リズム

たきたたき

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 東京での仕事に一区切りつけた際に「良い機会なんだし気分転換に海外にでも行ってみたら?」とアドバイスをくれたのは専門学校時代の古い友人であった。

 世の中にはワーキングホリデープログラムというシステムがあるらしく、詳しく調べてみると三十手前の私にとってそれを活用するには最後のチャンスに思えた。そして私は幾つかの国の中からカナダを選び、とりあえずはと二ヶ月間、現地の語学学校に通うことにした。


 ホームステイ先に恵まれたり、あっさりと地元のバンドに参加することが出来たりと重なる幸運が続いた結果、現地の知人に囲まれることで私の英語のスキルはみるみる上達していった。

 そして日常生活に困らない程度の語学力を身につけた頃、学校卒業後も引き続きお世話になっているホストファミリーに「せっかくこの国に居るのだから同じ街ばかりじゃなく、カナダ国内を旅行でもしてみたらどうか?」と提案をされたので、これも良い機会かと日本から持ってきたカナダの手引本を見ながら旅のルートを決めることにした。


 私がこのカナダ中部の街を旅の中継地に選んだのにはいくつかの理由がある。一つは日本人観光客や留学生があまりいないであろうこと。もう一つはホストファミリーの故郷であったと言うことである。

 今泊まっているこの宿は、ドミトリーと呼ばれる二段ベッドが数機設置されている何人かで一室をシェアする部屋と、通常のホテルのように素泊まり用の一人から二人用の部屋が混在している安宿であり、私はシャワーだけが他の宿泊者とシェアのシングルルームの一室に二泊三日の予定で泊まっている。

 起き抜けにシャワーを浴びた後で半乾きの髪のまま帽子を被り、ホテルの外門が開く六時になったのを見計らってホテルの外に出る。ここの朝のひり付くような寒さは吐く息も白く、まだ十月だというのに私はすでにマフラーと手袋をしダウンジャケットを着ている。

「さっむうう。」と思わず日本語が出た。英語ばかりの生活をしていると、英語でインプットして英語でアウトプットすると言う日本語を挟まない言語の回路になり、挙句には夢まで英語で見ると言うのに何故かこう言う時には日本語が出る。

「Excuse me. 」

 不意に声をかけられた。何事かと振り返ると私と同年代か少し年上かと思われるような金髪の女性が立っていた。

「Hi, good morning.」

「Good morning.」

 こんな朝早くに起きてくるのは私くらいかと思っていたが、そうでは無いようだ。とりあえずは何事かと話を聞くことにした。

「May I help you?」

「I want to eat something. Do you know some cafe or someplace, around here?」

 何か食べたいのだがこの辺りでどこかお店を知らないか?と言うことらしい。そのwant toとcafeの発音にはクセがあり、この人はカナダ人ではなさそうだと当たりをつけた。ちょうど私も朝食を食べるために外に出たので、よければご一緒しませんかと聞いてみる。

「I’m gonna gota eat breakfast now. If you fine, shall we together?」

「OK. Good Good!」

 その女性は喜んで、と返事をしてくれた。


 彼女はスイス人のアンナと言い、母国語はドイツ語だと言うことだ。昨日の深夜にここに着いたのは良いが何も食料を持っておらず空腹で朝早く目が覚め、何か食料が無いかとフロントに尋ねようかと思っているところに私が居たと言う話だった。

 続いて私も自己紹介をする。日本人でワーキングホリデーを使い既に半年もカナダに居ることを伝えると、彼女もまたワーキングホリデーでの滞在で、入国後すぐの東から西へとカナダ横断の旅をしている最中だと言うことだった。


 そんな話をしながらホテルから歩いて三分のカフェに着いた。扉を開きアンナを先に入れる。たった数分歩いただけだが体はすっかり冷えてしまっている。

 私は昨日の朝早くに長距離バスでこの街に着いた。一応と真っ直ぐにホテルには来てみたがやはり時間が時間だけに外門すら空いておらずホテルには入れず、寒空の中凍えるようにどこか店は空いていないのかと、ホテルの近辺を大きいバックパックを背中に担ぎ彷徨うように歩いて見つけたのがこのカフェである。

 こぢんまりとした可愛い店構えのこのカフェは、花や植物が至る所に飾られており、店内にはコーヒーとパンケーキの匂いが充満している。カナダの古き良きと言うのがよく分からないが、恐らくそう言うものを残している店なのだろうと言うことがそれらから窺い知れる。そしてまだ朝の六時過ぎだというのに、すでに数名のお客さんが入っているのが驚きである。

「Good morning.」

 店員のお婆ちゃんが声をかけてくれた。昨日の朝もここに長居をしたので顔を覚えられているのだろう。私はこちらに来て覚えた定型文のような会話をそのお婆ちゃん店員と一言二言交わした。それから適当な席にアンナと向かい合って座ると、すぐにさっきのお婆ちゃん店員がコーヒーのポットを持ってオーダーを取りに来てくれた。私たちが寒がっているのを気遣ってくれたのだろう、実にありがたい。私たちは取り急ぎコーヒーを注文し、大きいマグカップに並々と暖かいコーヒーを注いでもらう。私は糖分を摂る為にメイプルシロップを入れてかき混ぜる。アンナはブラックのままだ。

 この店の朝食メニューはパンケーキと卵にベーコンかソーセージ、それに簡単なサラダのセットとコーヒーのみで実に簡潔である。ただし卵の焼き方にはこだわりはあるらしく一律でスクランブルエッグで良いのに「焼き方はどうする?」と聞かれた。謎のカナダのレストランあるあるである。私はサニーサイドアップでと頼み、アンナはスクランブルエッグを注文した。

 そうしてようやく一息つくと「Soそれで,」からアンナから私への質問が始まった。この街へはいつ着いたのか?この街へ来るまでどこの街を通ったのか?これからどこへ向かうのか?などなどである。

 その質問に一つずつ丁寧に答えていると、パンケーキのセットが運ばれてきた。昨日よりも明らかに量が多い。運んできたお婆ちゃん店員は何故かニッコニコである。私はお礼を言いカナダ式にパンケーキにドバドバとメイプルシロップを掛けて食べ始めると、それを見てアンナもメイプルシロップをドバドバ掛けて食べ始めた。

 アンナと少し話してみて分かったが、彼女も英語は完璧というわけではない。現にこの旅の終着点の街で3ヶ月間ESLの学校に通う予定という話だ。この感じだとインターメディエイトかアドバンスくらいのレベルからだろうが、まだそんなに実際の生きた英語というものに接していないというのが話していて分かった。私はどちらかと言うと英語はバンドメンバーやその取り巻き、そしてホームステイの家族などと話して口語体を耳で覚えたタイプなので文法が怪しい。更に口語のままのリンキングを使うことが多く、度々アンナに聞き返されることがあった。その都度、私は即席の英語講座を開くのだが、実際それが合っているのかどうかが私自身が分かっていない。それはアンナも気付いているのか話半分で聞いているところがあり、それはそれでなかなか楽しい時間が過ごせている。

 パンケーキを食べ終わると、お婆ちゃん店員はおかわりのコーヒーを注ぎに来てくれた。私は更に追加でTo Go持ち帰り用のコーヒーも注文すると、アンナもそれに続いた。

 食後、少しのんびりしてから店を出たが、チップを多めに払って10ドルのこのお店は素晴らしいと思う。


 外に出ると既に七時を回っており、街は朝の活気に包まれていた。

 お腹が満たされたからなのか、シンとしたこの朝の寒さが心地良くなっていたので私は散歩に出かけることにした。そう伝えてアンナと別れようとするとアンナも着いてくるとのことで、二人して朝からデートのような感じになってしまった。

 と言っても私はこの街を知らない。昨日は朝に先程のカフェを出てホテルに向かいフロントに事情を説明すると、私の予約した部屋は前日に使う人がいなかったらしくチェックインの時間からは随分早いはずなのにそのまま部屋に通され、気がつくと夕方まで眠ってしまっていた。私はぐずぐずと夕方に起き出してシャワーを浴び、受付のスタッフに教えてもらった近所のスーパーマーケットに行き適当にポップ炭酸飲料に水とスナックに袋ラーメンなどを買い込むと、荷物入れ兼鍋の持ち歩いているタッパーにお湯で袋ラーメンを戻し、自室で適当な食事をした。その後、暇を持て余したのでホテルの地下にある簡単なバーで数杯の酒を飲むと早々に酔っ払い、部屋に戻るとすぐに寝てしまった。そして朝早くに目が覚めて今に至る。要は昨日は観光どころか全く何もしていないと言うことである。

 とりあえずは昨日の私の唯一の外出先であるスーパーマーケットにアンナを案内した。当然ながらまだオープンしてはいないが、場所さえ分かれば一人でも行けるだろう。地図も持っていないので朝のデートはこれで終わる。たった三十分の散歩であった。

 ホテルに戻りアンナに別れを告げて部屋に戻った。まだ時間は七時半過ぎなので特にすることもなく、横になって休んでいると知らない間に寝てしまっていた。


 次に目が覚めたのは昼の十一時過ぎであった。身支度を整えながら昼食をどうするか考える。感覚的にさっき食べたばかりだと言えばその通りなのだが、朝食を六時に食べたと考えると別におかしくはない時間ではある。それはともかく今日こそはこの街を散策する予定で、ホストファミリーに勧められたミュージアムとやらに行くのが一番の目的であり、後はウインドウショッピングをしたりと知らない街を歩くこと自体が目的だ。

 部屋で歯を磨いたりとグタグタやっていると時計が十二時を回ったので、そろそろ出かけるかとホテルのフロントまで降りる。そうして外に出ようとするとアンナが外出から戻ってきた。手にはスーパーマーケットの袋を持っており買い出しの帰りのようである。私はアンナに簡単に挨拶をし外に出た。とりあえずは私も昼飯を食べてから街の散策に向かうとしよう。

 ホテルのフロントスタッフに教えて貰った歩いて十分ほどのフードコートにやってきた。ここには日本人どころか観光客風のアジア人すらいない。この居心地の悪さから推測すると周囲に観光地が無い本当に地元民しか来ない場所らしい。私は米が食いたかったのでアジア料理を注文しスパイシーなチャーハンに唐揚げと野菜の炒め物をコーラで食べる。全ての料理がギットギトの油まみれだが食にはそんなにこだわりがないのでこれで十分だ。こうして腹ごしらえも出来たのでようやく私は目的の探索に出かけることにした。


 昨日ホテルのフロントで貰ったこの街の観光用の地図を片手にまずはマーケットに出かける。ここには色んな土産物を売る店が集まっており、特に欲しいものは無いが時間潰しにと見て回っていると再びアンナと出会った。

 一日もあれば見て回れるような狭い街であり、しかも観光客が行く場所となると更に場所は限られる。なので街中で再会することを予想していたとは言え、少し気恥ずかしいのは何故だろうか。

「Oh, very nice to see you again!」

 アンナは白々しい挨拶をかけてきた。明らかなジョークには明らかなジョークで返すのが正解である。

「Very long time no see, Mademoiselle.」

 互いに笑い合い、再び行動を共にすることにした。

 アンナはこのマーケットで探し物があるらしい。彼女は旅で訪れた各州のピンバッチとマグネットを集めているらしく、斜めに掛けている小ぶりのバッグには幾つものカナダの州旗のピンバッジが取り付けられていた。と言うことで急遽ミッションが課せられたので数件の土産物屋さんを見て回ると、ピンバッチは簡単に見つかったのだがマグネットが見つからない。正確には彼女が首を縦に振らないのだ。彼女が言うにはマグネットにもいくつかのメーカーとデザインがあり、後で冷蔵庫に貼った時の見栄えを考えると出来ればそれらを統一したいとのことで、こうして各所で時間をかけてじっくりと探しているらしく、ここで見つけたマグネットはそれとは違うとのことである。結局このマーケットには売ってなかったのでマグネットは買わず仕舞いだった。


 次に向かったのは州立のミュージアムで、ここがホストファミリーに勧められた場所である。入場料を支払い館内に入ると物凄く大きいマンモスに出迎えられた。それを見てアンナは大袈裟に驚いてみせる。私がそれを見て笑うと満足したような顔で先に進んだ。

 このミュージアムが何の博物館なのかが謎ではあったが、順に見ていくと古代から現代に至るこの州とこの土地の歴史を展示する博物館らしいと言うことが分かってきた。

 この博物館の規模は凄い。一番驚いたのはこの館内に帆船が丸々収められていることであり、その船は昔のカナダへの移民船のレプリカだそうでもちろん船内にも入ることが出来る。ここがホストファミリーのオススメなのが納得出来た。

 そうして二人で展示品を一つ一つ丁寧に見ていく。私一人であればざっと流し見をするような所もアンナはじっくりと解説の文章を読む。そんな彼女のスピードに合わせていると外に出るまで三時間も掛かってしまった。

 「It was so fun!」と言い合うと次の目的地をどうするかと相談し、アンナの希望でアートミュージアムに向かう。ミュージアムのハシゴなど生まれて初めての経験ではあるものの、彼女とならそれはそれで面白いかもしれない。問題は私が絵画に全く興味が無いということぐらいである。それを察したのかアートミュージアムは一時間とかからずに出てくることになった。

 その他の観光地で目ぼしい所といえば、動物園か、州一ともカナダ国随一とも言われる規模の巨大なショッピングモールである。動物園は外なので寒いからと私が嫌がると自然と目的地はショッピングモールに決まり、バスに乗って郊外に向かう。途中、バスストップでもなんでも無い場所で運転手が地元客をどんどん拾うのに二人して驚く。

 市街からバスで約三十分掛けて目的地に着いた。モールの入り口にあった館内施設の案内板を見ると、建物のど真ん中に巨大なアイススケートのリンクがあり、それを中心に物凄い数の店舗が入っていた。私たちはその時点で既に気後れしながら中に入る。

 結果的にこのモールは失敗だった。地元民が家族や友人と週末に買い物に来るにはとても良い場所だとは思うが、観光客、特にこうしてカナダに暮らしつつ旅行をしている私たちのような人間には向いていないようで、わざわざここで見るべき物、旅先で買うべき物は無かった。どの店にも入らずにざっと一回りして再びバスに乗り三十分掛けてすごすごとホテル近辺に戻ってくると、夕食はお金を節約したいということでレストランでは無く昼間のマーケットに戻り、マーケットのフードコートで夕食を食べることとなった。


 今日一日アンナと色々なことを話し合った。アンナからは一年半のバケーションを使いワーキングホリデーにやってきたこと。なのでとても日本では考えられないが、今も会社には籍があるということ。そしてこのワーホリの目的はあくまで英語のスキルアップで、それは仕事に直結するだけに必死で勉強しようと思っていること。旅の終着点の街では普通の語学を学ぶESLとは別に、更に三ヶ月間、ビジネスに特化した英語を学べるESLスクールに通おうと思っていることなどを聞いた。私は私でワーホリにはあくまでバケーション目的で来たのだが、気が付くと英語漬けの環境になっていたことや、こちらで偶然に入ったバンドのことや今住んでいる街のことなどを話した。その他にも今のホテルや今まで通ってきた街の話、勿論、お互いの国の文化や言語など話は尽きない。


 ホテルに戻りアンナと別れた。私は部屋に戻り荷物を置いてからランドリー室へ向かう。洗濯が終わるまでの間、部屋に戻り横になりながらのんびりと時間を潰す。時間になり再びランドリー室へ向かい洗濯機から乾燥機へと洗濯物を移すと、この宿の無料のパソコンを使いメールをチェックをする為にラウンジへと向かう。するとアンナもラウンジでパソコンをしていた。なんでも今日話題に出た今まで買ったマグネットコレクションをわざわざ私に見せる為に、パソコンで暇を潰しながら私を待っていたらしい。見せてもらったそれはラバー生地の5cm程度のもので、ありきたりの四角形のものでは無く州の形に合わせたデザインになっており、パズルのように組み合わせると国の形になるらしく、確かにアンナのこだわりを感じるコレクションだった。やはり今日見つけられなかったこの州のマグネットが気になるらしく、明日時間いっぱいまで探してみるとのことだった。


 ランドリー室から引き上げた乾いた洗濯物を自室に持って帰り、荷物の整理をしてから私は地下のバーへ向かった。アンナも後で合流すると言っていたので、私は先に一人で飲み始める。

 私が真っ先に注文するのはドイツの薬膳酒のような酒でショットで頼む。これを先に飲んでおけば悪酔いもしないし二日酔いもしないと言う話をバンドメンバーから聞いて以来、いつも一杯目はそれを一気飲みをする。

 十月末のこのホテルは時期的に客がいないのかバーテンは今日も暇そうである。昨晩のこのバーには数人の宿泊客がおり、暇を持て余し私に声をかけてきた宿泊客はカナダ人の男で車で国を横断中という話だった。そんな感じで知らない人と会話をし、のんびり音楽を聴きながら酒を飲むのも悪くない。それにここのバーテンは音楽を分かっている。店にはジュークボックスもあるのだが、うっすらと掛かっているおそらくはバーテンセレクトのBGMを聴くだけでも、彼はカナダには珍しいきちんとした音楽通だということが分かる。

 一人音楽を聴きながら薄暗い店内でまったりとした時間を楽しむ。暫くすると客足も少しずつ伸びてきて、バーテンは忙しそうに仕事をし始めた。


 アンナがやってきた。顔がホクホクと赤くなっており髪の毛も乾かしたてのように見えるということは風呂上がりなのだろう。彼女は迷うことなく私の隣に座ると、地元産のビールを注文した。

 乾杯をし会話が始まる。少しずつ酔いも回りお互いが饒舌になっていく。本当になんということのない会話が楽しい。

 失礼な言い方ではあるが、彼女は格別美人という訳でもお洒落という訳でもない。ただ目尻に皺を寄せて屈託無く笑う姿や、物の言い回しやユーモアセンスに不思議な魅力を感じる。何よりも今日一日ずっと話していても疲れないどころか、まだまだ話し足りない気分にさせるだけの何かを彼女は持っている。

 他の宿泊客も巻き込んでみんなでテーブルに着いた際も、彼女は私の隣に座り続けた。みんなでトランプをしたりダーツをしたりビリヤードをしたりそれぞれの国の話をしたりしながらゆっくりと夜は更けていく。一人、二人と席を立ち、再びまったりとした時間が過ぎる。

 今朝、アンナから明後日の早朝の便でこの街を出ると言う話を聞いている。私は明日の夕方の便なのでその前に一緒にご飯でも食べようかと日中に話をしていたのだが、この後ろ髪を引く思いは何なのだろうか。今ここで別れればもう会えない。そんな気にさせる何かがここにはあるらしく、今では二人で何を話すでも無く音楽を楽しみながらゆっくりと酒を楽しんでいる。

 誰かがジュークボックスで古いバラードをかけた。それを聞いてアンナは踊ろうと誘ってきた。私はそれに応える。勿論踊った経験などは無い。薄暗いバーの隅っこでアンナは私の腕を彼女の腰に回させて私に体を預けるとリズムに合わせてゆっくりと揺れ始める。私にはこれが踊っているのか、ただ二人で抱き合って揺れているだけなのかは分からないがこれはこれで良いのだろう。周りも特に冷やかすことはせず、バーテンだけが私たちに向かってグラスを上げる仕草をした。

 シャンプーの匂いをさせた彼女の髪の毛が私の鼻を擽り、彼女の体温と私の体温が溶けていく。時間は永遠であり一瞬である。

 曲が終るとアンナは私の耳元で自国の言葉で何かを囁いた。そして私の頬にそっとキスをし、絡み合った指を解き「Good night.」と言葉を残して彼女はバーを後にした。


 目が覚めると次の日だった。昨晩はあの後、残ったグラスを空けると千鳥足で部屋に戻りぐっすりと寝た。無論一人でだ。私も彼女も行き摩りの人間と寝る趣味は無いらしく、これはこれで良かったとどこか安心をしている。

 時計を見ると九時を回っている。急ぎシャワーを浴び身支度を整え、なんとかチェックアウトの十時には間に合った。

 そしてフロントにお願いをして、長距離バスの出発の時間までホテルのストレージルームに私のバックパックを預かってもらう。するとそのフロントから、荷物引き換えの札と共に一通の手紙を渡された。その手紙にはAnnaと署名があった。


 私は昼ご飯を食べる為に一人、昨日も来た現地民しかいないフードコートに向かう。

 途中、土産物屋さんを見つけたので何の気なしに入ってみると、彼女が探していた例のこの州のマグネットと思われるものが売ってあった。

 私は迷わずそれを手に取ると「一応買っておくか。」と一人日本語で呟くのであった。

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