第5話 食後の甘やかし

 夜ご飯も食べ終わり、俺は手を合わせる。


「ご馳走様でした」

「はい、お粗末様でした。アヤト、少し待っててね」

「え? うん……」


 ニコっと優しく笑う姉さんは俺が食べ終えた食器を手に持ち、キッチンへと向かう。

 何というか、俺は居た堪れない感情を抑えられないでいた。

 姉さんの変化にまだ慣れていない自分が居る。

 

 いつも厳しく律しようとしてくる姉さんがこんなダダ甘になるなんて全く想像もしていなかった。

 俺は机の上に置かれていたコップを手に取り、お茶を一口飲む。

 これからは多分、こういうのが当たり前になる以上は慣れていかないといけない。

 

 つまり、姉さんの誘惑? に打ち勝つ精神力が必要だという事だ。

 姉さんは身内びいきに見ても美人だ。

 そんな姉さんと一緒に暮らせてお前は良いな、と周りからは何度も言われてきた。


 それだけの美人が迫ってくる、という状況で俺が取るべき選択はただ一つ。


 そう簡単に姉さんに流されちゃいけない事だ。


 姉さんは間違いなく俺を堕としに来ている。

 そこに手加減なんてものは無い。自身の長所をフル活用して攻めてくるはずだ。

 俺はそれに流されたらいけない。きちんと、己を律していかないとダメだ。


 これは簡単に流されて決めていいものではない。

 しっかりと俺の中で考えて、姉さんの将来とか、自分の将来とか、そういう事をしっかりと考えて、考えて、考え抜いて出すべき答えだ。

 それを姉さんの誘惑に負けて答えを焦るなんて言語道断。


――そう。俺は姉さんに負ける訳にはいかない。


「アヤト」

「……何?」

「デザートはお風呂上がってからで大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ」

「じゃあ、お風呂上がってから、一緒に食べようね」

「え……あ、うん。分かった」


 ニコリと優しく笑う姉さんの提案を俺はすぐに受け入れる。

 いや、今、何サラリと俺は受け入れてるんだ?

 俺は自身にツッコミを入れる。


 また、そんな事をしたら、さっきのカレーみたいにあ~ん、されるだけじゃないか。


 そうは考えてみたものの、一つの結論が頭に浮かぶ。


 でも、姉さんが楽しそうだし良いか。

 一緒にデザート、食べたいし。


 ずずっと俺がお茶を啜ると、洗い物を終えた姉さんは髪を解きながらこちらに歩いてくる。


「アヤト、こっちに来て」

「え? わ、分かった」


 そう言うと、姉さんはリビングにある大きめの長いソファーに座る。

 それから優しく膝を叩く。


「ほら、ここに寝てちょうだい」

「え?」

「食べ終わったら膝枕してあげたいの。ほら、寝て?」

「え……うん」


 だから、俺の意志は何処にいったんだ?

 昔からそうだ。姉さんに頼み事をされるといつも断れずに流されてしまう。

 俺はソファーの上に寝転がり、頭を姉さんの太股に預ける。


 こ、これは……良い。


 ふわりと肉付きの良い太股の柔らかさと姉さんがいつも振り撒いてる優しい香り。そして、顔を上げれば、姉さんの優しい顔が独り占めできる。

 こ、これは……良い。


 姉さんは俺を膝枕すると、右手で慈しみを込めるかのように優しく俺の頭を撫でる。


「アヤト、いつも厳しくしてごめんね」

「いや、姉さんは姉さんで考えてやってたんでしょ? それなら別に良いかなって。でも、何か意外だなとは思うよ?」

「意外?」

「姉さんがこんな甘やかしたがり? だとは思わなかったからさ」


 俺が素直に思った事を口にすると、姉さんはくすりと笑う。


「そう? でも、昔からずっと我慢してたのよ? 貴方、私が厳しくするといっつもちょっと悲しそうな顔をするもの」

「え!? か、顔に出てたかな?」

「ええ、出てたわよ? それはもう」


 姉さんは過去を思い返しているのか、懐かしむように言う。


「貴方は昔からサボリ癖が酷かったからね。言わないとやらなかったし」

「ぐっ……」

「それは今でも変わらないわね。でも、そういうのって後で困るでしょう? もし、それでアヤトが将来困る事になったら、姉さんが耐えられない。

 ああ、もっと姉さんがアヤトを見てあげてたらなって思っちゃうから」

「そんな責任持たなくても良かったのに……」

「それが姉ってものよ。姉はいつだって弟が心配なの。だから、弟がいつか大人になっても恥ずかしくないようにって思ってたけど……ふふ、もうその必要はなくなったからね」


 姉さんは俺の頬に手を添え、真っ直ぐ見据える。


「これからはずっと姉さんが側に居るからね」

「えっと……も、もし、か、仮定の話をしても良い?」


 何だか背筋に薄ら寒いものを覚えたので、一応聞いてみる。


「お、俺にさ、か、彼女とか出来たらどうする?」

「アヤトに彼女? そうねぇ……まずは相手がどんな子か聞かせて欲しいわ」


 あ、普通だ。確かに姉ともなれば、弟がどんな人とお付き合いをするのか、というのは気になるものだ。

 うんうん、普通、普通。


「それと……職業も大事ね。後、男性遍歴。今までどんな男性とお付き合いをしてきたのか。後、アヤトの事をどれだけ知っているのか。過去から現在、そして、未来の予想図まで聞いておきたいわ。そうじゃなくちゃ、姉さんは心配になっちゃうもの」

「あー……そ、そっか」

「ええ。勿論、それだけじゃないわ。アヤトにとってどんな良い影響、悪い影響を与えるのかだって見定めなくちゃ。そのアヤトの大事な彼女さんが変な人と仲が良い可能性だってあるでしょう? その身辺調査も必要ね。それと……お金も大事だわ」

「あ、も、もう良い。もう良いよ、姉さん、うん……」


 あー、普通じゃないですね、クォレハ。

 多分、俺は姉さん以外と結婚する事なんて出来ないんじゃないだろうか。出来たとしても、この姉さんという高すぎるハードルを越えなければならないのが難しい気がする。

 しかし、姉さんは俺の頭を優しく撫でながら言う。


「でも、一番はアヤトを大事に思ってくれてるか、かしらね」

「やっぱり、そこなの?」

「ええ。人生の伴侶だもの。誰よりもアヤトを大切に思える子じゃなくちゃダメよ。アヤトも、もし、姉さんじゃない人を選ぶんなら、そういう子を選ばなくちゃダメよ。

 あ、ミカちゃんとか良いんじゃない?」


 ミカ。その名を聞いて思い出す。

 俺には幼馴染が居る。名を清水ミカ。

 近頃はミカ自身が忙しくなってしまって、あまり会う事が出来ていないけれど。

 ミカも悪い子ではないが、俺に好意を持っているとはあまり思えない。


「ミカはそういうのじゃないっていうか、腐れ縁? 的な感じだからな」

「そう? お似合いだと思うけれど……」

「そうかなぁ……だって、ミカはもう俺からすると、雲の上みたいな奴だし」

「そうかしら? 案外変わらないものよ?」


 姉さんはそう言うけれど。ミカはもう天上人のような存在だ。

 俺はテレビの上に貼られているポスターを見る。

 そこには『Mika』とサインが書かれている。


「今じゃ日本で知らない者は居ないって言われるくらいのトップアイドル。いくら幼馴染だからってね……何というか遠い存在だなって思っちゃうんだよね」

「……そういうものかしら? それはちょっとあの子が可哀想ね」

「可哀想?」


 どうして可哀想なんだろうか。俺が尋ねると、姉さんは俺の頬に手を添え、ぎゅっと押す。


「むぐっ!?」

「貴方は知らなくても良いの」

「むー……むー……」


 ふよふよと俺の頬を押し込み、何処か楽しんでいる雰囲気を出す姉さん。

 姉さんは俺の頬から手を離し、優しく頭を撫でる。


「でも、アヤトを一番分かってるのは姉さんなんだからね」

「そ、それはそうだと思うけど……」

「ふふ、そうよね」


 何処か自慢げにそれでいて嬉しそうに語る姉さん。

 何というか、新しい姉さんだ。いつもは仏頂面なのに、今は凄く優しく笑ってくれる。

 

「……俺、今の姉さんが好きかも」

「え? 今、私の事、好きって言った?」

「え!?」


 どうやら俺の呟きが聞こえていたらしく、姉さんは目を大きく開き、俺の頬を掴む。

 俺は慌てて、弁明する。


「ち、違う!! いや、好きなのかもしれないけど、そういうんじゃなくて!! 前の厳しい姉さんよりも今の優しい姉さんの方が好きって意味だから!!」

「何だ。そうなの? じゃあ、これからもいっぱい甘やかすからね」

「あ……う、うん」


 納得してくれたのか姉さんは優しく俺の頭を撫でてくれる。

 よ、良かった。変な事を口走って姉さんが暴走するような事になれば本当に大変だった。

 

 と、そこで。部屋中に湯船のお湯が溜まった音が鳴り響く。


 どうやら、姉さんが入れておいてくれていたらしい。


「あ、お風呂入れるんだ」

「ええ、そうよ。さっき入れておいたの」


 なるほど、流石は姉さんだ。

 しかし、俺は考える。そう、今しがた、姉さんは俺を甘やかす言った。

 そして、姉さんは俺を好きと言っている。ここから導き出される答えはただ一つだ。


 姉さんは間違いなく俺と一緒にお風呂に入ろうとしてくる。


 何度も言うが、姉さんは美人だ。それだけじゃない。スタイルも悪くない。

 出る所は出ているし、スレンダーで女性的な曲線美も持ち合わせている。

 つまり、一緒に入るのは思春期男子としてはあまり好ましくない。


 俺は寝転がったまま言う。


「姉さん、先に入ってきなよ」

「何言ってるの? 私は貴方と一緒に入るのよ?」

「え? あ、いや、それはちょっと……」

「小さい頃、一緒に入ったじゃない」


 いや、それはあくまでも小さい頃の話じゃないか。

 小さい頃は互いに男女の性差というモノに関しては無頓着で気にせずに入る事が出来る。

 でも、大人になれば男と女という差が顕著になっていって、俺が姉さんに良くない感情を抱いてしまう可能性だってある。


 それに、何よりも一番怖いのは。お風呂の中で姉さんが何をしてくるのか全く想像付かない。


 これが一番怖い。俺は首を横に振る。


「そ、そうかもしれないけどさ。ほら、姉さんだって今日は色々あって疲れてるだろ?」

「そんな事無いわ。むしろ、今、アヤトエネルギーを貰ってるもの」


 アヤトエネルギーって何だ?


 俺は一瞬首を傾げそうになったが、深く考えないようにする。

 考えたら負けな気がしたから。

 

「いや、でもさ……ほら、姉さん。俺は男で姉さんは女なわけじゃん? 何か間違いとかあったらいけないし……」

「間違い? 間違いはあってもいいじゃない、別に」

「あ……そ、そうなの?」

「だって、姉さんはアヤトが好きなのよ?」


 あ、そうか。

 姉さんは俺が好きだから、間違いが起きても良いんだ……。


 いや、そうはならんやろ。


 と、心の中で思うが、ここからは崩せない。ならば。


「で、でも、姉さん!! 考えてみてよ!! 俺はすぐにパパっと入れちゃうけど、姉さんは色々やらなくちゃいけない事があるでしょ? ほら、一緒に入るのは効率悪いんだって」

「でも、二人で入れば一度で済むわよ? ガス代や電気代だって多少、安くなるわ」

「……あ、あー、そ、そう、だね……」

「でしょう? それとも……アヤトは姉さんと一緒に入りたくない?」


 物凄く残念そうに、それでいてどんよりと肩を落とす姉さん。

 その顔はとても泣きそうで悲壮感に溢れている。


 本当にずるい。


 姉さんのその顔を見ると、俺は姉さんが望む事を何でもしてあげたいって思ってしまう。


「……わ、分かった。じゃ、じゃあ、姉さん。一緒にお風呂に入ろう」

「ふふ、うん。ありがとう、アヤト」


 そう俺が言うと、ニッコリと嬉しそうに笑う姉さん。

 さっきまでの悲壮感が嘘のようだ。でも、うん。これで良いんだと思う。


 良いったら良いんだ。そう、良いに決まってる……。



 い、良いのかなぁ~……。

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