第16話 いつもの朝
「んっ……」
俺はゆっくりと目を開ける。
どうやら、考えている間に眠っていたらしい。
ちゅんちゅん、という鳥のさえずりが聞こえ、俺は身体をゆっくりと起こす。
ぼーっとする頭を何とか動かしながらカーテンを開け、軽く背筋を伸ばす。
全身に当たる日差しの暖かさで徐々に頭が覚醒していく。
覚醒していくと、昨日の事を鮮明に思い出す。
ミクの本心を知った。
ミクの気持ちを知った。
その上で俺の出すべき結論があるはずだ。
俺はベッドへと移動し、二枚のチケットを掴む。
ミクがアイドルとして最後のステージになるかもしれない場所。俺が答えを出すべき期限。
「……結局、纏まらないな」
気付けば寝てしまったが、それまでずっとこれからの事を考えていた。
ミクの気持ちを理解し、姉さんの気持ちも分かっている。
どちらかを選ばなければならず、俺の選択が二人の人生を、そして、俺自身の人生を大きく変える。それをずっと考えていて、結局、答えは出ない。
「顔、洗ってくるか」
今、考えてもきっと碌な考えは出ない。
そう思い、俺は洗面所へと向かう。
洗面所へと向かう途中、キッチンから音が聞こえた。
どうやら、姉さんはもう起きているらしい。
俺は洗面所で顔を洗い、廊下を進み、姉さんに声を掛ける。
「おはよう、姉さん」
「おはよう。アヤト。良く眠れた?」
「ああ……アレ? そういえばミクは?」
「ミクちゃんなら朝早くに帰ったわよ。ライブのレッスンがあるからって」
てっきり早く起きて、リビングに来ていると思っていたが、どうやら違ったみたいだ。
という事はもうしばらくは会えないって事か。
そうなると、次会った時は答えを出すとき、か。
俺が一つ息を吐くと、姉さんは料理をしながら口を開く。
「それで? 何か悩み事?」
「え? ああ……ちょっとね」
「そう」
俺はリビングへと足を進め、適当な所に座る。
姉さんはただ何も言わずに調理を進めていく。そんな調理の音が部屋の中に響き渡る。
何も聞かないのか?
俺は頭の中に疑問符が浮かぶ。
てっきり、昨日の夜、ミクとアヤトが何があったか、なんてのを根掘り葉掘り聞くと思っていたが……どうやら、聞く気はないらしい。
俺は考える。ミクの件も考えなければならないけれど、姉さんの件も考えなければならない。
俺は果たして姉さんの事をどう思っているのか。
当たり前の話だが、俺は姉さんが大切だ。
物心がついた時からずっと一緒で、いつも俺を優しく支えてくれて、導いてくれた自慢の人。
俺の姉であり、憧れの人であり、決して届かない人。
そんな人が俺に、男として好意を抱いてくれている。
そんな姉さんの気持ちに俺は応えたいと思っているのもまた事実だ。
それはミクも同じ。
俺は結局、二人の気持ちに応えたいと思っているんだと思う。
でも、それを許す世の中じゃない事を俺は良く知っている。
だからこそ、選ばないといけない。
姉さんか、ミクか。
「はあ……」
「……考える事が多いわね」
「そうだね……考える事が本当に多いよ」
「私の事? ミクの事? それとも両方かしら?」
姉さんは顔を向けることなく、キッチンから聞いてくる。
俺も姉さんには顔を向けずに答える。
「両方、かな?」
「そう」
「あ、そうだ。姉さん。今度の土日空けといてね」
「土日?」
「ミクのライブチケットを本人から貰ったんだ。それに行くんだろ?」
「分かったわ、開けとく」
昨日、ミクから貰ったライブチケットの話をすると、姉さんは調理を終えたのか、エプロンで手を拭きながらこちらへと歩いてくる。
「ミクちゃんのライブね。この日までに答えが欲しいとか言われたかしら?」
「……まぁね」
「ふふ、だと思ったわ」
姉さんは優しく笑い、俺の隣に腰を落ち着かせる。
姉さんはそれから僕の頬を軽く撫で上げる。優しく、包み込むように。
「貴方には辛い選択をさせる事になって申し訳ないわね」
「それは……良いよ。多分、遅かれ早かれこうなってたんだし。それに選択をする時、俺はやり方を姉さんにちゃんと教えてもらってるから」
「そう」
姉さんが教えてくれたことは今だって俺の中に根付いている。
だから、答えを出す事は出来るはずなんだ。ただ、その答えが世間と大きな乖離があるだけ。
まだ、俺はその覚悟を決められていない。
二人の人生を背負って進む、という覚悟が。
俺は心の緊張を解す為に一つ息を吐く。
「ふぅ……姉さんはさ、もしも、俺がミクを選んだらどうする?」
姉さんに聞いてみたい事を聞いた。
ミクは昨日言っていた。もしも、俺が姉さんを選んだ場合、ミクはアイドルを続け、皆のトップアイドルである、と。
俺がミクを選んだら、俺だけのアイドルになる、と。
じゃあ、姉さんはどうなのか。
姉さんは俺の質問に目を丸くしてから、考え込む。
「そうね……あまり考えた事無かったわ」
「え? そうなの?」
意外な答えが返ってきて、俺は目を丸くする。
本来、そういうのって考えるんじゃ。俺がそう思った時、姉さんはそうねぇ、と呟いてから言葉を続ける。
「正直、私はアヤトに選ばれるって思ってたから……」
「えぇ……すごい自信だ……」
「そう? ああ、でも、これは自信ってわけじゃないのよ」
「そうなの?」
てっきり自分に滅茶苦茶自信があって、絶対に選ばれるという確信ある人間の言葉だと思ったけれど。
俺の考えとは裏腹に姉さんは真っ直ぐ言葉を紡ぐ。
「私が選ばれようと、ミクが選ばれようと、私はきっと何も変わらないのよ。そうなれば、私は貴方の姉さんに戻るだけ。関係は進まずに前と何ら変わらないものになるのよ」
「……そういう事」
「ええ、そうよ。だから、選ばれる方が当然嬉しいけどね、選ばれなくても、姉さんはアヤトの側を離れないわ」
「えっと……それってもしも、俺とミクが同棲しても居るって事?」
「そういうことじゃないわ。隣には住むけど」
それはただ一緒に暮らしていないだけで、実質一緒に暮らしている事と同義では?
だって、姉さんの頃だから間違いなく入り込んで、色々と世話を焼くだろうし、それをミクだって当たり前のように受け入れそう。
かくいう、俺もそうだ。多分、姉さんが一人居るのを普通に受け入れてしまう。
多分、今と大して変わる事の無い生活を送るのだと簡単に想像出来る。
「なるほど……」
「勿論。姉さんだってアヤトと恋人になりたいわよ? 貴方と一緒に居て、愛を育んで、子どもだって欲しい。でも、それが叶わないからといって、アヤトと離れる理由にはならないわ。
アヤト、私はね、アヤトが幸せであって欲しいの」
「…………」
俺は姉さんの言葉を静かに聞く。
「私は貴方が幸せであればそれで良い。それ以外は何もいらない。だから、私かミクちゃんか。それは貴方が後悔しない選択をして。私やミクちゃんに遠慮する必要なんて無いからね」
「……ありがとう、姉さん」
そうか。
姉さんの言葉を聞き、ほんの少しだけ荷物が軽くなった気がした。
俺はずっとこう考えていた。
姉さんとミクが最良の幸福を手に入れられるような選択をしなければならない、と。
この選択には二人の人生そのものが懸かっていると。
この気持ちはきっと、姉さんが俺に対して抱く気持ちと全く同じだ。
俺もまた、姉さんとミクには幸せであってほしい。
ただ、それだけが俺の願い。
俺も姉さんも同じ気持ちを持っているのなら。選択も分かりやすくなる。
「……俺も、姉さんやミクに幸せになってほしいんだ。いつまでも幸せそうに笑っていて欲しい」
「それがアヤトの気持ち?」
「うん」
「じゃあ、その為にはどういう選択をしたらいいのか、しっかり考えて、姉さんとミクちゃんにちゃんと伝えて。それが貴方の責任よ。
前も言ったかもしれないけれど、貴方の選択を私達は絶対に受け入れるから」
どんな選択をしても受け入れてくれる。
その言葉だけでこっちがどれだけ救われるか。
姉さんもミクも大切。その気持ちは今も昔も変わらない。
だとすると、後は俺の感情だ。
俺は果たして二人に『恋愛感情』を抱いているのか。
それが未だに俺の中でははっきりしないのだ。
確かに昨日のミクは美しく、それでいて可愛らしく見えた。
昔からずっと見てきたミクとはまるで違う女性的な美しさが垣間見え、胸も高鳴った。
彼女を失いたくない、と心の底から思った。
何処にもいって欲しくないと。それがもしも、恋心なんだとしたら、俺はミクに恋をしている。
でも、姉さんは?
俺は姉さんの端正取れた顔を見つめる。
それに姉さんは首を傾げ、俺は視線を逸らす。
「どうしたの?」
「あ、いや……なんでも無い」
「……アヤト」
姉さんはしばし押し黙ってから、俺の名を呼ぶ。
俺が姉さんの方向を向いた時、姉さんは俺の頬を手に取った。
まるで王子様がお姫様の頬に手を添えるように。それから優しく俺の頬にキスをした。
「ね、姉さん!?」
いきなりの事に俺が声を上げると、姉さんは優しく労わるように俺の頭を撫でる。
「辛い顔をしていたから。励まそうと思って」
「姉さん……」
「アヤトは優しいから。色んなことを考えちゃうのよね。ふふ、そんな不安そうな顔をしないで、自信を持ちなさい。貴方はちゃんと逃げずに向き合おうとしてるんだから、立派よ」
励ますように姉さんは何度も俺の頭を撫でながら言ってくれる。
昔から、そうだ。
姉さんは俺が辛い顔をすると、いつも頭を撫でて優しく励ましてくれる。
そして、俺はいつもそれに甘えてしまうんだ。
だから、もしかしたら、俺も若干、というか、だいぶシスコンなのかもしれない。
俺は姉さんにもたれかかると、姉さんは俺の肩を抱き締め、囁く。
「ちょっと、疲れちゃった?」
「うん……」
「そう。なら、たまにはゆっくり休まないとね。お姉ちゃんにいっぱい甘えなさい」
優しくとろけるような甘い声で言う姉さん。
ああ、相変わらず、こういう時の姉さんの声は優しくて、脳がとろけてしまいそうになる。
ある種、逃れられない麻薬のようなモノだ。
けれど、ちょっと疲れてしまったのは事実だ。
俺は優しく頭を撫でる姉さんに甘えたまま言う。
「絶対に答えは出すから、今だけは……休ませて」
「ええ、勿論よ。しっかりと休みなさい」
「ありがとう」
それから結局、俺は日が暮れるまで姉さんにずっと甘えていた。
何だか久しぶりにそんな長時間甘えた気がした。
でも、俺はそうやって甘えられる事が何だかとても嬉しかった――。
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