第3話

 それからのんべんだらりと午後の授業が始まって、終わった。


 五限と六限のインターバルでお姫様抱っこしたままお手洗いまで行くという暴挙に出たが、「落としたら危ないからやめなさい」と生徒指導部主任から注意されただけだった。なんか今日は正論いっぱい言われるなぁ。傷つくなぁと思った。


 そして帰りのホームルームが終わり、クラスメイトが各々家路に着く。俺と留美も下校する。


 取り合えず留美には右手に抱き着いてもらった。留美が車道側になりそうだったのでやっぱり左手にしてもらった。毎回間違えるので俺は記憶力がそんなよくないのかもしれない。


 だが誰も何も言わない。近所の人たちですら一瞥さえくれない。

 もしかしたらこのままお姫様だっこしても気づかれないのではないかという欲望が鎌首をもたげたが、そうすると留美にも迷惑がかかるのでやめておいた。


「とーやくん」

「ん?」

「あのね。張り切っているのわかるんだけど、私たちがいましていることは、付き合い前からやっていたことなんだよ」

「いや、それはそうかもしれないけど、付き合う前と後とじゃあそこの意味合いも変わってくるだろ」

「うん。でもね、前に私が後輩の子に告白されたことあったよね。そうしたらとーやくん飛んできて、後輩の子追い払ったことあったよね」

「うん」

「それはね、一般的には彼氏の行動になるんだよ。だから私ずっととーやくんが彼氏だと思ってたんだけど、違うの?」

「そういうつもりは、なかったな……」


 思い返せばどうして後輩を追い払ったのだろう。

 考えてみると、俺はいつも留美が他の男と話しているのを見かけると、苛立つような心持ちになっていた。


「とーやくん、中学の時に女子バレー部の子に告白されてたよね」

「ああ。なんか二階から留美が飛び降りてくるから驚いたな。足大丈夫だったのか」

「心配してくれてありがとね。それはね、私の彼氏につばを付けるなっていう意味だったんだよ。その後抱き締めて、頭撫でてもらったよね」

「足が痛かったのかと思ってた。だから帰りタクシー呼ぼうとしたんだが……」

「うーん、タクシーって結構高いよね」

「知るかよ。留美が足痛いかもしれないのに無理なんかさせられるわけないだろ」

「うん。そういうとこすっごく好き」


 留美は俺の肩口に額をこすりつけてきた。俺は彼女の髪を右手で梳いた。コンディショナーを変えたのか、指先には新鮮な香りが残った。


「それにね、パパとママが私のこと邪険に扱いだした時、怒って家まで乗り込んで直談判してくれたのもとーやくんだったよね」

「ああ。だっておかしいだろ。例え養子だろうがお前は橋本家の娘なんだ。自分たちの都合で引き取っておいて、いざ子供が出来たから優先度を下げるってのは虫が良すぎる。留美の気持ちなんてこれっぽっちも考えていない。納得できなかった」

「うん。すっごくすっごく救われた。だから私感極まってキスしちゃった」

「驚いたな」

「とーやくん抵抗しなかったよね」

「うん。嬉しくて思考停止してた」

「その後、次の日から手をつなぎだしたよね。でもとーやくん嫌がらなかった」

「愛情に飢えてるのかって思ってた」

「……」

「留美?」


 彼女はやおら俺の腕を放した。遠ざかった体温を即座に北風が冷ましていく。切なかった。


「鈍感」

「る、留美?」

「ばか。ばか。鈍感の極み。とーやくんのバカ。唐変木。朴念仁」


 留美は立ち止まると、つま先を地面に叩きつけた。


「……うん、そうだな。なんか麻痺してたみたいだ。ああ、そういえばキスしてたな俺たち」

「放課後にいっぱいデートも行ったよ。去年……一年生の頃なんてほぼ毎日行ってた」

「あれは」留美との関係性を測ろうとしていた、ではもう通らない。留美は確実に憤慨している。普段はクールな彼女が明確な怒りを見せるのは珍しかった。


「とーやくん、そのあとはめっきり誘ってくれなくなった。寂しかった。源さんにもたくさん愚痴った」


 そういえば俺は去年、源さんからやたらと敵視されている時期があった。

 留美と仲良くしなさいと提言されたので、とりあえず今日みたいに一緒に帰るようにしてみたら、女子陣営から向けられる敵意はめっきりと止んだ。あれは何だったのだろうと疑問が蟠っていたが、なるほどそういうことだったのか。


「……そっか」


 留美は俺が思っている以上に俺のことが好きだったんだ。


 認識した瞬間、なんだか胸の奥からじんわりとした温もりが広がっていくようだった。

 いつも留美といると感じていたもの。

 あるいはこういう感覚をときめきやロマンスなどと形容するのなら、無味乾燥としたもののように感じられて当然だ。


 何故なら俺は、留美と一緒にいることで常に満たされていたのだから。満腹の腹に、これ以上の旨味を詰め込むことなどできない。


「すまなかった」


 俺は直角に頭を下げる。土下座してもよかった。

 いや、しなくてはいけなかった。


「いいよ」

「留美がそんなに思い詰めてたなんて気づかなかった。ほんとごめん」

「とーやくん鈍感だからしかたないよ」


 俺は彼女の両手を取って立ち上がらせると、そのまま抱き寄せた。彼女は抵抗しなかった。ただ静かに俺の抱擁に身をゆだねていた。


 しばらくそうしていると、彼女の方からも俺の背中に腕を回してきた。一瞬ドキッとしたが、彼女の手は何かを確かめるように肩甲骨あたりをさすっているだけだった。


「とーやくん、行動力あるし勉強も苦手じゃないけど、なんか変な解釈するのわかってたから」

「……悪い。いや、病気とかあるわけじゃないんだ。ただ、ほんと、麻痺してただけっていうか、理解したら恥ずかしさが後になって湧いてきたっていうか……」


 違う。俺はぴしゃりと己を否定する。俺が留美に対してかけなければならない言葉はこんな自己弁護めいた情けないものじゃない。


 改めて言うと、それはすごく羞恥を伴うことのように感じられた。火照った体を北風が冷ましていくも、それは先ほどのように寂しい孤独な感覚じゃない。心地よかった。


「……」


 留美の黒真珠のような瞳を覗き込む。

 虹彩の向こう側に煌めく感情、それらすべてが無言のまま伝わってくるかのようだった。


「橋本留美さん」

「……はい」


「生涯を掛けて幸せにする。俺と付き合ってください」


 答えは言うまでもないだろう。


 留美の冷たい美貌。その向こう側にあった何よりも温かい一滴を拭うと、彼女は小さく微笑んだ。

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