メロディー

たきたたき

メロディー 

 私と彼女の関係を説明するには少し時間がかかる。


 最初の出会いは、どこかの飲み会の帰りに直接の知人という訳でも無い数名の男女が、同じ方向だというだけで乗り合いになったタクシーであった。一人二人と降りていき、そうして残ったのが私と彼女だったのだ。

「すみません。そこの角を右でお願いします。はい。ここ真っ直ぐ行くと、右、いや左にコンビニがあるので。はい、その辺で大丈夫です。」

 途切れ途切れの言葉が弱々しい。横顔を見ると顔が白く運転手に指示している手も異様に白い。

「顔色が良くないみたいですけど大丈夫ですか。」

「ちょっと車酔いしちゃって。でも大丈夫ですから。」

「この辺でいいですかね?」

 無愛想な運転手がコンビニの前で車を停めた。

「はい、すみません。ありがとうございます。じゃあ。」

 握りしめた千円札を私に押し付けるように手渡し、転がるようにしてタクシーから降りたのは良いが、ヨタヨタと数歩歩くとコンビニの前で座り込んでしまった。それを見て判断し兼ねるのだろう、タクシーの運転手も車を出そうとしない。私が車の中から心配していると運転手が一咳しバックミラー越しに目線を寄越した。

「すいません。僕も降ります。」

 既に降車した人たちから集めたお金と自分の財布からのお金を合わせて運転手に手渡し、お釣りを受け取るとタクシーを見送った。

「えええ、降りちゃったんですか?私、ほんとに大丈夫ですから。」

 力無い言葉でそう言われても、もうタクシーは行ってしまった。

「そんなことより大丈夫ですか?気分が良くないみたいですけど。」

「もうちょっとだけじっとしてれば動けるようになりますから。ほんとに。」

「ちょっとここにいて下さい。僕、飲み物買ってきますから。」

 誰も客のいないコンビニで冷たい水を買って彼女の元に戻る。

「ありがとうございます。お金…」

「そんなの大丈夫ですから。はいお水です。」

 彼女が落ち着くのを待つ。顔は白いが首は赤い。察するに良い感じでお酒を飲んだ上での車酔いという、よく分からない二つのが身体中をかけ回っているのだろう。ご愁傷様である。とは言え、大丈夫だと言い張る知らない女性を必要以上に手厚く介抱する訳にはいかず、私はただ隣に座って落ち着くのを待った。

 時間は新聞配達のバイクがようやく走り始めた頃合いだ。ガチャンと大きな音でギア入れ走り出すあの独特のモーター音がシンとした街の静寂に響く。

「もう大丈夫です。ありがとうございます。」

「帰れそうですか?」

「はい。大丈夫です。」

「そうですか、じゃあ僕はこれで。」

「あの。」

「はい?」

「お家ってこの辺なんですか?」

「はい?」

「その、これからどうされるんですか?って。」

「あー。」

 確かにまずここがどこかを知りたいというのはある。タクシーに乗った渋谷と私の家との中間点であることは間違いないとは思うのだが、ここから歩いて帰れる距離なのだろうか。幸い明日というか今日、日中は寝ていられるはずなので、最悪一、二時間程度ならこのまま歩いて帰るのも悪くないかなと考えていた。

「あの、ここってどこでしょうか?えーっと、どの辺ですか?という聞き方の方がいいのかな?のんびり歩いて帰ろっかなって思ってるんですけど。」

 彼女の説明を聞く限りではやはり全く知らない土地では無かった。このコンビニから歩いて五分もすれば大きい街道に出るはずで、バイクでは何度も通ったことがある道だ。そしてここが私が思っている場所であるのなら、家からバイクで十分から十五分という距離だろうか。しかし歩いて帰るとなると、どのくらい掛かるのかの検討がつかない。まぁ朝っぱらからではあるが、春の朝の清々しさを感じながらの散歩も悪くないと思う。街道沿いにはコンビニが数軒あるのも知っているし、最悪またタクシーを捕まえれば問題無いだろう。

「なんとかなりそうです。じゃあ僕はこれで。気をつけて帰って下さいね。」

「それ私のセリフですよ。」

「いやいや。フラフラなのはあなたですよ。」

「ふふふ。そうですね。…あのお酒お強いんですか?」

「お酒はそんなにっていうか、今日はあんまり飲まなかったので。僕はもっぱらご飯を食べてました。」

「そうですか。」

「はい。じゃあこれで。」

「あ、あの。」

「はい?」

「連絡先、教えてもらえませんか?今度お礼をしたいので。」

「いやいいですよ。大丈夫です。そんなのほんとに大丈夫ですから。」

 咄嗟のことで連絡先を教えることに躊躇をした。この人が誰かの彼女で的な二次災害を被るのを避けたいというよりも、そういうことに繋がりそうな変なしがらみが増えるのがはっきり言って面倒臭いのだ。

「もし逆の立場だったら、お礼したいって思いませんか?知らない場所にタクシーから降ろしてこんな時間から歩いて帰らせるんですよ。」

 確かに。そう言われると彼女の意見も真っ当である。逆の立場なら私でもそうするかもしれない。

「じゃあメール…って今はそんな細かい文字読めないですよね。うーん、じゃあケータイ貸してもらえますか?そのお借りしたケータイで僕自身のに電話しますので。って、電話でもいいですか?」

「はい。」

 彼女がカバンの中から手渡したのは、ピンク色の折りたたみ携帯だった。なにかのマスコットのようなストラップがついている。

「じゃあ失礼します。」

 彼女のケータイから自分自身の携帯番号を打ち込んで鳴らし、自分のケータイに出てすぐに切る。これでお互いに履歴は残ったはずだ。

「これで大丈夫ですか?」

「はい、ありがとうございます。」

「じゃあ僕はこれで。おやすみなさい。」

「はい、おやすみなさい。」

 コンビニ前で別れ、彼女の言う通りの道を進むと見覚えのある大通りに出た。時計を見ると二時四十二分。のんびり見積もって四時には家に着けるだろうかと何の根拠もない計算をする。そして私は忘れないうちにと先ほどの電話番号を登録しながら大通りを歩いた。その時になって彼女の名前を聞いていないことに気がついたのだった。


 次に彼女の声を聞いたのは留守電のメッセージだった。あの日から数週間経っており、その着信を見てもすぐには分からなかった。

「えーっと、あのぉ、この間の朝にコンビニで別れた女です。覚えてらっしゃいますでしょうか?連絡遅くなってごめんなさい。あのぉ…良ければ連絡ください。」

 相変わらず名乗りはしないがその説明で誰かは分かった。もはや顔は朧げとしか思い浮かばないが間違いなくあの時の女性である。そして発信履歴の名前を「ななし」と入れておいたのを私はすっかり忘れていた。

 その日、私が折り返しの電話を掛けたのは二十二時を回ってからだった。時間的には遅いのかどうなのか微妙なところではある。

「もしもし。あの…」

「あっあの、私のこと分かりますか?」

 こちらから掛けた電話である。分かるのは当然だ。

「はい。あの時の朝に、えーっとあなたの家の近くのコンビニで。」

「その節は本当にすみませんでした。」

「いえいえ、僕は全然。それよりあれから大丈夫でしたか?それだけが心配で。」

「はい。家に帰ってすぐ寝ました。次の日って言うかその日はお休みだったので夕方まで寝てもう全然でした。本当にご心配をおかけしました。」

「そうでしたか。それは良かったです。」

「そのそれで、あの日って結局歩いて帰られたのですか?確かそんなことを仰ってた気がするんですけど。」

「ああ、それは全然気になさらず。いい気分転換になりましたので。」

「そうですか。…それでその、お礼と言いますか。その…良かったらうちに来ませんか?どこかにお食事でもって思ったんですけど、家の場所も大体知られてるしって思ったらうちで手料理の方がいいかなって。ほんとに、もし良かったらなんですけど。」

 その申し出には驚いた。良く知らない仲の異性にいきなり家に来いと言う女性に出会ったのは始めてである。どう答えていいのか一瞬考えたが、わざわざ女性に奢って貰う為だけに渋谷だ新宿だに出かけて待ち合わせをしてとするよりは、彼女の家で手料理を振る舞ってもらった方が確かにこちらも気が楽かもしれない。とも思う。しかしそれはそうかもしれないけれど…

「それはありがたい申し出なんですけど、その…よく知らない男を家に招き入れるのって怖く無いんですか?」

「あーそう言われたら、ですね…でも、手を出そうと思ってるならこの間の時にそうしてませんか?」

「いや、弱ってる人に付け込むほど、僕、腐ってはいませんよ。」

「ふふふ。だから大丈夫なんですよ。」

 どう言うことかよく分からないが、彼女的に私のことは安全だと思われているのだろう。

「ほんとに遠慮なさらず食べに来て下さい。私、張り切って料理しますから。手料理って最近食べました?」

「いえ、久しくは…」

「じゃあ是非。うーんとそうだなぁ…、何が食べたいとかありますか?私料理は得意なんですよ。言っていただければ大抵のものは作れると思います。」

「えーっと何を食べたいかですか。うーん、じゃあハンバーグかなぁ?」

「ふふふ。OK。ハンバーグですね。じゃあ頑張って作りますから、楽しみにしてて下さいね。」

「あ、はい。」

「それじゃあ、いつが都合いいですか?」

 流れで彼女の家に行くことになってしまった。幸いこの間のコンビニまでの道順なら覚えている。問題はこうしてノコノコとお呼ばれして本当に良いものなのかということだ。

 

 当日、仕事終わりでこの前のコンビニまで来た。そこから電話をしてほしいということなので、バイクを停めてヘルメットとグローヴを外し電話を掛けると、弾けるような声で電話に出た彼女は話も途中に電話切った。すぐに迎えに来るらしい。

 その待ち時間を使ってコンビニで買い物をする。いくらこの間のお礼だとは言え、他所様よそさまの家に手ぶらという訳にはいかないだろう。一緒に食べれるようなお菓子や飲み物を買いコンビニを出ると彼女が立っていた。

「お待たせしました。何かお買い物ですか?」

 この間の髪の毛を後ろに束ねたスーツ姿とは違い、部屋眼鏡に普段着の随分と柔らかく思えるその印象は記憶の中の彼女とは大きく違ったけれど、確かにあの彼女だった。

「こんばんは。お呼ばれするのに手ぶらという訳にはいかないので。はい。」

「ふふふ。じゃあ行きましょうか。すぐそこですから。バイクも停められるんで。」

「はい。」

 スタンドを上げ、ギアをニュートラルに入れたまま250ccのバイクを押して一緒に歩く。ぎこちなくも世間話をしながらバイクを押して行くと、コンビニから徒歩二分という所に彼女のアパートはあった。しかしこの段になってふと考えが及ばなかったと自覚する。実家暮らしかもしれないとは微塵も考えなかったのは何故なのか。そしてそれが杞憂に終わったことでほっとしてしまった。

「一人暮らしなんですね。」

「そうですよ。実家だと思ってました?」

「いえ、その…。そーいや何にも考えてなかったなって。」

「ふふふ。変なの。」

「あの、家に上がらせてもらう前に一個だけ確認しときたくて。」

「何?」

「その、彼氏さんとかその…いないんですか?もしいらっしゃるんだったら、やっぱりやましい気持ちがなくっても良くは無いかなって。」

「ふふふ。いないですよ。そっちは?」

「僕もいないですけど。」

「じゃあ、大丈夫ですよね。」

「まぁ。…はい。」


 敷地内の駐輪所にバイクを停め、ヘルメットとコンビニ袋を下げて彼女の後についていく。彼女の部屋は二階の角部屋の1DKだった。

「着いてすぐですけど、まずはご飯にしましょう。私、お腹空いちゃった。」

「お邪魔します。」

 手を洗わせてもらってから部屋に入る。部屋には普通のベランダに出る大きさの窓の他に、角部屋特有の腰高の窓があり、その下にベッドが置かれていた。そしてそのベッドを背もたれにするように机と座布団クッションが置かれていて、おそらく彼女の指定席であるその座布団クッションからの視線の先にはビデオデッキに繋がれた小さなテレビがあった。そのテレビが置かれた台の隣の背の低いスティールラックの上には、本や雑誌などの他にCDラジカセと数枚のCDが置かれていた。

「すぐ用意出来るんで、荷物置いてその辺に座っててくださいね。」

 そう言うと彼女はCDラジカセの電源を入れ音楽を流した。どこかで聞いたことがある曲だなと思いつつ、私は言われるがまま荷を解く。

 天井照明ではなくポール型の薄暗い間接照明を付けた部屋は、大きな窓と腰高窓の両方が開けっぱなしになっていて、どちらの網戸の先にはすだれがかかっていた。これらの2つの窓は外からの風がよく通るらしく、もうすぐ梅雨になるかというこの湿気の多い時期にしては随分過ごしやすく感じる。

「うちエアコン無いから、もし暑かったら扇風機出しますよ。逆に寒かったら閉めてもらっても良いですし。」

「お構いなく。大丈夫です。」

 エアコンの無い家も珍しいなと思いながらとりあえず座ることにし、明らかにそこが彼女の定位置という例の場所があるので邪魔にならないように席を選んだ。

「電気も暗かったら天井の照明、点けちゃっていいですから。」

「いえ、大丈夫です。」

「うちエアコン無いから窓開けること多くて。でもあんまり明るくしちゃうと外から丸見えになっちゃうんですよね。これでも色々と対策はしてるんです。」

「そうなんですか。」

 確かに。かと言って遮光のためのカーテンを敷いたまま窓を開けてもあまり意味はないように思うし、確かにだ。

「はい。お待たせー!」

 そうしてお盆に乗せられてきたのは、ハンバーグにキャベツとスパゲティが乗ったプレート皿に、ポテトサラダとオニオンスープ、そして白ごはんだった。

「これで大丈夫ですか?食べられないものとかないです?」

「大丈夫です。すっごい美味しそう。」

「そう良かったぁ。じゃあ食べよっか。」

「はい。」

「いただきまーす。」

「いただきます。」

 コップにお茶を注いでもらいご飯をいただく。料理が得意というのは本当だったようでどの料理もすごく美味しい。彼女は私の食べっぷりを満足そうに見つめている。

「あのぉ、そっちは一人暮らしですか?」

「うん、一人。十八からだからもう四年かな。」

「へえそっか。じゃあ年下なんだ。」

「そうなの?」

「うん、私の方がちょっとだけ年上。ちょっとだけね。ふふふ。」

「そっか。」

「歳の割にしっかりしてるよね?よく言われない?」

「そうかな?別にだけど。」

「そっかぁ。それで実家はどことかって聞いてもいい?標準語みたいだけど。」

「実家は千葉だけど、最近はあんまり帰ってないかな。」

「そーなんだ。でも近いんだね。私北海道なの。専門でこっちに来てそのまま。」

「そうなんだ。」

「冬は北海道と比べたら寒くないだろうって、エアコンの無いこの部屋にしたんだけどね。冬はいいんだけど、夏が暑かったわぁ。」

「ここ最近、毎年のように猛暑って言ってるよね。今年なんて三十五度になるってこないだニュースで見たよ。」

「ねー。やだやだ。」

「それでも引っ越さないの?」

「ん?」

「エアコンのある部屋に引っ越さないのかな?って。」

「うーん。まぁいっかな。ここ結構気に入ってるし、引っ越しもお金かかるし。」

「そっか。そうだよね。」

「うん。それにこうやって窓開けて、夏は扇風機回しとくと結構涼しいからね。まだなんとかなってる。」

「そうなんだ。」

 何気ない会話が繰り広げられる。年齢や出身地は流れで話したけれど、それ以上の具体的な仕事の内容や名前などは相変わらず聞かれないのでこちらからは尋ねることはしない。逆にそのお互いの領域に踏み込まない会話の距離感を心地よいと私は感じた。

 ご飯を食べ終わると「映画好き?」という質問から、この間借りてきたというレンタルビデオで映画を見始めた。新作で借りたのでさっさと見てしまわないといけないという話だ。

「どういう映画好きなの?」

「僕は…そうだなぁ。あんまりドーン、バーン!ってのよりは普通の会話劇みたいなの方が好きかも。あっでもサスペンスとかも好きかな。」

「そっかぁ。じゃあこういうのは好き?」

「うん、多分嫌いじゃ無いと思う。」

 コンビニで買ったお菓子を開けてジュースを飲みながら二人で映画をじっくり見た。

「じゃあそろそろ帰るね。」

 映画を見終わり部屋にかかっている時計を見ると、もうすぐ二十三時になろうとしていた。一人暮らしの女性の家に居ていい時間では無い。

「そっか。今日はありがとね。楽しかった。」

「こちらこそ。ごちそうさまでした。」

「じゃあ。」

「うん、じゃあ。」

 彼女は玄関で私を見送ると部屋の扉を閉め鍵をした。私はその音を聞きながら階段を降りて駐輪場に向かい、バイクに跨りエンジンをかける。彼女のアパートの敷地を出て彼女の部屋を見上げると、彼女が腰高窓の窓枠に腰掛けてこっちに手を振っていた。私もグローヴをした手で振り返すと、部屋の明かりで逆光の中、彼女が笑顔を返したように思えた。


 それから度々、ふとしたタイミングで電話が掛かってくる。ある時は「ご飯食べにこない?」で、ある時は「おすすめの映画なんかある?」だ。その度に私は彼女の部屋で夕ご飯をご馳走になり、映画を一本見て帰る。そんなことが多くて月に二回ほど、約一年半続いた。


「あのね、私実家に帰ることにしたの。」

 今日の映画は、旅行中のアメリカ人の青年と電車で偶然出会ったフランス人の女性が、ヨーロッパのどこかの街を夜通しデートをするという内容の映画である。そして映画内での二人の別れのシーンに合わせるように、彼女が話を切り出してきたのだった。

「そうなんだ。北海道だっけ。」

「そう。」

 何故とか何があったのかとは聞かない。そういう質問は無しなのはお互いが分かっている。

「いつ頃?」

「内緒。でも今日で最後って思う。」

「そっか。」

「ねえ、寂しい?」

「そりゃね。もう知り合って一年半くらいだし。」

「そっか。もうそんなになるんだ。」

 ああいう形で知り合って以来、私も彼女も他の誰かに二人の関係を話すということはない。こうやって定期的に彼女ではない女性の家に入り浸る男が一年半もの間、全く手を出していないというのは、他人に話した所できっと御伽話のようなものだろう。私と彼女の関係を説明するには少し時間がかかるのだ。

「ねえ。」

 映画はエンドクレジットが流れている。

「ううん。いいや。」

 何か言い掛けたその言葉を、私が相槌を打つ前に彼女は飲み込んだ。

「そっか。」

「じゃあ、そろそろだね。」

「うん。」

 時計を見ると二十三時過ぎである。

「今日は下まで送るよ。」

「どうしたの?」

「いいじゃん。最後くらい。」

「そっか。」

 薄手のウインドブレイカーを着て、荷物とヘルメットを持って帰り支度をする。季節は秋口にかかり、外はもうずいぶんと涼しくなっている。彼女も一枚パーカーを羽織り私の後に続いて階段を降り駐輪場に向かった。

「ねえ。ちょっとこのままにしてて。」

 不意に駐輪場で彼女に後ろから抱きつかれた。しばらくの間、彼女の体温を背中で感じる。

「…じゃあね、さよなら。」

 そう言うと彼女の重みが消えた。

「うん。…さよなら。」

 彼女は私の言葉にも振り返らずに真っ直ぐアパートに戻って行った。

 私はヘルメットを被りグローヴをしてからバイクのエンジンをかけようとするが、気持ちの置きようが無くすぐに出発しようと出来ないでいる。

 どうしようか迷う。彼女の後を追って部屋に戻るべきなのだろうか。しかし彼女はさよならを告げて帰って行った。これが彼女なりのケジメなのであればそれを尊重すべきだろう。

 バイクを走らせるまでにしばらく時間が掛かった。敷地を出て彼女の部屋を一瞥すると、逆光の中、いつものように窓枠に腰掛けた彼女が手を振っていた。

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