第12話

 今回の旅はこれで終わった。ボクたちは陽が沈み、月がのぼる、その境目の宵の刻ときを歩いていた。辺りは暗くなりはじめ、街灯がボチボチつき始めてきた。空を見上げると一番星が綺麗だった。一人でも強く輝きつづけるそれに、ボクは憧れを少しだけ抱いた。

 N町からこの橋里町へ着くまでの間のボクたちに会話は一切なかった。お互いに喋ろうという気が起らなかった。疲れていたという事もあるだろうが、それ以前に、今回の短く儚い旅路に出会ったいくつもの感情がボクたちの言葉を塞ぎ止めていた。

 ボクは弥月を流し目で見る。相も変らぬ無表情だったが、弥月からいつも流れ出ているオーラがまるで違っていた。風の吹きすさぶ荒野に咲く一輪の花のようだった。一人で寂しくたたずみ、誰に見てもらうわけでもないのに、花弁に色を付け、美しさを作り出そうとする、憐れで哀しい孤独なハイデ。

 弥月の印象が最初に見た時と異なる。ボクには、今の弥月には薔薇のような美しさはなく、また、棘があるようにも思えなかった。



「ねえ。吉野春。貴方は今何を考えている?」

 弥月が突き刺すような鋭い声で喋る。背中がひんやりとする。

 ボクは自分の掌を眺める。ての部分を指の腹でなぞった。

「ボクが見ている夢とは何か、ただそれだけだよ。どうやらボクは凶夢を見ているらしい。いつになったらボクはこの悪夢から解放されるのかな」

 久井の言葉を思い浮かべる。弥月は早足で歩き、ボクを追い越す。そうしてから振り返り、こう言った。

「夢から目を覚ますことよ。人は目が覚めた途端に、その夢の内容を忘れる。どんなに苦しくても、辛くても、優しくても、幸せでも、夢の出来事だから。夢。つまりは幻想の世界。見晴らしが良い場所にいても、霧に包まれれば、そこには何があり、どこに何があったかを忘れてしまう。脆く、儚い……「夢」の記憶。だからこそ、人は変わることが出来ないのよ。夢は共有できるものではないし、必ずしも憶えているものでもない」

「でも、成長はしているよ。そう願いたい。だって、夢は必ず忘れるものではないんだから。少しは記憶に残る。その些細な記憶を、残していく事が出来る。それが人の成長の助けとなる」

 ボクは一呼吸置いた。弥月は顔をしかめた。

「夢の中には吉夢と凶夢があるんだ。その両方を見る事で成長ができる。でも……凶夢が色濃く残る。だって、天災地変や、生存競争の中で起こる災難や辛苦。それらの中で生き残るためには、その犠牲になった人の体験を元にして知恵を振り絞らなければならないのだから。人は痛みの記憶を強く残す」

 弥月はふっと息を吐いた。髪をかき上げてぼそりといった。

「だから、私たちはいくつもの犠牲の上に生きている、と?」

 ボクは顔を背けた。下唇をかんだ。

「知りたくなかった。ボクは今日の出来事で自分が少し変わった気がしたよ。今は消された跡だけれども、過去にはあった事実は消えぬものだ。ただボクたちはそれに気づいていないだけだった。たとえば、ボクが歩いているこの地面は昔に沢山の血を吸ってきたかもしれない。だが、それを知らずにボクたちはその地を踏みしめる。多くの怨嗟、叫喚の上を素知らぬ顔で歩く。沢山の恐怖の上にボクたちは立つ。そう考えると、ボクたちは昔の人の罪の上にいる。それが分からぬことがまた罪なのである。それを知り、得るものとすれば恐怖なのだろうね」

 だからボクは怖れる。そして畏れる。


 ――凶夢。

 

「春が見ているのは吉夢なのではない。凶夢なのよ」久井はこのような事を言っていた。それを思い浮かばせる。

 ボクの心はあの時に否定していたが、心のさらに奥深い底では肯定してしまっていたのかもしれない。

 ボクは、それに気がついてしまった。それは新たな鬼胎を抱くことになる。

 知るという事は恐怖を知るという事。そしてそれは罪かたや罰を知るという事になるのだ。




「罪と罰。……なんだか、重たい話になって来たわ。そうね。生きる事が……罪なのね。それは、うん。はっきりわかるわ。だからこそ、死という償いがある」

 弥月は手を空に掲げた。太陽があった位置にそれを持っていく。だが、光が弥月に届くことはなかった。

「日はまだ落ちていないようね。本当に、いつになったら、あれは落ちるのかしら?」

「わからない」

「……。ねえ、春。私は、太陽が人の一生だと考えているわ。朝に昇る日が生の始まりだとすると、夕に沈みゆく日は生の終わり。つまり死。人は日中の間に活発に活動し、生きる。そして、蝋燭の火のように真っ赤にその火を燃やし、燃えつきる」

 弥月は手を下ろす。弥月は一歩前へ出る。ボクとの距離を詰める。彼女の顔がもう目の前にあった。

「どうして、死を望む私と、漠然と生きようとする貴方は同じ感性を持っているのかしら? なぜ、私たちの日は沈まないの」

 目線が交錯する。交わってはいるが、絡み合ってはいなかった。ボクと弥月の想いが入れ違いになる。

「もどかしいわ。だけど、これが、世の中ってものなのかしら? 自分の思うとおりにはならない。運命に翻弄される。まるで殺し人びとと殺され人びとのよう」

 弥月は踵を返す。背中を見せた。髪の毛が躍る。

「キミにとっての月はなんだ? 陽が沈んだ後に昇るその月は何を意味する?」

「死後の世界」短く言った。「天国とか地獄とか、そんなものではない。何もない空虚な世界で一人ただ取り残されるいわゆる「無」の世界。何もなく見えない、闇の中で叫び続けている」

 弥月は言う。さらに言うのだ。

「今の私たちは、生と死の境界線で生きている。光を失い闇に溶けて酔いしれた魑魅魍魎が横行闊歩する逢魔が時に、私たちは物の怪の気まぐれに遊ばされ月が沈むのを震えて待つ。混沌の深淵の闇に沈む私たちに光はあるかしらね」

 弥月は淋しそうな顔で言った。無表情じゃない。弥月の顔に感情というものがついた。ボクはその儚げであるのに美しいその表情に見惚れてしまっていた。ボクは胸を押さえ、黙っていた。



「ねえ、弥月」

 ボクは彼女に話しかけた。ボクが弥月の話を聞いて、疑問になったことを問おうとした。弥月は「何?」と暗い調子。ボクは口を開こうとするのだが、その刹那に思いがけない所から口封じをうける。

 口封じと一言で言っても大げさだ。ボクは別に口元を布か何かで覆われ喋らなくされたわけではなく、頭を殴打されたのだ。硬いものでゴツンと叩かれ、そのまま地に伏した。意識が朦朧とする。何が起きたのかを判別しようと試みる気は無く、襲い来る眠りへと身を投じようとしていた。

 薄れゆく意識の中で弥月が暴れている声を聞く。弥月はボクを殴った誰かと格闘しているようだ。ポトリと何かが落ちた。格闘している際に過って落としてしまったのだろう。ちょうどそれはボクの虚ろな瞳に映るラインにあった。その落し物は弥月の物かと最初は思った。どうして弥月は一輪の白い菊の花を持っていたんだろうな。

 意識が混濁していく。思考が停止していく。

 ボクがその花の持ち主を弥月ではないと、しっかりと認識するのはもう少し後のことである。

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