天泣

弐月一録

天泣

6月、梅雨。


こんな雨の日には、水たまりができると僕がうつる。


双子のような、兄弟のような、そんな愛着が湧く。鏡とは違う、特別があった。


雨つぶが落ちる度に波打って、口元が笑って見えるのだ。


僕も、こんな風に笑ってみたいのだけど、口の両端に重りがぶら下がったみたいにへの形をしたまま。


だから誰にも可愛がられないし、好かれもしない。ムスッとした顔の男の子を好きになるなんて誰も思うはずがないのだ。


「あーあ、僕も笑えるようになりたいな」


中学校の帰り道、傘を忘れた僕は、雨に濡れながらそう呟いた。


雨は次第に激しさを増していく。きっと風邪をひいてしまうだろう、そう思った。


水浸しで帰ったら、きっとお母さんに叱られる。


僕はどうしようかとその場で立ち止まった。


「よう、今日もいじめられたな」


どこからか声が聞こえた。昼間いじめてきたクラスメイトかと思って僕は辺りを見渡した。


「ここだ、ここ」


声は足元からだった。水たまりから僕がこっちを見つめていた。目が合った僕は笑っている。


違う、落ちた雨つぶが顔を歪ませてそう見えるだけ。ひとりぼっちが寂しくて膨らませた妄想が喋るわけない。


「何で言い返さない? やり返さない? 何もしないからあいつら調子に乗るんだ」


水たまりの僕は、僕に説教を始めた。無視を決め込んでいたが、あまりにしつこく言ってくるものだから観念して反応する。


「だ、だって、怖いんだもの」


夢か、幻か、頭がどうにかなってしまったのかもしれない。まぁいいか、久しぶりに僕の話を聞いてくれる相手がいるんだから。


「いつも無表情だから悪いんだ! どれ、俺の顔を貸してやろうか」


ぐい、と水たまりに引き込まれる感じがした。


しばらくすると、背後から数人の足音が聞こえてきた。水を踏みつけるその乱暴な音の主は、振り向かなくてもわかった。


「はにわだ! 傘忘れてやんの!」


はにわは、表現のない僕に付けられたあだ名だ。クラスメイトの太ったガキ大将が、仲間を引き連れてやって来た。1人は傘持ち、1人は鞄持ち、1人はタオル持ちだ。


「ちょうどいいや!俺の靴濡れちまったんだよ。お前のよこせよ」


ガキ大将に押し飛ばされ、僕は地面に突っ伏し泥まみれになった。格好悪い姿にみんなは笑った。けど、笑い声はすぐにやんだ。


一体僕はどんな顔をしているのだろう。みんなは明らかに僕を怖がっている。まるで、お化けや怪物に遭遇したような、恐怖が張り付いた顔だった。


「な、なんだよその顔! 気持ち悪い!」


僕は水たまりに自分の顔をうつす。そこには、口が耳まで裂け、目がつり上がっていた。


まさに、鬼だ。


ぺたぺたと顔に触れると、確かに裂けていて、目もつり上がっている。水たまりの僕と同じ顔になってしまった。あまりの驚きに声を失う。


「うわああああ!」


みんなは悲鳴をあげて、足をもつれさせながら逃げていった。


恐ろしい僕の顔は、雨が止むと同時にいつもの顔へと戻った。


この不思議な出来事が起きてからというもの、いじめはぴたりとなくなった。


「よう、また顔を貸そうか」


雨の日になると、水たまりの僕が話しかけてくる。


ちゃぷん。ちゃぷん。


水面が波打って、表情が生まれる。僕が人間らしくなれる時間。


これはきっと、神様から授かった力なんだ。

何かある事に、傘をささないで水たまりの上に立ち、僕の姿をうつした。


そうすると、水たまりにうつった僕が、僕に乗りうつる。


悲しいことがあったら泣かせてくれて、楽しいことがあったら笑わせてくれて、腹の立つことがあったら怒らせてくれて。


なんて面白い現象だろう。今までなかった感情が徐々に芽生えてきた。


このままずっと、雨が止まなければいいのに。


雨の日限定、水たまりに顔をもらえば表情ができる。


相手に伝えたいことがある時は、雨の外に呼び出して話をした。もちろん、僕は傘をささないのでびっしょりだ。


相手は不思議がったけど、僕の朗らかな顔を見て笑ってくれたり、怒った顔を見ては謝ってくれた。


人は五歳頃に表情の弁別ができるというけど、僕にはそれができなかった。何をしても笑わず、怒らず、ずいぶんと両親を困らせてきた。


銅像、地蔵、はにわ。これまで付けられたあだ名はぴったりで、座布団をいくらでもあげたいくらい。


でもこれからは雨の日になればへっちゃら。


こうして水たまりに頼りきったまま、僕はやがて大人になった。


「よう、いつの間にかでかくなったな。今日は大事な日だぞ」


大人の僕は花束を持って水たまりの上に立った。


今日は、片想いの女の子に告白をする日だ。

雲が少なくてちょっと雨が弱々しいけど、表情は作れる。


「とっても緊張するよ。今回もよろしく頼むよ」


彼女を公園に呼び出した。地面の土にはたっぷり水たまりがあり、小雨が水面を揺らす。


たちまち僕の顔は柔らかく微笑んだ。


彼女がやって来た。絶対上手くいく。水たまりに頼ればばっちりだ。


赤い傘をさした可愛い彼女。すぐ目の前に立って、大きな瞳で僕を見上げた。


後ろに隠した花束を彼女に渡そうとしたその時、とんでもないことが起きてしまった。


彼女は、足で水たまりに土をかけてぐちゃぐちゃにしたのだ。


可愛い靴が、あっという間に汚れてしまった。


急に襲いかかる絶望に、花束を落として僕は両手で顔を覆う。


声にならない声で叫んだ。


とんでもないことをしてくれた。


きっと僕の顔は醜く歪んでいるに違いない。


そんな姿を1番愛する相手に見られたくない。


「大丈夫よ、顔をあげて」


彼女の優しい声がして、泣きながら顔をあげた。そこに鏡があった。


いつも鏡の中の僕は無表情だった。それがなぜか、水たまりがなくても泣いているのだ。


「ど、どういうこと?」


ぺたぺたと顔に触れる。雨粒じゃなくて、僕自身の涙が表情を作っていた。


「あなたは自分の力で色んな表情が作れるようになっているのよ。水たまりのおかげじゃない、ただの思い込みだったのよ」


僕は他の水たまりに顔をうつした。水たまりの僕は何も喋らず、情けない顔で泣いているだけ。


全ては、水たまりがあれば表情ができるという、自己暗示の末に作り上げた妄想だったのだ。


何かに頼らなければ何もできないとばかり思い込んでいたせいで。


水たまりが喋るわけがない。冷静に考えれば当たり前だ。


でも、耳をすますと「よう」ってまた僕が気軽に話しかけてくれる気がした。


「そうか、僕は、自分の力で笑ったり泣いたりできるんだ」


頭上に雲はなく、青空が広がっていた。温かい雨が涙と一緒に僕の頬を滑り落ちる。


「天気雨だ」


「天泣とも言うのよ。晴れてるのに泣いてる。今のあなたみたいね」


雨粒が光り輝く空間の中で、僕は彼女を抱きしめながら思いっきり笑った。


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