第99話 娼館と天女様

 「もし~~~?も~~お帰りになられるのですか~~~?」


 ローデンブルックで2番目に大きな娼館”ヘスペリデスの宿”を出ようとしたところで。

 ヴァイスは、春のそよ風に乗って舞い降りる薄紅色うすくれないいろの花びらのような、なんとも心地のよい声に呼び止められた。


 しかし彼には、その声の主に心当たりがない。

 他の常連客が呼び止めらたのだろうか?と、周りを見てみるがロビーには客である男は彼しか居ない。


 つまりヴァイスが呼び止められたことになるのだが、そうだとしても、彼は暴漢から助けた娘を送り届けに来ただけなので客ではない。

 だが事情を知らない人から見れば、女遊びに来た男にしか見えないのも事実。


 勿論、聞こえなかった事にして、そのまま足を進めて店を出る事だって出来る。

 しかしヴァイス自身も、その美しすぎる声に少なからず興味を覚えていた。


 声のキーが高く細く柔らかい事から、女性の声であることは間違いない。


 しかしその音色は、聞いた者を春の森の中へと誘う。


 若葉を揺らす風の音や。

 木漏れ日が煌めく小川のせせらぎ。

 青空を漂う白い雲を見つめる小鳥のさえずり。

 など。


 聞いた者に安らぎを与えてくれる、そんな素晴らしい声であった。


 ただしここは昼夜を問わず、男女が裸で交わる娼館である。

 一見すると立派なこの建物も、明治時代に建てられた洋館のように。

 形だけは貴族の館に似せてはいるが、格式や品というものがまるで感じられない。


 それでも壁伝いに登り、角で曲がる階段の一番上。

 そこに佇む女性だけは、紛れもなくであった。


 必要以上に暖炉の火で暖められた空気に煽られ揺れる、金色の髪の毛はまるで絹糸のよう。


 しかし階下のヴァイスに微笑みかける憂いの無い顔は、と呼ぶには幼く感じられ。

 どちらかと言えば、天使や妖精と呼んだほうがしっくりくる感じ。


 そんな春の花畑で遊ぶ少女を連想させる、清楚で幻想的な女性が身に着けているのは。

 足元まで覆う、薄桃色をした薄手のドレスである。


 優雅で上品な仕立てから高価なドレスだと一目でわかるのだが、まるで派手さというものがなく。

 彼女の美しさを引き立てるというよりは、邪魔をしないようにと、ひっそりと息をひそめている感じがする。


 それは、彼女の細い腕や足首を飾る、繊細な造りの金細工であっても同じである。


 そして他の娼婦たちと比べると、ずいぶんと露出度が抑えられているのだが。

 そのなんとも女性らしい、起伏に富んだボディーラインは、男の視線を引き寄せずにはいられない。


 至高とも言える芸術的な色香を纏っている。


 特に見事にくびれた腰の上にある、大きな二つの果実は圧巻で。

 まさに母性の権化と言えよう。


 「まぁ~~、あの粗暴な門番を撃退してくださった殿方と聞きましたのにぃ~。ずいぶんとお優しいお顔をされているのですね?」

 「えっ。ああ、もう噂が広まっているのですか……。まいったな……」


 そのあまりにも美しい女性の声音は、まるで蜉蝣カゲロウの羽音のように小さいのに、階下に居るヴァイスの耳まで、よく届いている。


 それにその声を聞いているだけで我が家に帰ったような、ホッとした気分になり、何とも言えない多幸感を感じる。

 だからか、今すぐにでも店を出なければと思っているの、まったく足が動こうとしない。


 結果、ヴァイスはその天女のような女性に誘われるがまま。

 彼女が使う控室の前までやって来てしまった。


 性的な行為を期待していないはずなのに、自然と胸が高鳴り、血流が勢いよく巡る。


 「ふふふっ、安心してくださいな。別に食べたりしませんのよ?」

 「えっ、ああ、すみません。なんだか緊張してしまって……」


 「あらまぁ~~、でも、お望みでしたら、お好きなだけ触ってもよろしいのですよ?」


 ドアノブに手をかけ、振り返った天女様の金色髪がふわりと広がり、彼の心を完全に見透かしたターコイズブルーの瞳が微笑む。


 しかも慌てふためく彼を面白がっているのか、まだ二人は廊下に居るというに、丸みを帯びた肩から薄桃色ドレスを音もなく滑らせるのだった。

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