whale cry

弐月一録

whale cry


銃声のない場所はどこかしら。


静寂とはどんなものかしら。


わたしの住んでいる小さな国は、もう何年もずーっと戦争をしている。わたしはこの戦争が起きている最中に生まれた。母の子守唄よりも人が泣く声や銃声を聞いて育った。


父と母と兄の4人で暮らしていて、サイレン音が鳴ったらすぐシェルターに隠れる。落ち着くって何なのかわたしは知らない。


「生まれ変わったらクジラになりたい。静かな海で家族みんなでゆったり暮らすのよ」


母は口癖のようにそう言って、幼い私と兄を抱きしめた。


前に本で読んだことがある。クジラの声は500キロも先に届くんだと。だから離れ離れになっても呼んだらきっとみんなと会えるわね。


「それってとっても素敵なことだね」


でも、母が生まれ変わった時の話をするのは、今生きていることをとうに諦めているんじゃないか、そう思うと不安になる。


いつか必ず平和な生活を送れるはず。美味しいものを食べたいし、学校で友達と遊びたい。


わたしは今の命を諦めなかった。


ある日敵の兵隊が家の中へ入ってきて、私たちに向けて銃を打った。幸いわたしは当たらずに済んだけど、涙でぼやけた視界にみんなが次々と倒れていくのが見えた。


父に逃げろと言われ、わたしは抱えていたお気に入りのぬいぐるみを放り投げて、裏口から無我夢中で外に出た。


何発もの銃声音が鳴る。あれはわたしの命を奪うために鳴っている。死は何度も間近に感じてきたけど、こんなに近いのは初めてで、恐ろしくて足がもつれた。


兵隊が追ってくる。わたし達家族を殺したところで何にもならないのに、彼らは一体なぜこんなことをするのだろう。


どのくらい走ったのか。まともに走ったことなんかないのに、生きたがっているから体は必死なのね。


森を抜けた先には海があった。本でしか見たことのない憧れの海が、目の前に広がっている。丘の上から地平線が見える。聞こえるのは、波がぶつかり合う音だけ。これが、静寂というのかしら。


パン!という音と同時に右足に痛みが走る。弾が皮膚をかすめ、よろめいて転んでしまう。


兵隊が後ろに立っていた。わたしは立ち上がってまた逃げた。


兵隊の放つ弾が腕や脇腹に当たる。痛くても我慢した。止まったら、殺される。


崖にまで追い詰められてついに逃げ場を失った。波の音が一層近くなる。


真下には憧れた海がある。岩に波が打ち寄せて水しぶきをあげる様子は、誰かの白い手が招いているように見えた。


きっと、ここから落ちたら命は終わる。でも、クジラに生まれ変わるには近道かもしれない。


わたしは1度だけ空を仰いで、それから海へジャンプした。白い手はわたしの体を包み込み、海中へと誘った。


最期に見たのは、自分の鼻や口から溢れ出る泡沫だった。



再び目を開けると、わたしは水中にいた。なのに全く苦しくはなく、冷たいとも思わなかった。


傍には巨大な生き物が2匹いて、優しい目でこちらを見つめてくる。


「おはようジェシー」


間違いなく父の声だった。


「誕生日おめでとう」


今度は母の声がした。よく見るとこの巨大な生き物はクジラだった。それも、世界で1番大きな生き物の、シロナガスクジラだ。


「パパ、ママ。わたし達はクジラになったの?」


「そうだよ。我々も最初は離れ離れだったんだがね、ママの鳴き声がして何百キロも泳いでここまで来たんだ。そしたらちょうど君が1個の泡から生まれるところだったんだ」


わたしは嬉しくなって父と母の体に擦り寄った。もう怖いことなんてない、耳を塞ぎたくなる音もしない。人だった時の、自分の青色の瞳が好きだった。金色の髪が好きだった。二度と同じ姿にはなれない。命は終わってしまったけど、またこうして新しい命で家族といられる。これが落ち着くっていうものなのね。


しかし、いくら海の中を見渡しても兄の姿がない。


「お兄ちゃんはどこ?」


そう尋ねると、父と母は寂しいような、ほっとしたような顔になった。


「お兄ちゃんは助かったの。まだ人として生きているのよ」


そうか、兵隊がやって来た時兄も撃たれたが、命が助かって今も人のまま生き延びているのだ。それを聞いて2人がこの表情をするのに納得する。


「お兄ちゃんは、泣いていないかしら。ひとりぼっちで辛くはないかしら」


悲しんでいるわたしの頭を父が鼻先で突っついた。少しくすぐったい。


「あの子は家族の中で1番強い子だよ。最後の最後まで生きて、年老いて命が終わったらきっとこの海にやって来るだろう。だからお兄ちゃんが幸福であることを祈って、みんなで待っていようね。さぁ、向こうに泳いで行ってみよう。もう逃げたり隠れたりしなくていいんだから」


それから父と母は鼻の穴の奥を震わせて大きく鳴いた。まだ体の小さなわたしはここまで大きな鳴き声は出せないけど、一生懸命に鳴いた。


遠い遠い場所にいる兄まで、この声が聞こえるようにと。

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