闇夜に烏、雪に鷺


綺麗な物を拾った日からしばらく経った。


食べ物を食べず、薄着のまま外で冬を越せないことはいくら馬鹿な僕でもわかった。だから父さんと母さんに何百回も頭を下げて地面に額を擦り付けて、嫌々許しをもらった。


また、僕にとっての平凡な日々が戻った。


家族に相手にされず、席を離されて壁を向いたまま雇い人が作った料理を食べる。背後では両親と兄が楽しそうに会話をする声が聞こえた。


以前、こんな仕打ちはおかしいと雇い人の一人が声をあげてくれたけど、善意は虚しくすぐ両親にクビにされてしまった。


家で働けば、そこら辺で働くよりも高い給料をもらえるらしい。


だから今働いている十数人の雇い人は、父さんと母さんに何も口答えができない。だから優しい人は二人がいなくなった隙を狙って内緒で僕と遊んでくれた。


父さんと母さんは医者の仕事に行き、兄さんは小学校へ。僕は学校に行かせてもらっていないから屋敷にいるか街をぶらぶらするか雇い人に遊んでもらうかだ。


「坊ちゃん、私が勉強を教えてあげましょう」


大学に通いながらここで働いている雇い人のえりな姉さんはいつも優しい。


皆の目を盗み、僕はこっそり二人で使われていない小部屋に行く。


昔はおじいさんの書斎だったらしく、机や筆記用具、本棚などがそのまま残されている。


えりな姉さんは持参したノートと小さい時に使っていた教科書を机の上に広げてたまにこうして勉強を教えてくれる。


おかげで学校に行かなくても色んなことを知った。


勉強の合間には世界のことも教えてもらった。


街を出て東にずっと行くとテーマパークがあって、そこの観覧車に乗ると海が見える。


街を出て西に行くと、もっと大きな街があって欲しいものは何でも売っていること。


生まれてから一度も街を出たことがなかった僕にとってえりな姉さんから教えてもらうことは、全部が新鮮だった。


「観覧車ってどんな乗り物?」


「丸くてカラフルな乗り物がゆっくりとどんどん上に向かって登っていくの。てっぺんに着くととても景色が綺麗よ」


「海は、どんな場所なの?」


「広くて深い水の中にたくさんの魚が泳いでいるの。水は塩っぱいから飲めないけど、とても綺麗な場所よ」


「僕が食べる魚はいつも腐りかけで皮ばかり付いているから、身がたくさん入った新鮮な魚を食べてみたいな」


雇い人が悪いわけじゃない、母さんに命じられて無理やり作らされているのを僕は知っている。僕は残飯を食べるので十分だ、と口癖のように吐くのだ。


だから雇い人を責めるつもりはなかった。それなのに、えりな姉さんは一筋の涙を流していた。


「ごめんなさい。えりな姉さんは悪くないんだよ」


悪いことをした気分になって慌てて謝るけど、えりな姉さんは首を横に振った。


「いつか、大人になったら坊ちゃんはこの街を…この屋敷を出た方がいいわ」


薄汚れて身体中が臭うのも構わず、えりな姉さんは優しく僕の頭を撫でてくれた。


一時の幸福感。これで満足していれば、えりな姉さんが遠くの離れていくことはなかった。


この時、えりな姉さんと目が合ったのが、いけなかった。


あの拾った綺麗な物と同じものが二つ、窪みの中におさまっていることを知った。


衝撃が走り、心臓がどきどきした。


なんて、なんて綺麗なんだろう。


そうか、僕が先日拾ったあれは、人の目だったのか。


どうしても、手に入れたい衝動がとまらずよだれが溢れ出た。


過度の飢餓状態と同じだったんだと思う。


自分の衝動を抑えることができなかった。


「坊ちゃん?」


僕はえりな姉さんの微笑みに幸せを感じながら、机の上のペン立てから三角定規を手に持った。


それを、力いっぱいえりな姉さんの下まぶたに差し込んだ。


✱✱✱✱✱



その日の放課後、霧生は校庭傍の屋外水道で水をバケツいっぱい溜め込んだ。


無心にそれを、頭の上から思い切り被る。


全身の毛穴が塞がり、産毛は逆立った。


あまりの奇行に、校庭で部活をする生徒達は腹を抱えて笑う。


「先生! アイスバケツチャレンジですかー?」


霧生は愛想笑いをしながら手を振った。


あのグリム童話の男は、冷たい水を浴びることで血管の反応を刺激し血管収縮を起こして震えただけだ。恐怖とは全く違う。馬鹿馬鹿しい真似をした。


体育館裏に移動して、ワイシャツを脱いで水を絞りながら、雨ケ谷晴介という謎の生徒のことを考える。


放課後にまた話をする約束をしていた。


せっかく怖い話を提供してくれるというから、これは喜ばしく有り難いことなのだろう。


しかし、あの生徒と向かい合って話をすると緊張してしまう。蛇に睨まれた蛙というのだろうか、たかが会話をしているだけで心臓を掴まれた気分になる。


怖い、とは違うと思う。自分のことが何でも見抜かれているようなあの鋭い目に嫌悪感があった。


彼もまた、こちらに対して負の感情が漂っている気がした。


そう、警戒しているような。身に覚えのない因縁をつけられているような。


「わぁっ!」


突然、背を叩かれる。霧生は身体を跳ねさせてから振り返った。雨ケ谷だった。


「こんなところにいたんですね。びっくりしました?」


「びっくりはしたが、驚くのと恐怖は違う」


「それはそうですよ、水を被るよりただのボディタッチで恐怖心を取得されても笑えません」


水を被る様子をどこかで見られていたらしい。無邪気な一面にたじたじしてしまう。どうもこの生徒は読めない。


雨ケ谷の隣には右目に眼帯をした女子生徒が立っていた。制服は、当高校のものではない。街中で見たことのある他校の制服だ。彼女は長い前髪で眼帯を隠すようにして、その表情は曇っていた。


「先生、昼休みに話していた子だよ」


なるほど、事件の被害者か。


先ほど、雨ケ谷は化学室を去る際にある奇妙な事件について思い出したように、踵を返して少しだけ話した。


「そういえば先生、この街で起きた目を盗まれるという事件はご存知でしょうか?」


テレビや新聞では大きなニュースにはなっていないが、この街では人の眼球を狙った傷害事件が数年前から起きていた。


刃物のようなものを眼窩に差し込み、眼球をそのままくり抜き出す。人目の少ない夜間に決行するらしいが、真っ暗闇の中で的確にその手技ができることから、犯人は夜目がかなりきいているかつ、犯行に慣れているようだ。職員会議でも話題に出て全校生徒に注意を呼びかけたことがある。なんとも悪質な事件だ。未だに足取りも掴めない。人の仕業ではないのではないかと囁かれている。


「今までの被害者は十人くらいです。幸運にも死者は出ていません。巷では眼球盗難事件と呼ばれていますけど」


「その事件がどうした?」


「実は、僕の友達の友達が被害者なんです。歳が一つ下の女の子なんですけど、ちょうど今日本人と会う予定なんです。良ければ、先生もどうかなと。話聞きたいでしょ?」


小説を書くにあたり、語彙知識や題材となる情報源を入手するのは必須だ。しかし、被害者本人から小説のネタになりそうなものを聞くことができるとは夢にも思わなかった。


それに了承したのか、上手く言いくるめられたのか被害者はこうして霧生の元にやって来た。


名前は、白藤美雪しらふじみゆきといった。まだ、十七歳の若さで半分の光を失ってしまった。


教育者という立場上、趣味の一環のためだからと言って傷心した者の傷口を広げるような真似も、警察のように事情聴取をすることも本来ならしてはいけない。だからこそ、公にせず、無理なく慎重に話を伺っていく必要がある。


「それじゃあ、行こうか」


霧生は職員室に荷物を取りに戻った後、自家用車に二人を乗せ街中へと走らせる。


バックミラーを見やると、白藤は窓ガラスにこめかみを当てて虚ろげに外を眺めていた。残された左目の瞳は黒く大きい、けれども死んだ魚のように濁っていた。


霧生は一つ咳払いをする。


「白藤さんは、何か食べたいものはある?」


運転しながら霧生が尋ねるも、白藤は静かに首を横に振る。


「先生の奢りなら食べたいものたくさん浮かぶんじゃないですか?」


助手席に座る雨ケ谷は茶化すようにそう言った。


「もちろん奢るさ、こうして時間割いてもらってるんだから」


それからは他愛のない話をべらべらと一人で喋った。自分は会話術には優れていて、初対面の相手でもすぐ打ち解けてもらえるタイプの人間だと過度な自信があったのだが、そっけなく相槌を打つだけの白藤に疲れてしまい、やがて喋るのを諦めた。


時刻は十七時前。夕食をしながらできる話でもない。どこで、どうやって切り出すべきか。雨ケ谷は話題をふらず、ずっとスマートフォンをいじっている。紹介者がこの有様では進展がないではないか。行先も決まらないまま無駄に車を走らせた。


街中の道路は帰宅ラッシュで車が渋滞し、何度も赤信号につかまった。この沈黙した気まずい雰囲気を和ませるためにどうでもいいような話を再開するが、二人の反応は薄く、霧生は疲弊し再び黙り込んだ。こんなことなら帰っておけば良かったと後悔する。


長い沈黙が続いた後、白藤は消え入りそうな声でやっと話し始めた。


「私の右目、どこに行っちゃったんでしょう」


霧生は何と言葉を返してよいのか困ったが、これをチャンスに変えて、カウンセラーをするように事件のことを尋ねた。


「夜中に、被害にあったと聞いたけど、どんな状況だったんだい?」


接着剤でくっついていたような閉ざされていた唇がゆっくり動いた。


「半年前のことでした。塾の…帰り道だったんです。時刻は、二十一時を過ぎていました…。家から数メートルなので歩いて通っていたんです。帰り道、X市民公園の前を通った時、…茂みから影が飛び出してきて、すぐ右目に違和感を覚えました。…ただでさえ暗いのに、右半分が尚更暗くなって…。次に激痛が走りました。蹲って右目に触れると、空洞が、あって…そこから生温い血が溢れていました。意識は、途切れてしまって、気がついたら病院のベッドに寝かされていました」


本やネットで入手した恐怖体験より、当事者から聞く実体験の方がリアルティがあり、生々しかった。


「それは、最悪な出来事だったね。犯人の特徴とか、手がかりは掴めていないのかい?」


「霧生、先生でしたっけ?」


白藤は眼帯を外し、負傷した右目の部分を顕にした。霧生はよく見るために車を一旦路肩に寄せてハザードランプを点滅させ停車した。曇り空のせいで、夏だというのに辺りは薄暗かった。


後部座席を振り返る。霧生は彼女の顔を見て驚いた。


白藤の眼帯の下には、当たり前のように眼球があった。だが、微動もせず瞬きもしない。それは人工的に造られた物が埋め込まれているらしい。


「眼窩エピテーゼっていうんです。シリコンで造られてます。…目を抉られた時、周りの皮膚も剥がされたので、義眼と周辺の皮膚を再現してもらいました」


極自然な顔だった。これほど再現度が高く違和感を感じなければ眼帯をする必要はないのではないか、そう言いかけた時だった。


「私の右目は、まだ生きているんです」

今までとは裏腹に、凄みのある低い声で彼女は不可解なことを訴えた。


「生きている、というのは?」


「ずーっと、見えっぱなしなんです。想像できますか? 私の右目を持っていった犯人は、人間じゃありません。だって、常に映しているんですよ。私の右目は。水に入れられて、ガラス瓶の中から、目を逸らせずに見せられているんです。寝ている時も、食事をしている時も、ずっと…ずーっと。視神経が途切れているのに、こんなことって」


何かおかしい。白藤は発狂寸前のように見えた。


雨ケ谷は至って冷静に、後部座席に座る彼女を見守っている。


この事態に、この冷静さは異常だった。


二人を交互に見た。


もしかしたら、これは自分を怖がらせるための茶番ではないかと霧生は疑った。


事件の被害者など嘘だ。この少女も、結局小説の賞金が目当てだからこんな風に手間をかけてネタを作ろうとしてくれている。そう思うとこの演技力さえ可愛らしい。うっかり笑みが零れそうだった。せっかくの二人の芝居に付き合ってやることにした。


「そうか、一体何が見えるんだ?」


内心微笑みながら問いかけると、白藤の身体は小刻みに震え出した。


「薄暗い部屋の壁に、たくさんの凶器が飾られています。床には、血がこびり付いたナイフが落ちている…。部屋の主は、毎朝男女の死体をどこかに持って行っては、毎晩ベッドの脇に寝かせるんです。まるで、死体と生活しているみたいに…」


盗られた眼球は液体の中でぷかぷかと浮いていて、少しの振動で動く。そうして視点を変えることができるらしい。霧生は聞き逃すまいと懸命にメモを取った。フィクションではあるが、小説のネタに使えそうだ。しかしそのまま書いてしまえば、ゴーストライターを使ったことになるので部分的にアレンジしなくてはいけない。


白藤は続ける。


「この部屋は、何なんでしょう。…この人、彼は、何で死体と一緒に生活を…。私は目を背けることも、瞼を閉じることもできない。あ…食事が始まりました。ボロボロの机に料理が乗っています。彼は死体に食事を食べさせようとしています…。うっ」


白藤は口を手で押さえながら前かがみになり、嘔吐した。


さすがに霧生はペンとメモを放り投げた。


「おいおい! 大丈夫か?」


霧生は慌てて運転席を降りて後部座席へ移動し、ティッシュペーパーを白藤に渡す。

白藤は吐瀉物まみれの顔で涙を流していた。演技でここまでできるだろうか。


「し、死体なんて、首が半分以上取れているのに、口に食事を突っ込んで、首の隙間からボタボタと、落ちて。…あ、あぁ! 彼が怒って暴れています! 家具を殴ったり蹴ったりして…」


白藤は過呼吸を起こし、胸を押さえて苦しみ始めた。暴れるせいで車体が大きく揺れる。


「落ち着いて! 雨ケ谷! 救急車呼んでくれ! 動画なんて撮ってるんじゃない!」


雨ケ谷は尚も冷静で助手席からこちらをスマートフォンで録画している様子だった。


友達の友達が、ただ事ではない状況にあるというのに。


一体、彼女には何が見えているのか。


「棚から大量の眼球が落ちてくる! かえるのたまごみたいに! 私の、目が入ったガラス瓶に! もういやぁっ! 助けてえぇ!」


白藤は自身の顔を掻きむしった。よほど強い力で掻いたせいで傷だらけになり血が流れ出た。身体を跳ねさせたり両足をばたつかせたりと暴れる。その時顔から何かが落ちたが、気にかける余裕はない。


「先生、救急車来ましたよ」


白藤の絶えない悲鳴で気づかなかったが、いつの間にか救急車が目の前に止まっていた。雨ケ谷が知らぬ間に呼んだらしい。


「この子が患者ですね? 名前は? 年齢は? もしもし、わかりますか?」


「あ、ああ、ええと」


霧生は混乱して救急隊員の質問に答えられず、代わりに雨ケ谷がテキパキと答えた。


「白藤美雪、十七歳です。突然嘔吐して苦しみがりました」


「わかりました、近くの病院に搬送します」


暴れ続ける彼女を救急隊員が数人がかりで素早く運び出す。


霧生は血と吐瀉物で汚れた両手をだらんと落とし、何もできなかった。救急車の光を呆然と眺めていた。すると、雨ケ谷は外に出て窓を叩きながら声をかけてきた。


「僕が付き添いをしますよ。先生は車がありますしね。この子の家族にも連絡しますから。じゃあ、また明日学校で」


雨ケ谷は淡々とそう告げて、救急車のサイレンの音と共に遠ざかっていった。


一人、残された霧生は頭の整理をするので精一杯だった。胃液と鉄の臭いがこもった車内にいつまでもいるわけにはいかず、とりあえず自宅に戻ることだけを考えた。このまま臭いを嗅いでいたら自分まで吐いてしまいそうだ。


怖くはない、それより、白藤がずっと話していた内容が果たして事実だったのかが気になって仕方がない。


取り出された眼球が、未だに機能していること。そんな話、有り得るだろうか。


男女の死体と生活するあの人、確か彼と言っていた。彼女には男に見えたのか。


棚から降ってくる大量の目玉。


もちろん、救急車で運ばれた白藤のことは心配だが、それよりも小説を書くためにもっと情報を得られるかどうかの方が心配だった。


白藤は精神の病を持っている可能性もあり、作話であることも否定できない。


頭が混乱している。情報が早くて短くて、少なすぎる。


まずは話が真実だという証拠があればいいのだが。


そんなことを考えている途中、霧生ははっとした。


やはり、思った通り、自分は目の前で人が苦しんでいても恐怖を感じることができない。むしろ生命に関わらない小説のことで頭がいっぱいになっている。


実際に体験したことで、秘められていた冷酷さが顕になってしまった。


「俺は、やっぱり…」


しばらく、自分の異常性に悲観した後、霧生は運転席へ戻ろうとした。


すると、足元に何かが落ちていることに気がついた。先程白藤が暴れた拍子に落ちたものだろうか。


車内の電気を点けてそれを確認する。


目が合い、硬直した。不思議なものがそこにあった。


汚物の中に落ちていたものは、人間の顔の一部だと思った。眼球とその周辺の皮膚のようなものだ。


手に取ってみるとそれは、柔らかいシリコンで作られたものだった。


眼窩エピテーゼ、白藤が言っていた。あれは、演技などではなかったのだ。


「はは、ははは」


霧生はあの話が本当であったという証拠を手にし、歓喜と悲哀が入り交じった複雑な感情の中笑った。


自分は、感情が普通ではないのだと認めざるを得なかった。


人工的に造られた目が、持ち主の代わりに霧生を睨みつけているように見えた。






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