虹色の街
柿
虹色と灰色と黒
街が灰色になってから、何年が経っただろうか。僕は家の中で、どこまでも広がる丘の下の街を見下ろして、そう思った。僕が引きこもっていた頃、街は灰色になったのかもしれない。しかし、分からない。実際のところ、街が灰色になっていること自体はみんな知っていても、その成り立ちまでは、覚えていないのだ。いつか、ここから見えた街は、虹色をしていた。それも、単に色んな色が並びたてられた虹色ではない。色んな色が重なって、それでも一つ一つの色が認識できて、真っ黒でも、真っ白でもない、虹色だ。流動的に動き続けるその虹色は、写真に残そうとすると滲んでしまって、美しくなくなってしまう。結局、その虹色を知るのは、その日々を生きた人しかいないのだ。母親や父親、祖母も、市役所の職員だってそう言った。僕には友達がいなかったから分からないが、同年代の子にも、きっとそういう街が見えていたはずだ。日の光は真っ白で、そこには様々な色が集められている。なぜコンクリートのビルの群れは、それらを残らず消し去ってしまうのだろう。駄菓子屋にかけられていた「コカ・コーラ」の赤や、公園の遊具の青や黄色は、どこへ行ってしまったのか。僕は憂鬱な気分になった。天気は晴れなのに、相変わらず街はモノクロだった。
どんよりとした空気が沈殿する様に、街は蒸し暑かった。空の蒸気が、見えないうちに皆落ちてきていて、いずれも、僕の体をその場に引き留めようとする。仕方がないので、灰色の自動販売機から、コカ・コーラを一本買った。がちゃん、と、灰色の缶が落ちてきた。プラスチックの仕切りを上げて、中に手を突っ込む。冷えた金属の感覚が、手のひらを少しだけ縮ませた。
目的もなく、今日も街を歩く。灰色の日々は、僕の神経を段々と鈍らせていく。少しでも抗わなければ、心の芯まで……鉛筆の芯の様になって……世界に取り込まれていきそうな気がした。鉛筆の芯はすり減らすと、すぐにでも先が折れてしまいそうだった。
走っている男を見つけた。遠くの坂で、丘の上を目指して、何やら焦った様子だった。丘の上には、僕の家と、岡田さんの家と、市役所がある。……市役所に行くのだろう。僕は男とは反対に、長い坂を下っていた。今日はできるだけ遠くに行きたい気分だった。理由があったと思うのだが、はっきりと思い出すことができなかった。とにかく、行けば分かるだろう。僕は、コカ・コーラを一口飲んで、腹が少し張るのを感じながら、あと十メートルほど続く坂を、相変わらず足取りを掴めないまま、下った。
坂の下で灰色の街を見て、やはり吐き気を感じた。空の屈折した青と街の灰色が、見飽きた景色を目に焼き付けてきて、目を閉じると、まぶたに曇った砂浜が浮かぶ。気分が悪くなる。そういう時いつも、話し相手が欲しくなる。誰でもいいから、虹色を思い出させてくれる人がいれば。
「呼んだ?」
頭から声が聞こえた。それは、女の声だった。
「虹色を見たいの?」
甲高い声で、十八九歳くらいに聞こえた。幻聴でもなんでもいい。僕はその女と、会話を始めた。
「うん」
あの煌びやかな虹色を、もし一目でも拝めたならば、これだけ幸せなことはないだろう。
「方法があるのよ」
女は言った。
「なんだ」
「私の指示に従ってくれれば」
僕は特に悩むことなく、同意した。
「ああ」
見えようとも見えなくとも、その希望に虹色を見出せれば、それでいいと思った。
「言ったわ」
女は笑いながら言った。
「ああ」
僕は繰り返し言った。
近くに軍の基地がある。女はそこから爆弾を取るのだと言った。僕は不可能だと思ったし、女にもそう伝えた。
「そんなの無理だよ。捕まるし、殺されるかもしれない」
「あなたは『ああ』と言ったわ」
幻聴なら、従わなくてもいいはずなのだ。第一幻聴でなくとも、こんなものには従ってはいけない。しかし、女の声には妙な説得力があった。声の奥に、真っ赤な瞳が見える。それは僕が色彩を一つ思い出したということだった。奇抜な赤の大胆さを見て、脳に衝撃が走った。血の赤でもあったし、コカ・コーラの赤でもあった。興奮の色だった。急に血がたぎる。
「わかったよ」
虹色への欲望に負けてしまった自制心が悪かったわけではない。成人男性のそれを捻じ曲げ、倫理を崩壊させるほどに、虹色の力は……街の色彩の一切を失った人間には特に……強かったのだ。かくして、破滅を約束された冒険は、始まったのだった。
気づけば、有刺鉄線を抜け、弾薬庫に入り込んでいた。コンテナにどうやって入り込んだかなんてことは、覚えていない。たまたま空いていたのかもしれないし、なんらかの方法でこじ開けたのかもしれない。どうでもよかった。ただ目の前にある手榴弾の山を見て、溢れるアドレナリンを抑えるのに精一杯だった。……ここに山ほどの色彩と、山ほどの虹があるのだとしたら……それは宝の山の様に見えた。
「二個取るのよ」
二個取った。
「逃げるのよ」
突然の逃亡劇が開始された。後ろには警官が、目の前には軍の兵隊がいた。警官が拳銃を構えて、兵隊が小銃を構えていた。警官のドットサイトがきらりと赤く光る。僕は手榴弾を握った。重量感があった。
「動くな」
それは大きな声だった。
「手榴弾」
投げて、と聞こえた。僕は焦って、ピンも抜かずにそれを警官へと投げた。
すると、手榴弾はナイフになった。安全ピンの部分がぐぐっと引き伸ばされて、鋭い刃となり、爆薬の入ったはずの場所は、縮んで黒い持ち手になった。ナイフは放物線を見事に描いて、警官の腹へと突き刺さった。血が染みて、紺色の服が真っ赤になった。そこを中心として、色彩が取り戻されていく。じわ、と滲む様に景色が晴れて、
すると、目の前には、女の死体があった。
目の前には、べっとりと倒れる女がいた。そうして全てを思い出した。河川敷、俺とあと二人、ライター、鼻の疼き。
「あーあ」
もう一人が言った。兵隊の顔だった。
「どうしよっか」
俺は言った。気分は色彩を取り戻したことで、晴れやかだった。とりあえず、目の前にあるものを吸おう。ライターの火がなかなかつかない。
「まあ、なんとかなるよ」
粉をもう一人が集める。薬包紙に乗せ、手で重さを量る。俺は、ライターがやっとついたので、薬包紙をとって丸めて、その先に火をうつした。鼻から一気に吸って、虹色を見た。丘の上だと思っていたが、実際は橋の下だった。どこまでも続く街は、真っ黒だった。しかし、虹色は徐々にそれを彩り、染めていく。
「いいね」
俺はライターの火をもう一人に向けた。もう一人も吸って、ほぼ同時に世界を移動した。水飛沫で液晶が拡大される。無限の虹色の広がりが世界を覆って、次に、それが一点に集まる。そして、世界は灰色になった。僕は、そうして街の色彩と、虹色を再び失った。灰色の家には、ずっと前に走っていた男が来ていた。
「お聞きしたいんですが」
僕の手には、手榴弾が握られていた。
虹色の街 柿 @elfdiskida
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