第5話 賑やかな朝の食堂
粗末な造りの宿屋の1階は、カウンターがある食堂となっている。
朝と昼は食事がメインで、夜には酒場となる。
ヴァイスが鞘を手に階段を下りると、危惧していた通り。
ホールの真ん中に置かれたテーブルを中心に、人だかりが出来ていた。
見れば宿屋の親父までがワインの入った瓶とジョッキを手に、いそいそと人垣に加わろうとしているのが見える。
「はぁ~っ、またかよ……」
「私が行きましょうか?」
朝から盛大に溜息を吐いた彼を気遣い、階段の下で待っていてくれたサーラが前に出る。
「いや、いいよ。(返って混乱するだけだから……)」
彼女の柔らかな肩を掴んだヴァイスは後半の言葉を飲み込むと、剣の鞘を握りしめて人だかりへと向かうのだった。
因みに若くて美しい聖女様が人払いに向かった場合はどうなるかというと。
大抵の場合は人だかりが2倍に膨らみ、更に騒動を嗅ぎつけた野次馬までが店に入ってきて、3倍から5倍まで膨れ上がってしまう。
そうなるとヴァイスだけでは収集がつかなくなり、店の主人や用心棒に助けてもらうことになるのだが。
今回はその主人が率先して
「痛てててててっ…………。はぁ~、まったく。何で朝から決闘しなきゃいけないんだよ……」
そう、人だかりの中心には人間の姿になったメリエベーラが座っていた。
しかもまだ午前中だというのに、下心丸出しの男どもが蜜に群がる蟲のごとく、涎を垂らして群がっていたのである。
そこへ”俺の連れにちょっかい出さないでくれ”と、ヴァイスが凄んで割り込んだまでは良かったが。
なんと宿屋の親父が騎士でもないのに、彼に決闘を挑んで来たのである。
仕方なくヴァイスが素手で相手をしているところへ、今度は宿屋の女将までがフライパンを持って乱入して来たのだ。
しかも何の前触れもなく、ヴァイスの死角から一撃を放ってきたものだから堪らない。
どうやら女将は、ヴァイスが美女にしつこく絡んでいると思い込んでいたようで。
サーラの説得でようやく事態が収まったのである。
今は親父の耳を掴んで引きずり、厨房の奥で怒鳴りつけている最中だ。
「大丈夫ですか?」
「ああ。ちょっとタンコブが出来ただけだよ」
灰色の髪の下でこんもりと盛り上がった患部を、サーラが濡らしたタオルで冷やしてくれている。
直前まで、今朝は酷い目に遭ってばかりだと嘆いていたヴァイスだが。
今は清らかな聖女様が甲斐甲斐しく看病してくれているおかげで、気分が晴れ渡っている。
「そんなはずはないですよ。だってフライパンが大きく歪んでましたよ?本当に治癒魔法を掛けなくてよいのですか?」
「大丈夫だって。ほら」
心配そうに彼の顔を覗き込む美しい娘に笑ってみせると。
ヴァイスはまだズキズキと痛むのを我慢して、タンコブが見えるように頭を下げてから、灰色の髪を掻き分けて見せた。
ポッコリと膨らんでいるが、青黒く変色していないコブ。
なお、サーラが心配するのも当然で、宿の女将は戦士である彼よりも太い腕で、黒いフライパンを大きく振りかぶり、力任せに殴打したのである。
しかも素人だけに狙いも定まっておらず、急所である後頭部に直撃してしまっていた。
普通の人間であったならば、命が危ないところである。
しかし当のヴァイスは頭皮が切れて出血するどころか、皮下出血すら起こしていない。
サーラが仲間になってからも、彼は魔物との戦闘で幾度もケガをしているのだが。
どれも彼女が想定していたよりも、軽いキズばかりであった。
とはいえ、狼に噛まれれば鋭い牙が彼の皮膚を突き破り出血するし。
ゴブリンの不潔な武器で傷つけられれば、どんなに小さなキズだろうと、化膿して発熱する事もあった。
つまりヴァイスは、少しばかり体が頑丈に出来ているだけで、不死身というわけではないのだ。
しかし聖女であるサーラも、無尽蔵に治癒魔法を使えるかというと、そうではない。
むしろ同年代で冒険者になり、治癒を生業にしている司祭よりも劣っていることが、冒険者登録した時点で判明している。
そんな負い目もあり、彼女としては少しでもヴァイスの役に立ちたいと思うのだが、彼は真面目で遠慮深い性格をしていた。
「ほっ、良かったです……。でも、気分が悪くなったら直ぐに言ってくださいね?小石につまずいて頭を打ったお爺さんが、二日後に亡くなってしまったこともありましたから」
「ああ、そうするよ。心配してくれてありがとう。サーラさん……」
心配そうに彼の手を取ったサーラの細くて白い手に、彼も手を重ねて見つめ返す。
「あらあら、主様ったら♪もしかしてワタクシが
「はっ、どうしたらそういう発想になるのか、俺には分からないよ」
二人だけの世界に浸り始めた男女の仲を裂こうと艶やかな笑みを浮かべ、トラブルを誘発した張本人が二人の会話に割り込んできた。
馴れ馴れしい態度でヴァイスの肩にもたれかかり、妖艶なボディーを押し付けてくるサキュバスに、ヴァイスは冷たい視線を送ると。
憮然とした表情で、冷めたスクランブルエッグとベーコンを硬いパンに挟み、大きく開けた口へと頬張った。
「まぁまぁ、メリエベーラさんは何もしていないのですから、あまり責めないであげてください」
(はぁ~~、サーラさんは本当に人が良いよな。コイツはわざとやっているのに……)
そんな険悪なムードの二人をとりなそうと、優しいサーラが声を掛けているのだが、どう見ても効果は薄い。
サーラが言うように、メリエベーラはただテーブルに座り、チーズをつまみにワインを呑んでいただけなのであろう。
しかしだ、わざと一番目立つ中央のテーブルに陣取り、大きなスリットが入ったスカートで足を組めば、男達の視線が集まるのは必然なわけで。
しかも男好きがする顔で、エロいボディーをこれでもかと露出していれば、飢えた狼の前に血が滴る生肉を置くようなものである。
そもそも魔法が使えるのだから姿を消せばいいのに、何故かメリエベーラは人間の姿をして、彼と行動をともにする事を好む傾向にあった。
だから夜の酒場に行けば高確率で酔っ払いに絡まれるし、街中を歩いていてもナンパされる。
毎回、それに対処しなければならない、こっちの身にもなって欲しいというのが、ヴァイスの切実な思いである。
何しろ彼はまだ駆け出しの冒険者なのである。
勝てない相手は大勢いる。
とは言え、必要以上にサキュバスに物事を強要したくないヴァイスには、今日も
「さっきは本当に済まなかったね。まさかアンタが二人も
とそこへ大きな包を3つも持った、恰幅が良い女将がやってきた。
包の隙間から漂う香ばしい匂いから、一つはこの店の名物である焼き豚の塊だと分かる。
すると残りは、彼が今食べている香ばしい香りが食欲をそそる焼き立ての大きなパンと。
噛めば噛むほど
それだけで二人分の宿代に相当しそうである。
とはいえ、フライパンで思いっきり頭を殴打された事を考えれば、安いのかもしれない。
なお、悪魔の眷属であるメリエベーラは、寝る必要が無いことから宿代を払っていない。
大抵の場合は宿屋に入る前に姿を消し、そのまま何処かへ行ってしまうからである。
一応、ヴァイスとは人間を襲わない約束を交わしてはいるが、何処でナニをしているかは定かではない。
そのような理由から、ヴァイスもバツが悪そうな顔をしている。
しかも昨夜は一晩中、若くて美しくサーラとあんな事やこんな事を……。
「いや、こちらこそすいません。色々と迷惑を掛けてしまって……」
「いいんだよ。ワタシもあと10年、若ければね~~❤」
恐縮する彼の背中を大きな手でバンっと叩き、意味深な視線を残して、頬を赤らめた女将が腰をクネクネとさせながら去って行くのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます