第32話 平穏は終わりを迎えた

 あの連絡を取ってからというもの、慌ただしい時間が過ぎていった。


 不慮の事故だった。

 本来だったらあるはずのない事故。操作を誤ったせいか、備品の老朽化か。それとも冬特有の強い風のせいなのか。


 時には万全に備えていても、起きる時は起こるものだ。その時、人間って無力だと痛いほど思い知らされる。


「できることは全て最善を尽くしました。あとは守岡さんの意識が戻ることを祈ることしかできません」


 最悪の事態は免れたかもしれないが、それでもかろうじて首の皮一枚で繋がっている状態だ。医者は断言こそしなかったが、いわゆる脳死に近い状況。多くの管やセンサーに繋がれた未知さんに寄り添うように、イコさんはずっと手を握り続けてた。両手で挟み込むように、大事そうに。

 ピンと伸びた背筋に違和感を覚えて、余計に悲しく見えた。


「お母さん、その……」


 ピリピリした空気はイコさんから発せられたモノだろうか? あまりにも突然で理不尽な出来事に、誰にもぶつけることのできない怒りを必死に堪えているようだ。


「——ごめんね、シウ。しばらくお母さんは病室に寝泊まりをするから……おばあちゃんのところで過ごしてくれないかしら? あぁ、でも学校まで通うのが大変かしら。ユウくん、ごめん……ユウくんさえ迷惑じゃなければ、シウの力になってくれないかな?」


 それは構わないけれど——イコさんは? イコさんは大丈夫なのか?


 だが彼女は前を見たまま、ユウとシウの方を振り向くことなく話し続けた。


「——早く眼を覚ましてくれればいいかもしれないけど、このままね……心臓が止まったり、急変することもありえるんだって。だから後悔しないように近くにいたいの。無駄だとしても、ごめんね?」


 今、彼女はどんな表情をしているのだろうか?


 凛とした後ろ姿にユウは繋いでいた手に力を込めた。その痛みにシウが眉を顰めるくらいに。


「シウ。しばらくは僕のアパートから通えばいいよ。そんな広くはないけど一人くらい増えても問題ないから」

「——ありがとう。お母さん、何か必要なものがあったら言ってね。何でも用意するし、買ってくるから」


 その時、イコさんが少しだけ振り返ったのだけれども、肝心の顔は見えなくて。


 ユウとシウはイコの真意を見ることなく、そのままアパートへと帰っていった。




「……まさかこんなことになるなんて、思いもしなかった。ねぇ、ユウ。お父さん、どうなるのかな?」


 主治医の話によると、あまり良くないようだった。幸い身体の傷は酷くはなかったものの、落下した鉄骨を避けようとバランスを崩して負った頭の傷が酷いらしい。


 だが信じたくなかった。あの未知さんが、こんな事故で亡くなってしまう未来なんて。


「僕さ……未知さんと一緒に飲んでみたかったんだよね。僕が知らなかったシウの話とか、イコさんとの話とか、色々聞きたかった。なのにこんな」

「ユウ……」

「——っていうか、シウもツラいよな。父親があんなことになって。大丈夫か?」


 ふっと顔を上げると、泣きそうな笑顔を作ったシウの顔が視界に入った。


「身近な人が死ぬって、今までなかったから……現実味がわかないっていうか。やだな、昨日まで当たり前に話していた人がいなくなるのって」


 長い睫毛が瞬きをした瞬間、大粒の涙が床に吸い込まれるように落ちた。不謹慎にもその避けられた横顔が綺麗だと思った。

 その血色を失っている真っ白な肌に触れて、抱きしめたい衝動に襲われた。


「きっと大丈夫だよ。未知さんがシウとイコさんを残して死ぬわけないだろ?」


 状況は明らかに悪いけど、信じるしかなかった。もう自分達には祈ることしか残されていなかった。



・・・・・・・・・★


「人間って弱くて、脆くて……でも温かいよね。ユウ、ユウは……私を置いて死なないでね」



この状況、イコさんが苦しいですね……。

反応のない人間相手の終わりを見届けるって、悲しい。それが愛した人なら尚のこと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る