初恋の夏、カエル

弐月一録

初恋の夏、カエル

高校3年間、片想いしている男の子がいた。


同学年で友達の友達から始まり、友達になったという経緯。元々男慣れしていなかった私にとって、初めての男友達であり初めての恋の相手となった。


しかし勇気が持てず自身の想いを告げないまま高校を卒業し、時々連絡をとったり集まったりと友達の関係は続いて早くも10年が経っていた。


いつの間にか30代間近。恋人もおらずつまらない仕事に縛られた悲しい女と化していた。


夏の暑さも年々殺人じみていて、シミや小じわを化粧で隠す気も失せる。


8月、世間は夏休み。私はやっと2日間とれた短い夏休みをアパートの1室で満喫していた。


窓を全開してパンツ一丁でフローリングに大の字で寝転がりながら棒付きアイスを食べる。


最高だ。


誰にも見られないというのはこんなに自由なものなんだ。


感動に少し涙ぐんで、貴重な時間を1人過ごす。


出かけるのもめんどくさーい。


誰かと連絡をとるのもめんどくさーい。


玄関の鍵を閉めて、スマホの電源も切る。社会からの接触を一切断つ。こんな日も必要。


これがずっと続いていくのはさすがにまずいけどね。


しかし、5分後に私は初恋の相手と再会することになる。


さて、こんな状態で一体どうやって私は初恋の相手と再会できたのか。


まず侵入できる所は限られている。電気代を浮かすためにアパートの窓という窓は全部開けているのだが、子どもが1人やっと入れるほど。


もちろん私はショタコンではないので初恋の相手は子どもではない。


じゃあ、誰かが来て玄関を開けたのか。いいや、私は大の字の格好から一歩も動かない。


答え合わせをしましょう。


私は日頃の疲れもあって速やかに入眠することが容易い状態にあった。


ウトウトと夢の世界に旅立とうとした時、へその辺りに粘着性のある何かが落ちた。


すぐに現実世界へ引き戻されて、自らの腹を

見た。


そこには、悲鳴を上げざるを得ない物が乗っていたのだ。


金切り声をあげながら、私はそれをとっさに手で払い除けた。


親指サイズのカエルだ。カエルはべちゃっと壁に叩きつけられ脱力している。


「あっ…」


驚いたとはいえ、小さな命を痛めつけてしまった事実に胸が痛んだ。


私は距離を置いてじっとカエルを見守った。

カエルは平べたくなった体をゆっくり起こして何事もなかったかのように居座った。よかった、生きてる。どうにかして外に出してやらなくちゃ。


「痛えな鞠子〜」


野太い男の声が近くで聞こえた。一体どこから?


「好きでこんな姿になったんじゃねえぞ」


頭が、耳が、目がどうにかなったのかもしれない。


認めたくはない、認めたくはないが、目の前の光景を認めざるを得ない。


カエルが頭をぷにぷにした手で掻きながら喋ってる!


失神しそうになるが、迫り来るカエルに再び触られる恐怖が勝り私は素早く近くにあった掃除機を手に取り構えた。


「もう1度喋ったら吸い込んじゃうからね!」


カエルは困ったように腕を組んで首を捻る。


「なぁ、鞠…」


ぶおおんと掃除機の電源を入れる。


「待て待て待て! 同じ言葉を話せる相手を殺して心が痛まないのか!」


「意思疎通ができてもカエルが喋るなんて普通じゃないでしょ!」


きっと目の前のこれはカエルの姿をした化け物なのだ。あの折りたたまれた足をバネにして、こっちに思い切り飛んできたらと思うとぞっとする。


「落ち着けって。どうして俺がお前を知っているのか気にならないのか?」


カエルは両手を差し出しながら後ずさっていく。


確かに、なぜこの化け物が私のことを知っているのだろうか。気持ち悪い。


「翠って男、知ってるだろ?」


その名前を出され、私は無意識に掃除機の電源を切った。


「今、なんて?」


「俺は翠だよ」


「確かにみどりいろね」


「違う違う、俺は翠なんだ。前はお前と高校が一緒だった」


翠。忘れもしない私の初恋の相手。


背が高くて髪がさらさらしていて目が大きく鼻筋が通った格好いい人。最近は全然連絡を取っていない。いや、取れていなかった。何度もメールしても返事が来なくて、もう1年以上会っていない。


「待って、何であの翠がカエルになってるのよ?」


カエルの翠は丸い目をキョロキョロとさせ、への字口にして言った。


「実は、去年から俺は仮死状態にあるんだ」


は?


あまりに唐突だった。私の、は? は思ったより大きかったらしく、カエルの翠は吹き飛びそうになった。


「友達と酒を飲んだ帰り、酔って暴力団の巣に飛び込んで殴られたんだ」


「そんなことある?」


「体は問題ないが、頭の打ちどころが悪かった。あいつら卑怯だぜ、床に菓子の袋を置いてそれに滑って俺は金庫の角に頭を打っちまったんだ」


カエルの翠がわけのわからない話をしたが、大半は聞き流した。初めこそは驚いたものの、次第に冷静になっている自分がいる。


「まぁ、仮にあなたが翠だとして何で私の元へ?」


「この1年、元に戻るため考えていたんだ」


カエルの翠は顎に手を添えて足を組み、壁にもたれかかって格好つけた。


「お前、俺のこと好きだっただろ?」


ここで相手が人の姿だったなら、私は間違いなくときめいていたはずだ。


しかし、なぜだろう。


カエルにそう言われるとすごくむかつく。


「なぜだかわからないが、俺の魂はカエルに憑依したらしい。カエルの王子様を知っているか? グリム童話に収録されている童話の一つだ」


カエルの翠が言うには、そのグリム童話と同じように女の子からキスをされれば人間に戻れるということだ。私はスマホで検索しあらすじを見る。


「食中毒を起こしかねないので読者はマネしないようにと書かれてるけど」


「馬鹿野郎! いいからさっさとキスをするんだ!」


カエルの翠は足を器用に使ってビョーンと飛び向かってきた。


それからは私の叫び声が連発する。


中身があの翠だとしても、ヌルヌルヌメヌメのカエルの口にキスだなんて死んでも嫌だ。


カエルの翠は私の唇を目掛けて何度も飛ぶ。

私は掃除機を振り回して対抗した。


ファーストキスが初恋の相手でも、見た目がこれでは必死に逃げる。


べちゃっ


べちゃっ


カエルの翠は何度床に叩きつけられても諦める気配はなかった。


距離を詰められ、互いに息遣いが荒くなる。


「待って、休憩。何で、私なのよ? 麗子とか美香の方が美人で優しいでしょうが」


「お前は人妻にキスをしろというのか」


「嫁入り前の生娘にキスを迫るのもどうかと思うけど」


はぁとため息をついてカエルの翠は胡座をかいてぺちゃんこになった。私も疲れたので掃除機を握りしめたまま床に腰をおろす。


「ねぇ、私があんたのこと好きだったって、知ってたの?」


カエルの翠は気まずそうにそっぽを向いた。


「あんなにキラキラした目で見つめられてたら、誰だって気づくよ」


わかっていた上で、何もしてこなかったということは、脈ナシだったのだろう。淡い青春を思い出して少し笑った。


「俺のどこがよかったの?」


しばらく迷ってから、絞り出すように想いを伝えることにした。


初めて会話をした男の子で、髪がさらさらしていて、笑うとえくぼができて、よく気が利いて、優しくて、格好いい。いつの間にか惹かれていた。友達のままでもよかった。


ただ、こんな形で想いを伝えることになるとは思わなくて、悲しくなる。


「何で、カエルになんかなっちゃったのよ。馬鹿」


カエルの翠の頭頂部が、ほんのり赤くなっている。水分が抜けて干からびるのではないかと心配になった。


「俺だって、お前のこと気になってたよ。ただ、不器用なだけで」


「人間に戻りたいからって嘘つかないで」


「嘘じゃねえよ! だったら今頃彼女作ってるわ! あのな、キスする相手が誰でもいいなんて一言も言ってないぜ? 誰でもよかったら、そこら辺の女適当に襲ってる」


こんなちっこいカエルが人間の女に勝てるわけないのに。


「ごめん、カエルに言われても説得力ない」


「だから! 人間に戻ったらちゃんと言わせてくれよ」


「何て?」


「それは、その、お前がす、好きだっ…て」


私はカエルを両手で拾い上げて、軽くキスをした。生臭さが鼻について吐き気をもよおす。


「お前…」


「約束だからね。人間になったら、必ずまた言って」


カエルの翠はそれから話すことはなく、ゲコゲコと鳴いてベランダから出ていった。どうやら翠の魂が抜けて、ただのカエルに戻ったらしい。


これで、人間に戻れるわね。


夏カエル。俳句でよく季語に使われるらしい。


初恋の夏、帰る。なんてね。


確かに忘れかけてたあの青春の夏に、帰れた気がする。


こうして、摩訶不思議なひと夏の思い出は終わった。


だが、一向に翠はやって来ないどころか、メールの1つも寄越さない。


約束を破られたか、嘘だったか。


そんな最低な男に本気だった自分に嫌気がさし始めた時、翠の声が玄関の向こうで聞こえた。


「鞠子〜。開けてくれ〜」


頭の中に薔薇色が広がる。


ドアを開けたらあの格好いい人間の彼が立っていて、私は思い切り抱きつく。なんて青春、ロマンチック、ラブストーリー!


私は喜んでドアを開ける。そこには彼の姿はなかった。


恥ずかしくて隠れているのかも。辺りを探すが、どこにもいない。


「鞠子〜」


頭上から声が降っている。見上げると、そこにはハエが1匹天井に張り付いていた。


「鞠子〜人間に戻れなかった。またキスしてくれぇ」


私は無言で掃除機を持ち出し、ハエに向けて電源を入れた。



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