余談2

 要約すると、人は男も女も誰もが母になる。つまり青年期の子供たちは全員妊婦である。ということだ。人は自分という一人の人間を確立させるために新たな自分を産む。母体は他人によって作り上げられた自分。胎児は自分で作り出すこれからの自分。という話だ。

 そして胎児は夢を見るのだそうだ。人は起こった出来事を夢という形で復習をする。そうして記憶の整理を行う。それと同じように、胎児も眠りながら遺伝子に刻まれた人類の歴史を遡り夢という媒体を通じて学んでいく。復習と言うよりかは、予習と言った方がこれの場合は正しいのかもしれない。なぜなら長年眠り続け、ようやく夢から目覚めた胎児はその夢で得た知識をまず実践していくのだから。

さらに。

 前提的に、生まれ落ちた人はまず自分という存在を他人に作ってもらう。つまりルーツを与えてもらうのだ。そしてその人で生きる基礎を学ぶ。これはお腹の中にいる胎児が人類の歴史を夢という映像を通して振り返るのと同じことである。やがて基礎を学んだ人はそこから自分に見合った生き方を探す。そして他人の型にはまらない自分を作り出す。これは、胎児は成長して人の形を得ていき、人の形になった胎児が母体から飛び出すのと似ている。そこでようやく人は初めて自分を作りあげるのだ。

 つまり、人は母体から生まれ落ちた後に、もう一度子宮へ還るのだ(しかし、この時に子宮へ還るのは今までの自分ではなく、これからの自分である。今までの自分は母となり、お腹の中で眠る自分を育て上げるのだ)。そうして、また夢(一度生まれた時から今までの映像をさす)を見る。


「どう?」

「確かに。非常に興味深いことだね。うむ。ここで分かることは自分もまた他人であるという事だね」ボクは前髪をいじり始める。「人は他人の経験を学ぶ。親からや遺伝子から。そして自分が経験した事を、学び生かしていく」

 ボクは目線を上にあげた。口を一の字にしてこの考えを頭の中で反芻させていた。これも、経験の一つなのだろうな。

「要するに、ボクたちにはまだその経験が足りていない。経験……それがさっきの扉の例で言うとこの扉を押しあけるための力。なんだろうね」

「そういうことでしょうね」

「だけど、日とか、月とか、それはどういうことなんだ?」

「まあ、つまり、さっき読んだところで、いわゆる母体――一人目の自分を太陽として、胎児――二人目を月に例えているの。人の一生を一日で表すとしたら、そういう振り分けになる、みたいな?」

「なるほど」

「普通の人は朝日が昇り夢から目を覚ます。その時が生まれた時。そして、人は日の下で陽の光を浴びて成長していく。だけど、やがてはその光も衰えていく。他人から貰ってきた光に頼らずに自力で輝かなければならない時が来る」

「それが……日が沈み、月が昇ること、か。日は沈む、つまり死んで、次の月へ生を託すわけか」

「ええ。でも、この言葉がある。『日は沈んでも生きている。月が陽の恩恵を持って生きているのだから』。春が言う言葉と、合わないでしょ?」

「そこで、コレが繋がるのか。うーん? まあ、確かに。月のあの輝きは陽の光によるものだけど……」

「まあ、すぐわかるわ。でも、ここで分かっても仕方ないわよ」

 久井はボクのおでこを人差し指で押した。ボクは「なんだよ」とつつかれた個所に触る。久井は陽気に笑う。

「まあ、ボクたちは羊水の中で静かに夢に現を抜かしているんだから、そこまで深く考えなくてもいいんだろうね」

 ボクは冗談っぽく言って笑った。

「フフ。そうね、たしかに、胎児も夢を見て、様々な気分に浸る。だけどその夢が必ずしも吉夢というわけではないのよね」

 久井は口元だけを緩ます。目は笑っていなかった。

「そう。凶夢もありえる。でしょ? 私はほとんどの胎児は幸せな夢など見れないと思っている。いうならば、うなされ続けている。私には、分かる。ね? 春」

「ボクに何を聞いているんだよ」

「だって、春の今見ている夢は凶夢なのだから」

「……なんでだい?」

 久井は途端に神妙な顔つきで話し始めた。雲行きが怪しくなっていった会話にボクは眉を潜めた。この場の空気がガラリと変わった。温かかったものが急に冷え込みだした。ボクは心臓を鷲掴みされたかのような締め付けられる痛みに悶えた。顔つきが険しくなる。ボクは混乱する。それを表に出してしまいそうだった。しかし、その動揺を久井に悟られたくないから、平常を装う。

「新年度に入ってから、春の違和感が凄いのよ。なんていったらいいか分からないけど、心をどこかに捨ててしまったような気がする。それでもがき苦しんでいる。そして、それを喪失したことを悟られないように必死に隠している。それがまた新たな別な痛みに変わっている。そんなような感じがする。ずっと見てきたからわかる。去年まではそんな雰囲気は一切なかった」

「…………」

 ボクは何も言わなかった。

「なんか、ごめんね。変な話をしてしまって。空気も壊して。でも、これだけは言っておきたかったんだ」

「ううん。いいよ。だけどさ、きっと君の気の所為だよ」

 ボクは無理して笑った。久井は悲しそうな顔をした。この表情で互いに互いの感情を読み切った。

「春は妊婦であり、胎児である。大きな腹を抱え、不安、痛み、焦燥に苦しみもがいているような気がする」

 ボクはただ黙っていた。へその辺りから鈍痛がくるような錯覚に陥った。

「その時は誰しもが不安定になる。人はその痛みから、胎児を殺そうとしたりや堕ろしたりもするわ。十分に育ててあげられなくて、奇形児が生まれたりもするわ。……。胎児と母体は繋がっていて、心さえも共有している。胎児は母親の心が分かり、お腹の中で踊り狂う。そうして、陣痛と悪夢の二重の苦しみを得て、痛みに身を歪ませる」

 ボクは眩暈がした。早くこの場から逃げ出したくて堪らなかった。胃の中が逆流しそうだった。脂汗が頬をつたう。

「だけど、もう一つあるわ。それ以外にも、その二つの命と心を鎮静することができるわ。それはなにか。周囲の人、なのよ。誰かが優しくお腹を撫でたり、声をかけてあげたり。産婆さんのように産むのを助力したりや。それでようやく、出産が出来るの。それには激しい痛みを伴ったとしても、それを乗り越えた先で元気な赤ん坊が誕生するの。初めて羊水から飛び出し、初めて空気に触れて、産声をあげる」

 久井はうつむいた。そのままで喋り続ける。ボクはただ黙ってその話に耳を傾けていた。

「誕生した赤ん坊は、一人で母親の腕にぶら下がれるほどの強い腕力を持っているわ。だけど、そんな力を持っていても、一人で生きていけるとは限らない。誰かと共に生きねば、死んでしまう」

 久井はバッと顔をあげた。曇りの一切ない綺麗な瞳をボクに向けた。

「ねえ。本当に困っているのなら、相談して。一番不安定で大変な時期は、一人で抱え込まずに、身近な人に助けを求めなよ。誰だっていい。私も協力する。春が元気な子供を産ませてあげたい。産んだ後も、守ってあげたい。なんだってするわ。助けてあげたいの。だから、そんな哀しい顔を、作った顔なんか……しないで……ほしいの」

 ボクはゆっくりと目を閉じた。そして、ゆっくり息を吸う。そして、尾を長くして息を吐くのだ。乾いた唇を舐めた。下唇を噛みしめた。ボクは額に浮かんだ汗をぬぐいとる。久井の表情はまともに見ていられなかった。

「本当に、私でよければ相談にのるよ?」

 久井は下から覗き込んだ。影を落としたかのような表情で、ボクの事を本当に心配してくれていた。ボクは顔を背けた。心に濃い不安のようなものが込み上げてくる。

 ボクは、久井をただ心配させるだけだった。次に言った言葉は、まさにそれだったと思う。自分でも情けない話、逃げてしまった。

「ホラ、なんていうのかな。五月病ってやつだよ。まだ新しい環境に体が慣れていないだけだ」

「……」

 久井は唇を震わした。そして泣きそうな目でボクを見た。しばらくそのままのこう着状態がつづいた。やがて、久井は嘆息し、本棚にもたれかかった。本棚に収納されている本の背表紙を何度も撫でながら、尾の長いため息をついた。

「ま、いいよ。だけど、困ったことがあれば私が手を貸す。そこは……。……と……トモダチ…………として……信頼してほしいね」

 久井の笑顔に優しさが滲んでいた。それは鬱蒼と生い茂る樹木の枝葉の隙間を縫うように伸びる日の光のように暖かく、眩しかった。あまりにも眩しくて、立ち眩みをしてしまう。

「うん。まだ、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

 ボクは床に置いていた通学用の手提げバックを持ち上げ、肩に掛けた。

「帰るの?」と久井に尋ねられたので、「まあね」と答えた。

「ストラップ。大事にしてね。あ、あと、最近行きつけのケーキ屋さんがあってね。そこのチーズケーキが美味しいから、食べたいな。ね? 来週、一緒に食べに行こうよ」

「うん。わかった。その時まで妹たちからお金を防衛してみせるよ。久井はこれから?」

「ま、来週の下見にでも行ってくる」

「ただ食べたいだけだろう」

「さてね。一緒に行く?」

「いいや。来週の楽しみに取っておくよ」

「残念。ま、あそこの店員と仲がいいし、あの人に春の代わりをしてもらうよ」久井はクスリと笑う。そして「じゃ、また会おうね」と言った。

 ボクは頷づいて、「じゃ、またね」と、手を振った。彼女は振りかえした。ボクは踵を返し、久井を置いて図書室を後にする。


 ボクは……これが彼女との最後の会話になろうとは、この時思いもよらなかった。


 彼女の命の灯火は震えながら西に沈む赤い火の玉のように、その姿を消していった。


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