フォリアドゥ

定規を眼球に突き刺したのが悪かった。


避けたりしなければ傷つけず綺麗に眼球を取り出せたのに。潰れなくて済んだのに。


えりな姉さんが悪いんだ、咄嗟に避けようとするから手元が狂った。


それから酷い目にあった。


えりな姉さんが僕を裏切って母さんに告げ口した上に屋敷から逃げ出したんだ。


勉強を教えてくれると言ったのに、母さんに二人だけの秘密を全部話してしまった。


おじいさんの書斎の鍵は母さんが管理をするようになったから二度と入れなくなった。


僕は、また箒で叩かれてから地下室に閉じ込められてしまった。


本来、ここは昔防空壕だったらしい。おじいさんもおばあさんも、そのまたおじいさんおばあさんがここに隠れたから生きていられた。


今は彼らの子孫を閉じ込め、命を脅かす場所になってしまっている。


地下室は壁と床がコンクリートでできていてひんやりと冷たかった。


小さな電球が一つ壁に備え付けてある。窓はもちろんない。朝か夜かわからない状態がずっと続いていた。


恐らくだが、一日に一回くらいだ。水の入ったペットボトルと袋に入ったパンを投げ込まれるだけで、その他には何も与えられない。


外の音も聞こえず、鳴るのはお腹の音だけ。


無限にこの時間が続くのかと考えると気が狂いそうになったけれど、できる限りの楽しいことを想像した。


絵本でしか見たことがない観覧車。きっとすごい景色だろう。


大きな街には欲しいものが必ずある。いつか行って、お腹が膨れるまでたくさん美味しいものを食べたい。


皆が持ってる普通の生活を望んでいるだけ。あとは少しの楽しみがあってほしいだけなのに、どうして僕は誰からも愛されずこんな所に閉じ込められているのだろう。


せっかく飲んだ貴重な水を涙で流し出さないように、必死で泣くのを堪えた。


そのうち、自分が生まれた意味がわからなくなって死にたくなった。


自殺をしようにも、道具も何もない。死ぬよりも苦しい時間が続いた。


どのくらい過ぎたのか。チャンスが巡ってきた。


水とパンを投げ込まれた時、雇い人が地下室の鍵を閉め忘れていった。僕は足音を立てずにそっとドアの外に出た。


誰にも見つからないように、階段をあがっていく。


これからどうするかなんて考えてはいなかった。


でも、あのままではきっと死んでしまう。

やっぱり生きたい。意味がなくても、生きたい。痛いのは我慢できても、死ぬのだけは嫌だ。


とにかく、屋敷を出て行こう。もうここに僕の居場所はない。


廊下を真っ直ぐ歩いて行けば玄関がある。人がいたら裏口から逃げよう。雇い人も母さんの味方だから見つかったらお終いだ。


そうだ、綺麗な物を持っていかなくちゃ。


人の目だとわかっても尚、執着心は静まらない。あれだけは傍に置いておかないとだめだ。


いつも僕を慰めてくれたものなんだから。


この先、一人で生きていくための、唯一の拠り所を取りに二階奥の物置部屋へ行くことにした。


その物置部屋には布団が一枚ひけるくらいしか空間がなく、僕はいつもそこで寝ている。布団の下には菓子くずや古い本を隠してある。綺麗な物もゴミ箱から拾って屋敷に入ってからすぐに隠した。


今度見つかったら踏みつけられて潰されてしまう。


息を殺して廊下を歩く。しかし、物置部屋へ向かう途中には父さんと母さんの部屋がある。最悪なことにドアが開いていて、中で二人の声が聞こえた。


「本当に信じられないわ、えりなの目を定規で傷つけたなんて! この間もどこからか人の目を拾ってきたのよ! 今までもそう、ぐちゃぐちゃの猫の死骸を拾ってきて可愛いがったり、指を傷つけて血で壁に落書きしたり…。あの子は人間じゃない、化け物よ!」


母さんの金切り声が響く。僕のことで苛立っているらしい。


「あの子、私が躾で叩く度に上目遣いで笑うのよ! 気持ちが悪い…。叩かれて喜ぶなんておかしいわよ!」


確かに、僕は母さんに叩かれて痛かったけど、躾の時は母さんが僕を見てくれるから嬉しかった。ただ、それだけ。


「とにかくだ、次期病院長になる俺がいかれた息子を持っていると知られたら終わりなんだよ。病院や世間の評判もがた落ちだ。あれは単なる精神疾患じゃない、生まれ持っての悪魔だ。なぜ、俺の子に限ってそうなのか…本当に、俺の子なんだろうか」


「ちょっと、私を疑ってるの? 悪魔と浮気したって? 馬鹿らしい!間違いなくあなたの子よ。でもこうなるとわかっていたなら、お腹を痛めてまで、あんな子産むんじゃなかった!」


僕はこっそりと部屋を覗いた。会話から二人は、僕の存在を心から否定している。嘘であってほしかったけれど、抱きしめられたり愛してると言われたりした記憶がない。


僕は泣きそうになる。地下室を出ずに死ねば良かったと後悔した。


「だから言ったのよ、跡取りは一人だけでいいって。保険のためにもう一人産んだ方がいいなんて言ったのはあなたよ。だから、これはあなたの責任なの。…ねぇ、これからは水や食事を与えるのをやめたらどうかしら?」


「それはさすがに雇い人も黙っちゃいないだろう。この現状を他言しないよう箝口令を出しているので精一杯だ。俺達が子どもを殺したことがばれたら人生終わりだぞ」


「…そうね、だったらばれないようにすればいいのよ」


母さんは、裁縫箱の中から大きな裁ち鋏を取り出した。


その先端が、僕の身体を突き刺さる未来が見えた。


✱✱✱✱✱


授業終了のチャイムが鳴る。と、同時に霧生はテキパキと自分の教科書類を片付け教室を出ようとする。


「それじゃあ授業は終わり。また明日」


「霧生先生いつもの怖い話は?」


生徒が催促するのを煙たがり、そそくさと教室を出る。


「今度だ今度」


今日も、一日が終わる。いつも生徒達は笑っているはずだが、皆白けているように見えた。


それもそのはずだ。目的である怖い話が聞けなかったのだから。


「最近の先生の授業つまらないよな」


教室を出た時、一人の男子生徒が呟いたのを聞く。そういえば空席が目立ってさぼる生徒は増えていた。出席率も悪くなっている。


霧生は自身の株が下がっていることは承知だが、正直それどころではなかった。


白藤美雪の騒動があってからすでに一週間が経過した。彼女は未だに入院しているらしい。何でも、今後は精神科病院へ転院するとか。


もちろん面会制限もあるだろう。あれ以上話を聞くことは叶わなそうだ。


あの日の翌日、霧生は朝早くに職員駐車場で水道水を使って汚れた車内の掃除をしていた。一夜明けて両腕を見ると、白藤が暴れた時にできた打撲痕があちこちにあった。


紫色のそれは人の顔のようで、恨みがたっぷりと込められているように見えた。


すると、雨ケ谷も早く学校へやって来た。目の下にくまができていて、何度も欠伸をして気だるそうにしていた。


「おはようございます、昨日はお疲れ様でした。車、大丈夫ですか?」


「君こそ、白藤さんはどうだったんだ?」


「病院でも錯乱状態ですよ。床に落ちた眼球が拾い上げられたと叫んだり、たくさんの眼球に混ざって自分の眼球もダンボールに入れられたりだとか。終いには身体拘束されて治療です」


「親は?」


「うまく言っておきましたよ、もちろん先生の名前は出していませんから安心してください。僕と遊んでいる時に具合いが悪くなって、親切な人に車を乗せてもらったということで納得してもらえましたし」


あくまで自分とは無関係であると説明してきたようだ。気が利いて機転の利く頭だ。


「百万円のための裏合わせの演技かと思ったよ。まさか本当だったなんて」


「どんだけ人間不信なんですか。ところで、面白いことがあるんですよ」


雨ケ谷は笑みを浮かべてスマートフォンの画面を提示してきた。昨日白藤を撮影した動画だ。


霧生は呆れながら肩を竦めた。


「よく友達が苦しんでいるところを撮影できるな」


「まぁまぁ。ほら、彼女が発狂した時刻、見てください」


「…十七時五十二分?」


「そうです。僕が付き添いをして病院に着いた時、夜間外来に彼女と同じように発狂して運び込まれた人が二人いました。訴えは、白藤さんと一致していたんです」


自分の眼球が、たくさんの眼球にぶつかって床へ落ちていく、と。


「どういうことだ?」


「つまりですね、その訴えをした人達は全員眼球盗難事件の被害者なんです。更に」


スマートフォンの画面はどこかの掲示板サイトになっていた。


どうやら傷害事件の被害者の家族や友人、恋人などが書き込みをしたらしい。


X年X月X日十七時五十三分

Akira:俺の彼女が目のことで取り乱してる。某市内で起きた傷害事件の被害者だ。眼球はもうないのに痛いって言ってのたうち回ってる。ずっと依存しているせいなのか? 幻肢痛に似たやつ? どうすればいいのか誰かアドバイスくれ。


X年X月X日二十時半

Love316:娘も事件の被害者です。同じくないはずの左目を痛がっています。たくさんの目が当たってきて痛いと…。今は夜間外来受診中です。あの事件から不可解なことを言い続けているんです。暗い部屋があって、そこに様々な医療器具とか刃物が置いてあって、本物そっくりの人体模型のようなものもが二体あるようです。右目は現実を、左目はまるで異世界にいるみたいだって。落ち着き次第もうこの街から離れるつもりです。皆さんも気をつけて…。


X年X月X日二十一時三十五分

名無し:姉が、自殺しました。先ほど部屋で首を吊っているのを発見しました。姉は目を抉り取られた事件の被害者です。被害にあった日から不眠症で食事も取らず部屋に引きこもっていました。衰弱死してもおかしくはなかったんです。俺が話しかけてもぶつぶつと独り言を言うだけ。もう見たくない、目を潰してと言っていました。どういう意味かはわかりません。ただ同じ被害にあわれた方も同じように苦しんでいるみたいです。シンクロニシティ、というものなんでしょうか。


シンクロニシティ。偶然の一致。どうやら被害者は同時刻に白藤と同じようなことを言って精神崩壊しているらしい。中には自殺者も出ている。


失くした眼球が、ある特定の場所の風景を映し続けている。


こんなことが、本当にありえるのだろうか。瞳が映した世界を、脳へ情報伝達するための繋がりは途絶えている。医学的に解明できない。


一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有するフォリアドゥというのがある。自分と同じ被害にあった者の妄想を、何らかのきっかけで知り自分も妄想に陥ったと考えるしかない。


「昨日白藤さんがああなってしまった同時刻の被害者達です。まるでThis Manみたいですね。共通点はまだあります。よく読んでください」


サイトに書かれた被害者家族の訴えに再び目を通した。


「彼女、娘、姉、白藤さん。今までの被害者は全員女性なんです」


夜中に道を独りで歩く女性ばかりを狙う。異性に対する執着、もしくは怨恨によるものか、弱い人間を傷つけることで快感を得るのか。いずれにせよ変質者には違いない。


「子どもや高齢者の被害はないんです。犯人は一定の年齢の女性だけを狙っています。これから被害者が増えていけばこの事件のことは全国的にも有名になっていくかもしれません」


白藤が見た風景。どこかの部屋、死体と暮らす男、たくさんの眼球。情報があまりにも少なすぎる。


この事件に深く関われば、いずれ犯人である男にたどり着くかもしれない。


霧生は犯人の男に会いたくて仕方がなくなっていた。


どんな気持ちで、どんな意味があって犯行に及んだのかを事細かく聞き出したい。それを小説にすれば、絶対に上手くいくはずだ。


もしいつか対峙した時は、自身の危険を感じて恐怖に震えることを祈る。


正門が賑やかになり、各々の生徒が登校してきた。朝のホームルームまで時間がない。


「そろそろ教室に行かなきゃ。疲れているので今日は学校が終わったら帰ります。また連絡しますね」


「雨ケ谷は、信じているのか? 本当に彼女達が皆奪われた眼球で同じ景色を見たっていうことに」


雨ケ谷は即座に頷いた。


「信じますよ。だって白藤さんだけじゃないんですよ。僕が直接聞いた証言は」


都市伝説、怪奇現象などの類を信じるタイプの人間なのだと霧生は思った。


しかし、後々にそれは違うということがわかった。


それは彼もまた、眼球盗難の被害者家族だったからだ。



雨ケ谷はあんな出来事があってもなお、この一週間平然と登校してきては、放課後に霧生とだべっていた。


反対に、霧生は内心眼球盗難事件のことで頭がいっぱいだった。だから国語の授業も上の空で、怖い話は一切やめてしまった。


振り返ってみれば、今までしてきた怖い話は全部歯が浮くような、陳腐でくだらないものだった。まるでリアリティのない、雨ケ谷の言う通りつまらなかったのだ。


特に怖い話をやめる宣言をせず、堅苦しい授業をして終われば退室する。そんな様に生徒達は愕然とし、霧生の人気は急降下した。


だが、本人にとってはそれどころではない。


彼にはもはや探究心しかなかった。


こわがることをおぼえるために旅にでかけた男になりきってしまっていると言ってもいい。


事件の真相、つまり恐怖に行き着くまでには一つ一つを調べていかなければならない。


まず、雨ケ谷晴介。彼は事件に関して何かを知っている。


小説を書く協力とはいえ、雨ケ谷の行動には違和感が多い。


白藤が自傷し悶え苦しむ様子を冷静に撮影したこと、まるで発狂するのを待ち構えていたようだった。被害者に対する慈悲は全くと言って感じられない。


だからといって事件の犯人だと安易に決めつけるのは愚鈍だ。


犯人が自ら話を持ちかけるなど危険行為そのものであり、捕まえてくれと言っているようなもの。恐らく雨ケ谷は事件の犯人ではない。


では彼は、何者なのだろう。


雨ケ谷という生徒をよく知りもしないのに距離を近くすべきではないと考えた霧生は、三年二組の担任教師、出雲翔一いずもしょういちに話を聞くことにした。


出雲は身長が低く、顔の輪郭が丸くて小太りで目が大きいため三十二だが幼く見える。性格も真面目で穏やかで怒ったところを誰も見たことはない。だから生徒からいじりの対象として格好の餌食にされていた。


お互いに授業がない時間を狙って霧生は出雲に声をかけた。


「出雲先生、少しお話よろしいですか?」


職員室の机は、ちょうど向かいあっていたので話はしやすかった。運良く周りに教師はいない。


菓子をつまみ食いしていた出雲は、不思議そうな顔をしながら眼鏡の位置を人差し指で直した。


「僕に、ですか?」


「ちょっと気になる生徒がいまして。先生が受け持つクラスの生徒、雨ケ谷晴介についてです」


出雲は「ああ」と頷いて、再び菓子を食べながら雨ケ谷について話した。


「変わってますよね、大人びているというか、冷静沈着というか。何かあったんですか?」


眼球盗難事件に二人で調べているなど言えるはずがない。これまでの経緯を話したところで、信じてもらえず抱腹絶倒されるのは目に見えている。


「いえ、大したことではないんです。先生のおっしゃる通り、同年代の子とはどこか違うなと思いましてね。親御さんの教育が行き届いているんでしょうね」


すると、出雲の顔色がさっと青くなり、焦ったように周囲を見渡した後、小声で霧生にあることを教えた。


「他言無用でお願いしますよ。霧生先生だけに言うんですから」


霧生は前かがみになり出雲に耳を近づけた。


こうもあっさりと教えてくれるとなると、他にも言いふらしている可能性がある。


大体あなただけに教える、というワードは信用できないものだ。悪徳商法や詐欺によく使われる手法なのだから。


「校長、教頭、担任の僕にしか知らないことなんです。彼の両親は離婚していましてね、というのもある出来事のせいで彼は母子家庭になってしまったんです。いや、彼が母親の面倒を見ていると言った方が正しいのか…」


勿体ぶらず誰か来る前に早くしろという言葉が喉元まできたが、我慢して飲み込んだ。


「母親はどこか悪いんですか?」


「彼が学校に入学した時に叔父が代わりに来て聞いたんですがね、母親は随分と昔から精神病を患っているそうです。原因というのがこれまた酷くて。事故で、片目を失ったらしいんです」


霧生は、目を見開いて更に身を前に乗り出した。


「目、ですか」


「ええ、何でも、幼い雨ケ谷君と道を歩いていたら車が歩道に突っ込んだんです。車が突っ込んだ先は店のショーウィンドウで、咄嗟に母親が雨ケ谷君を庇ったおかげで彼は擦り傷程度で済んだみたいですが、母親は運悪くガラスが瞼に突き刺さって、驚いて引き抜いた拍子に眼球が落ちてしまったそうです」


目撃者や警察が辺りをどんなに探しても、落ちた眼球は見つからなかったらしい。


ただ不思議なことに眼球が勝手に移動したように、雪の上に点々と小さな血痕が連なっていたという。


「よほどショックを受けたんでしょうね。それから母親は支離滅裂なことを延々と口走り誰も手がつけられない状態になって、家庭崩壊したそうです。父親は出ていき、母親は精神病棟へ入院。雨ケ谷はこまめに見舞いへ行ってるようです。叔父の援助を受け独りで暮らしているんですよ」


あの年でなんとも過酷な経験をしている。性格が歪んでしまうのも無理は無さそうだ。


「車の運転手は事故で亡くなりましたし、怒りの矛先を向ける所がなかったでしょうに。若いのに苦労してますよね。でも波乱万丈な人生経験をしても真面目に成長したもんですよね」


「身内は本当に叔父しかいないんですか?」


「いや、ここだけの話、噂ですと…」


その時、授業を終えた数学教師の稲垣実雷いながきみらいが職員室に戻ってきた。


彼女は霧生が四月に着任してから何かと世話を焼いてくれるが、時々厚かましく個人情報を聞き出そうとすることがある。自宅のアパート前に姿を見せたこともあったため、ストーカー気質があるのではないかと警戒し距離を置いて関わるようにしていた。


「あら、くっついて二人で怖い話ですか?

霧生先生、最近生徒に怖い話してないから皆退屈ですってよ 」


おほほほと赤い唇で上品に笑う稲垣に苦笑いを返し、霧生は小さく舌打ちする。雨ケ谷に関してまだ聞きたいことはあったが、彼女に聞かれてはまずいので話を中断する。後は可能な限り本人に聞けばいい。


しかし、謎が深まった。雨ケ谷の母親は事故によるもの、眼球盗難事件は犯罪によるものだ。


この二つが関連するのは、どちらも眼球が行方不明だということだけで事実無関係だ。


なぜ、彼はこの話を持ちかけてきて自分と共に調べようとしているのだろうか。


小説にかこつけて自分を協力者に加えて、母親の眼球を今でも探しているつもりなのか。まさか。


眼球は車道に転がり車のタイヤに潰されたに違いない。仮に今でもどこかにあったとしても、腐敗して跡形もなくなっているだろう。


何にせよ、今日も放課後に嫌でも本人と会う。


それとなく母親のことも聞いてみるか。


「そうそう、先生って、小説のネタを集めているんでしょう?」


稲垣は思い出したように話を切り出した。


「まぁ、そうですね。特段怖いのをね」


霧生は軽く受け流したつもりだった。どんなに粧しこんだ美人でも、魅力も興味も眼球盗難事件に向いてしまっているからだ。


稲垣は面白くない反応を向けられ、顔をしかめてから流し場スペースに立った。急須に茶葉を入れ、電気給油ポットでお湯を注ぐ。素っ気ない態度を取られてもなお、構わず舌を回し続けた。


「おばけ洋館、あるじゃないですか。花美丘の上にぽつんと建っている」


霧生の瞼がぴくりと動いた。


おばけ洋館。いつ、誰が名付けたのかわからない、街で有名な心霊スポット。


しかし実際にはちゃんと住人がいる。他人が勝手に立ち入れるわけではない。


おばけ洋館。そう呼ばれてしまうのは、荒れ果てた庭に倒壊しそうな建物で、おばけが住んでいてもおかしくない見てくれだからだろう。


市の職員が実態調査のため何度も訪ねているらしいが、住人の姿が見えず鍵がかけっぱなしだとのことだ。


「私の弟の友達が見たらしいんですよ」


稲垣の弟の友人は敷地内に無理矢理侵入したようだ。


「何を、見たんです?」


怯え気味で出雲は尋ねる。


「真夜中に肝試しをしたそうなんです。住人がいてもいなくても敷地内に入るのは犯罪ですけど内緒で。庭から探索したらしいんですけど、外に小屋があったりトイレがあったり、とにかく古びて汚れていてひどい有様だったって。屋敷内を窓から懐中電灯で照らしたら、荒れた一室に長いテーブルとたくさんの椅子が並んでいて、奥に人影があったんです。よく見るとそれは」


首が半分切れて、頭が取れかけた人間だったって。


「ひいっ」


出雲は大袈裟に驚いて机の上に置いたマグカップを倒し、コーヒーを床に零した。


「ちょっとぉ、ビビり過ぎじゃないですか」


稲垣は得意気にケラケラと笑った。


霧生は、笑わなかった。


「それで、どうなったんですか?」


二人がティッシュペーパーで床を拭き取っている頭上から、話の続きを強請る。


稲垣は瞬かせながら声の方を見上げる。


「やだ、霧生先生ったら真剣になって聞くんですね。生徒に話しちゃだめですよ」


「いいから!」


茶化された霧生は余裕がなく、質問の問いを催促する。


大きな声を出された稲垣は驚きながら続きを話す。


「…弟の友達は一目散に逃げたみたいですよ。警察に通報しようにも、それが本物の人間なのか、もしかしたら人形か、恐怖心が見せた幻覚だったのかもしれない。自分が不法侵入したことが、ばれるから黙っているんですよ。全く、教育が行き届いてないっていうか」


稲垣は笑って誤魔化し、出雲は額の冷や汗をハンカチで必死に拭っていた。


しばらく沈黙が流れ、気まずい空気が漂う。


こほん、と咳払いが響いた。


「霧生先生、どうしたんですか? 表情が優れませんよ」


出雲の言う通り、霧生の表情は強ばっていた。


「いや、世の中物騒ですからね。子どもが危険な目に合わないよう見守るのは教師の役割ですから。弟さんの友達によく言い聞かせた方がいいですよ」


上手く笑えているのかわからないが、霧生は内心秘めたわだかまりを悟られないよう細心の注意をはらった。


それでも、二人の目にはどう映っていたのだろうか。


まるで、恐ろしい物と対面するように、霧生の顔を怯えた目でじっと見つめていたのだった。








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