夜の痛み
西野ゆう
第1話
「千鶴さん」
普段は私のことを呼び捨てで呼ぶ彼が、さん付けで呼ぶときは何かある。良くない何かが。
「五千円貸してよ」
微妙な金額だ。デートしているショッピングセンターのATMが手数料なく使える時間帯。付き合い始めて半年の私に借りる金額だろうか?
「どうして?」
明らかに彼は顔をしかめた。ほんの一瞬だったけど。そして、私も気付いた。私は彼を信用していない。愛とか恋とか、そういう感情を語る以前の問題だ。
「はい、どうぞ」
私は財布から五千円を抜き出して渡した。私の質問や表情から、貸してもらえるとは思わなかったであろう彼は、怪訝な表情を見せた。またしても一瞬だけ。その一瞬の表情の後は、自分のかわいらしさの武器だと知り尽くしている風な笑顔を見せて「ありがちゅう」なんてふざけた礼と共に、手の甲にキスしてきた。
それから私はひと言残して彼のもとを去った。
「ちょっとATMに行ってくるね」
彼との連絡はLINEだけ。
彼からの視線を背中に感じている間に、彼のIDを削除した。そして振り返ってみる。
「……なーんだ」
多分彼は、私が背中を向けた瞬間、お目当ての場所へと向かったのだろう。そこにはもう彼の姿はなかった。私の背中に感じていた視線は、私に残された微かな未練だったのかもしれない。手の甲が少しむず痒い。
そうして彼を置き去りにして家に帰った夜。私は色々な感情の掃除に追われて眠れなかった。
恐怖。
彼は私の家を知っている。実家暮らしだから、さすがに乗り込んでは来ないだろうと思ってみても、見慣れた彼の笑顔の下に、どんな憤怒の皮を収めているのか見たことがない。見たことがないだけに、怖かった。
寂しい。
しばらくは私に優しい言葉を掛ける異性など現れないだろうな。仕事で疲れた日、イヤホンから聞こえていた「お疲れ様」という、甘く爽やかなミカンのような声も聴けない。彼の声は、一種の魔法だった。
怒り。
なぜ私から五千円を借りなければいけなかったのか。なぜ私はその「ズレ」を修正しようとしなかったのか。
彼に対しても、自分自身に対しても同等に怒りが湧いてくる。情けなくもある。まるで子供だ。
「痛いなぁ」
口をついて出たそれが何だったのか。五千円という出費でないことは間違いないのだが、敢えてそのことだと考えてみると、妙におかしかった。
「五千円あったら美味しいお寿司、食べれたのになぁ」
白いクッションのようなご飯粒の集まりの上で、様々な色に輝く者たち。布団に潜り込んで、その名を心の中で並べると、私の五千円の失恋は、すぐに予算オーバーとなって、夢の中に消えていった。
夜の痛み 西野ゆう @ukizm
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