには監視カメラが備わっている。警察は当てにならない。


担任教師ではないため、何かきっかけがなければ接触しにくい。何でもいい、霧生と関わりを持つための口実がほしかった。


白藤を最後に、この半年間眼球盗難事件は起きていない。心を入れ替えたつもりだろうか。今更改心しても許されるわけがない。


白藤と霧生を会わせて検証する必要もあった。しかし、どうやって会わせるか。急ぎすぎてはいけない、チャンスを待つしかない。


三ヶ月が経った夏、待ちに待ったチャンスが巡ってきた。霧生は国語の授業の際、雨ケ谷の逆鱗に触れる発言をしたのだ。



「実は、先生小説を書いているんだ。子どもの頃から小説家になるのが夢でな、今ホラーを書こうとしているんだが中々良いのが思いつかなくて。もし怖い話を知っていたら参考にしたいからこっそり教えてくれよ」


ホラー小説のネタの募集を生徒達に呼びかける。


クラス中が笑い声に包まれる中、雨ケ谷はこれまで感じたことのない憤りを抑えるのに精一杯だった。


この男は、他人の眼球をほじくることに恐れを感じない、むしろこれまで恐怖を感じたことがないらしい。


未だふと聞こえてくる悲鳴、変わっていく母親、出て行った父親。自分がこの男のせいで毎日不安という恐怖に苛まれていたというのに、なぜそんなにも笑っていられるのか。


恐怖を知りたいなら、自分が味わった倍の恐怖を与えてやる。


「霧生先生に相談があって来たんです」


雨ケ谷は霧生に怖い話を持ちかけて、接触した。


必ず、この男は眼球盗難事件に関わっているはずだから。母親の眼球を隠し持っているはずだから。


しっぽを掴んで白日の下に晒し、生まれたことを後悔させてやる。


仕返しにいつか、その穢れた両目を奪い取ってやる。


そう、誓った。












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