第10話 テン
塔を出るともう辺りは暗くなっていた。ランプの明かりをつけたが、テン様を連れて森となった場所を進むのは難しいと判断する。なるべく平坦な場所を見つけ、今夜はここで夜を明かすことにした。幸い塔の下にも細い水路が通っているらしく、飲み水は確保できた。
俺がなにか道具を取り出すたびに、テン様が驚いた顔をする。それが若干面白く感じるようになった頃、テントが整い寝る場所が確保できた。
「さて、食事にしましょう」
「やった! メニューは? シチューとか?」
「すみません、シチューは難しいですが……とっておきの缶詰めをご用意しております」
「なにかな? なにかな?」
テン様は意外にも食いしん坊のようだ。俺が缶詰めを開けるのをワクワクしながら見守っている。というかテン様の時代にもシチューがあったんだな。あとで詳しく聞きたいところだ。
缶詰めをそのまま沸かした湯に入れ、しばらくしてからトングで取り出す。手袋をした手でプルタブを引っ張って開け、器にあければ完成だ。
「どうぞ。豚肉の角煮です」
「なんかすごくいい匂いがする!」
「あ、今更ですが肉は大丈夫ですか?」
「ん? 好き嫌いはないよ」
「はは、じゃあ大丈夫ですね」
テン様にフォークを差し出すと、祈りを捧げる前に食べ始めてしまった。神の御使いが神への感謝を省略してもいいのか。そんなことを考えたが、御使い様に失礼だしお腹が空いていれば仕方がないことだ。
テン様が角煮を召し上がる間、俺は栄養補助食のビスケットとずっととっておいた果物の缶詰めを開けておいた。こちらもテン様はペロリと召し上がり「美味しいね」とニコニコしていた。細い見た目に反し、よく食べる方だ。
食後のお茶を飲むと、ようやく落ち着いた気分になれる。今日は本当に濃い一日だった。勇者の塔は実在して、勇者は本当に眠っていた。それだけでも歴史的大発見だというのに、塔にはエレベーターがついていて、眠りから覚めた勇者に使い方を教えられるだなんて、凄すぎて理解が追いつかない。
そういえば塔に着くまでの道では記録装置が全く役に立たなかった。あれも塔を維持していた技術となにか関係があるのだろうか。街にあった民家ががらんどうで焼け焦げたような跡が残っていたのも不思議だ。勇者の話はおとぎ話として残されているのに、まるで塔やラムダの街に使われている高度な技術を外部に漏らさないように設計されているような――。
「ねえ、サーブ」
名前を呼ばれ、俺が一人で思考の海に潜っていたことに気付く。何度か呼んでくださったのか、テン様が「大丈夫?」と言いながら俺を見ていた。
「すみません、ちょっと考え事をしていました」
「そっか。邪魔しちゃった?」
「いえそんな! 邪魔だなんてとんでもございません。どうされましたか?」
テン様は俺をじっと見たまま、少しだけ眉を下げた。言いにくそうに少し口篭り、それから申し訳なさそうに口を開く。
「ねえサーブ。やっぱり僕は、偉い人になってしまったの?」
「え? それは、どういう……?」
「えーっと、なんて言えばいいのかわからないんだけど、サーブは僕が他人だからじゃなくて、偉い人だから敬語を使っているんだよね?」
テン様の言わんとしていることが輪郭を帯びてくる。そういえば塔で敬語は嫌だと言っていたかもしれない。この方は俺が頑なに敬語を使い続ける意味を知りたいのだ。敬語をやめるよう命令することもできたのに、俺がそうする理由を尋ねてくださっている。
この国の教会は皇族と同等かそれ以上の権力を握っている。司法よりも神の教えが優先される世界だ。神の教えを説く聖職者たちは異端者を許さない。神に近ければ近いほど高貴であるとする教えがあり、それによって聖職者は皆一様に敬うべきお方となるのだ。
だからテン様が敬語をやめて欲しいと言われる意味が、俺にはよくわからなかった。神の御使いともなれば、権力はこの国のトップに並ぶだろう。俺が一目会うことも許されないような高貴な方々が頭を下げる存在が、神の御使いであるテン様なのだから。
「テン様は神に使わされたお方ですので……」
信仰が薄い俺ですら、この方が天上人だとわかる。だから下手くそながら敬う態度をとってはきたが、それは俺の独りよがりな考えだとテン様を見て気付いた。
テン様は、とても寂しそうな顔をしていた。諦めが混ざった憂いを帯びた表情をして、ゆっくり言い含めるようにこう言った。
「僕は、ただの『テン』だよ。それ以上でもそれ以下でもない。みんなのために『テン』として生きてきた。でもそれは偉いことじゃない。ただ、選ばれてしまっただけだよ」
ランプの明かりがテン様の瞳に映って揺れる。そのせいで泣いてるように見えて、俺はまた胸の痛みを抱えていた。この人には笑っていて欲しいと思ってしまう。魔族と戦い魔王を封印したのに、塔に眠らされて時代から置いていかれた孤独な人だ。
「じゃあ、敬語はない方がいいな」
「いいの?」
「もちろん。実は敬語とか慣れなくて、いつ舌を噛むかとヒヤヒヤしてたんだ」
どうして神は、この人を人の世で眠らせていたのだろう。しかも、たった一人で。
「ねえ、サーブ。良かったら僕のことを呼び捨てにしてよ。様付けとか、なんか変な感じするし」
「サーブも君のことを呼び捨てだったのか?」
「サーブもいつも呼び捨てだったよ」
「じゃあ、仕方がないな。俺も君をテンと呼ぼう」
「やった! ありがとうサーブ!」
こんな風に人懐っこい笑みを浮かべるこの人を、誰もやってこない世界の果てに置いていくなんて。
この世界の神様とやらは、案外残酷なことをする。
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