第2話
全員客が出払ったシアターで一人、俺は椅子にもたれかかっていた。もたれかかるというより、腰を抜かす、に近いのかもしれない。観終わった映画のあまりの迫力と内容の良さに、度肝を抜かれてしまったのだ。
はじけきれなかった堅いコーンだけが残ったポップコーンの入れ物を持って、シアターを出た。
知らず知らずのうちに漫画を描くのをやめた俺がいる一方で、あんなにすごい映画を作る人がいるのだ。監督の年齢は27歳。俺と6歳しか違わない。もしずっと漫画を描いていたとして、俺は6年後にあんな作品を作れただろうか。
久々に描いてみようかな。筆を置いてもう長いが、あの映画を観てから落ち着けないでいる。ワクワクというかソワソワというか。居ても立っても居られなかった。
ショッピングモールの閉店時間を過ぎているからか、入ってきた時とは違う通路に案内されて、非常階段のようなところに行きついた。俺は駆け足で下った。鉄製の階段がカンカンとなる。高い音だ。その音で余計にワクワクした。この音を漫画でどう表現しよう。なんてことを考えながら、息が切れるのも気にせずに小走りでショッピングモールを出た。
外に出るとその寒さで少し冷静さを取り戻した。
このまま帰っても描ける環境にない。鉛筆とボールペンくらいならあるが、画用紙なんて一枚も持ってない。さっき、あの画材店で変な感傷に浸ってないで、ちゃんとしたものを買っておくべきだった。当然ながらショッピングモールが閉まってしまったため、あの画材店も開いていない。
コンビニに画用紙は売っていただろうか。最悪コピー用紙だってなんだっていい。まあ、それすらもなかったら講義用のノートを使ってしまおう。
コンビニに寄ると少し遠回りになるが、今の俺にはそんなことなんの枷にもならなかった。
コンビニの明かりに吸い込まれていく俺は、傍から見たらさながら蛾のようであるだろう。明るい店内が目の奥を刺激して涙が出そうになった。自動ドアを抜けてすぐの棚を曲がって文房具が売っているコーナーに向かう。どうして世の中のコンビニの文房具売り場はお菓子売り場の隣にあるんだろう、なんてことを考えながら目当てのものを探す。ちょうどスケッチブックが一冊だけ残っていたので、それを手に取った。どこでも見たことがあるような、あの黄色と深緑のスケッチブックだ。
きっと今日は漫画に夢中になって寝れなそうだということが容易に想像がついたので、景気づけにエナジードリンクも買っておこうと、文房具売り場を離れてドリンクのコーナーに足を向けたその時。
衝撃。
何かが落ちる音。転がる音。
「きゃっ――」
人とぶつかってしまったのを理解したのは一瞬だった。それが女性だったということも、声ですぐに分かった。
「すいません」
俺は日本人らしく、すぐさま謝罪を口にする。見ると、女性は酒を買い込んでいたのか、床には酎ハイの缶が散乱していた。それと何かの封筒も落ちてしまっていた。
「すいませんっ……」
女性も小声で言うと、すぐさま床の缶を拾い出した。缶を拾う彼女の頭は全頭の金髪で、その金髪を俺はどこかで見たような気がした。
俺も何か拾ってあげなければと思って、腰を屈めて酒と一緒に落ちてしまっていた封筒を拾い上げた。その封筒にはやはり見覚えのあるロゴが書いてあった。
「あれ、これ」
俺は思わず口に出してしまって、咄嗟に口を噤んだ。彼女が落としてしまった封筒は、あの画材屋のものだったのだ。
「え?」
俺のつぶやきは彼女に聞かれてしまったようで、しゃがんで下を向いていた彼女が顔を上げた。
「あ」
その金髪の隙間から覗いたのは、ついさっきショッピングモールですれ違ったあの美女だった。どうりでこの金髪に見覚えがあるわけだ。
「えっと、なにか」
あまりにも俺がまじまじと見過ぎて、彼女に不信感を与えてしまったらしい。はっと目を反らし、俺は立ち上がった。
「ご、ごめんなさい」
俺の声は上擦っていた。手の中の封筒を見る。封筒の口は落ちた拍子に開いてしまっていて、その中身が見えてしまった。
スクリーントーン。それがその封筒に入っているものだった。白黒でしか表現できない漫画の色の濃淡を表したり、柄とかの効果を与えてくれる代物だ。俺も漫画を描いていたころに使っていたからすぐに分かった。
「あの……」
「あ、すいません!」
立ち上がった女性が困ったような顔をして俺を見ていた。しまった、この封筒を返さなきゃ。
俺は封筒を突き出すようにして彼女の胸に押し当てた。
拳にむにりと柔らかい感触。
「ああっ! ごめんなさいごめんなさい!」
突き出した俺の手が彼女の胸を触ってしまっていて、脳内がパニックになった。封筒を渡してすぐに手をひっこめる。拳に残った柔らかい感触の余韻に浸りながら、俺は乾きつつある口を開いた。
「あの、漫画、描くんですか?」
スクリーントーンを買うってことは。そんな簡単な推理をして、彼女に聞いてみる。もし書くんだとしたら、話を聞いてみたい。なにかまた描き始めるとっかかりになるのではないかと思った。
「……はい。よくわかりましたね」
そう言って、彼女はこの日初めて微笑んだ。
「俺もそこの店でそのトーン買ってたんで」
トーンを買うと封筒に入れてくれたのを思い出した。昔は小遣いを余計なものに使ってしまって、トーンもあんまり買えずにケチケチ使ってたっけ。
「え、漫画、描くんですか?!」
さっきの俺と似たような質問は想定外の大音声で、コンビニ中にその高い声が響き渡った。漫画の話に食いついてくるのを見るに、この人は相当に漫画が好きなんだろうな、と勝手に想像する。
「ええ、まあ、昔ですけどね」
「そうなんですね!」
さっきまでとは一転、満面の笑顔の彼女がまぶしい。俺もそんな笑顔の彼女につられてしまい楽しくなって口が勝手に動き出す。
「大学生ですか?」
彼女がそう俺に問うた。俺は頷いた。
「すぐそこの国立の……」
「えっ! すごい! かしこい!」
この反応で、この人はウチの学生ではないんだなということが分かった。ウチの大学は地方国公立で、この県では一番偏差値が高い。だからか、やたら地元の人間は賢い賢いと褒めたたえるのだ。受験でさんざん学歴がどうとか気にしていたから、こんなにも無条件で褒められるとどうにもむず痒い気持ちになる。
しかし、イエスかノーかで答えられる質問にわざわざ『国立の』とか言ってしまうあたり、俺もどこかで承認欲求を満たしたい気持ちがあるのかもしれない。
「そういう君は……」
「あ、私、佐藤キョウカっていうの。キョウカでいいよ」
「キョウカ……」
「うん!」
名前がわからずに君と呼んだが、すかさずに自己紹介をされて、彼女の名前を反芻する。
「私は向こうにある芸大に通ってる!」
「え、すげぇ」
芸大生。それだけでなぜだかすごいと思ってしまう。受験では偏差値しか気にしていなかった俺の常識の埒外。テストの点だけでは決められない世界に、少しだけ憧れがあったのかもしれない。まあ、そんな憧れも漫画をやめたときに捨ててしまったのだろうけど。
「ね。君の名前は?」
キョウカが俺の顔を覗き込んでくる。そのあまりの顔の造形の良さに俺は思わずたじろいだ。
「あ、俺、石森タイガ」
「タイガね!」
俺が名前を告げると、キョウカはうんうんとなぜだか満足げに頷いた。
俺はまだ商品をレジに通していなかったことに気がついて、レジの方へ体を向けた。
「レジまだだった」
「あ、私も」
レジに行こうとするとキョウカも隣に並んでついてきた。
レジで会計を済ませた後もキョウカはついていて、俺と話したそうにしているのが無性に嬉しかった。漫画を描く話ができるということと、さっきショッピングモールで気になった美女と一緒に居られるという下心が混じった喜びを胸に抱えて、俺はキョウカの歩幅に合わせた。
「タイガはさ、友達に漫画描く人っている?」
「いや、全然いないかな。そんな話聞いたこともないや」
そんな会話をキョウカと交わす。
「私の友達も全然居ないの!」
「え、そうなのか? 芸大なんていっぱい居そうなのに」
「それがね、みんな描くのやめちゃったりとか、描く描くーって言ってずっと書かない人とか。そんなんばかりだよ」
「へぇ、意外だな」
芸大ならば、ただの国公立のうちの大学よりも漫画を描いているヤツなんていっぱいいると思っていたが、案外そうでもないらしい。
「まあでも、俺も一回描くのやめてるんだよね」
「あっ、そうなんだ。あー、だから昔って言ってたのか」
「そうそう」
俺が今描いていないと分かったからか、それ以降キョウカの方から新しく話題が振られることはなかった。しかし、いきなりここでバイバイというのも気まずいのか、俺たちは無言のまま夜の道を歩いていた。
俺はそんな状況が嫌で、今年一番の勇気を振り絞って、口を開いた。
「あのさ、俺、もう一回描き始めようと思うんだよね」
背中が熱かった。ふつふつと毛穴が沸騰するようで、汗が噴き出した。こんなことを人に言うのは初めてだった。
「そうなの?! いいジャン! どんなの描くの?」
「いや、まだ全然決めてないんだけどさ」
「そっかそっか。いやぁ、いいねぇ」
再びキョウカは満面の笑みになって、俺の肩を軽く叩いた。その痛みも心地よくて、俺も自然と口角が上がった。もしかしたら今の俺は客観的に見たら、美女に構ってもらえて浮かれる陰キャそのものかもしれない。気持ち悪い笑顔を浮かべているんだろうな、と自虐的になる。
「もしかして、それでスケッチブック買ったの?」
「うん。そうだよ」
「なるほどね!」
そんな風に話しながら歩いていると、スーパーの前の交差点に差し掛かる。ここをまっすぐに行けば俺の家があるし、左に曲がれば駅の方に出れる。
彼女を引き留めるならここだ。そう思った。このままキョウカと別れてしまうのは惜しい。そう思えるほどにこの十分余りの二人で歩きながら話した時間は楽しかったし、なにより彼女のことが気になって仕方なかった。こんな絶世の美女と言っていい女の子をほっとける程、俺はまだ男を捨ててはいないハズだ。
俺は今日二度目の今年最大の勇気を揺り絞ることにした。
「なあ、このあと飲みに行かない? ……ま、漫画の話もしたいしさ」
俺の声は震えていたと思う。赤信号の光に照らされたキョウカ顔がゆっくりとこちらに振り返り、その口が開く。
「うん。いいよ」
彼女はそう言って笑った。
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