第3話

 都内の片隅にある、都心へ電車で三十分程の小さな街。

 そこそこの築年数ながら小奇麗に手入れされたワンルームマンションの一室で、大学生となったあやめは、お気に入りのペンを手に唸っていた。


 薄紫の便箋を広げて、机の隅には菖蒲の絵が描かれた和封筒が置かれている。

 考え考え綴るのは、期待に胸膨らませて始まったばかりの大学生活や、一人暮らしの思いがけぬ大変さ。

 実家に居た頃にちゃんと家事をやっておけば良かったと思う事、料理や買い物の失敗談を交えながらも、あくまで内容は明るく楽しい事を詰め込んでいく。


 一枚目を書き終えて、便箋の二枚目へ手を伸ばし、止まる。

 もう一度机上の一枚目を読み返して、ペンを置き、便せんを折り鶴に変身させた。

「はーっ、だめだぁ」

 なかなか上手に綴れないのに、なかなか上手に折れた鶴を炬燵机に置いて、お茶を一口。

 自分で水出したお茶。初めての一人暮らし、何かと節約生活だ。ペットボトルのお茶だなんて高くて買ってられない。大学の合間にバイトはしているけれど、無駄遣いは許されぬ。許されぬのだ。

 お茶の香りが気持ちを少し上向けてくれた。沈思黙考、ただ一人暮らしで話す機会が無いだけとも言う。


 狭いワンルームで、炬燵机の上に突っ伏した。

 そろそろ炬燵布団は片付けないとなぁ、炬燵を点けては無いけれどもうすぐ初夏だし、でもなんか炬燵って出しておきたいのよね、狭いし一人用炬燵とは言えワンルームでは場所を取り過ぎるし。

 全然、沈思黙考では無かった。

 深く考えて等いない、思いつくままにぼへーっと思考を漂わせている。はぁ、とため息をついて、あやめは再び新しい便箋を取り出した。


『あやめちゃん、お祖父ちゃんね、認知症が進んできたみたいなの』

 大学の一人暮らしを決めた後で、母が少し疲れたように笑って、そう話し始めた。

『受験の間は知らせない方が良いと思って。それでね、あやめちゃんが大学で一人暮らしをするでしょう? そうしたら、このあやめちゃんのお部屋をお祖父ちゃんに使ってもらってもいい?』

 良いも悪いも無い。頷き、荷物を纏めた。あやめが家を出ると、実家でお祖父ちゃんを引き取り、父母と祖父で同居する事になった。


 父方の祖父母は元気な間に介護付きのマンションへ引っ越していて、今ものんびり趣味をして暮らしているらしい。

 でも、母方の祖父、お祖父ちゃんは今までずっと一人自宅で暮らしていた。どれだけ一人暮らしをやめてと説得しても、首を縦には振らなかったらしい。

 だけど数年前にスーパーで買い物中に転倒し入院してからは、少しずつ認知症の症状が出てきていたんだとか。

 実際は、もっと前からだったのかもしれない。スーパーで何もないように見える所で転倒。退院してから、一気に筋力なんかも落ちてきて、なんとか母が訪問介護を頼んだり様子を見に行ったりしていたんだと、何もかも終わって決まってから聞かされた。


 当然か、自分に出来る事は無い。大学で家を出ていくのに、介護の手伝いは出来ないのに、事後承諾で何の問題があるというのか。

 ただ全然気が付かなかった。気付けなかった。家族なのに。

 どれだけ私は自分の事しか見えていなかったんだろうと、我ながら呆れてしまった。


 だってお祖父ちゃんの退院後、やたらと母が田舎へ様子見に行ったり、仕事を辞めたりしていた事は知っていたのに。

 私はといえば、中学高校で青春真っ盛りの遊び盛り、そして受験。

 まるで公園ではしゃぎまわる子犬みたいに、目の前の楽しい事に夢中になっていた。

 ほんの少し、母へ目を向けていたら気付いた筈だ。母の負担に。仕事を急にやめて、なのになんだか前より忙しくしていたんだから。


 でも気付かなかった。自分の今が楽しくて、まわりなんか全然見えてなかった。目の前に広がる世界で、自分の見たいもので視界一杯を埋め尽くしていたから。

 そこまで思い返して、コップを傾ける。清涼感が鼻から抜けていく。


 どうしてだろう。どうして、間に合わなくなってから気が付くんだろう。

 もう手紙なんか書いたって、お祖父ちゃんには分からないだろう。知らない人からの知らない手紙だと思うだろう。

 こんな手紙なんか書いたって、お母さんの苦労も心労も減る訳じゃないだろう。なのに、どうして私は。


 飲み干したコップを机に置く。新しく手にした便箋を前に、お気に入りのペンは転がってるまま。

 でも、それでも、今の私に出来る事は?

 大学は離れているし、実家で介護の手伝いは出来ない。勿論、長期休みに帰ったりしたら出来る事はやるつもりだ。

 だけど、今、少しでも何か、何か、私にも出来ないんだろうか?

 寝たきりに近くなって、娘である母の事も分からなくなって、ただ、もう何も分からないままに最後を待つだけなんだろうか。

 それが、なんだか凄く哀しくて、切なくて、私は再びペンを取った。



 あやめの実家で、日々の家事をこなしていた梓は、ゴミ出しに玄関を出た。

 夫は今日も仕事で、娘のあやめは大学近くで一人暮らし。日中は、あやめの母である梓と、梓の父だけが家で過ごしている。

 ゴミ出しの後にポストを覗くのは日課になっているけれど、手紙が来ている事なんて最近は滅多に無い。

 だから、思わず声がでた。

「あら、あやめちゃんからだわ。綺麗な和封筒ねぇ」

 エプロンのポケットに手紙をしまうと、家の中へ入る。

 こじんまりとした一戸建ての庭では、丹精込めた薔薇が咲いていた。色味は多少違えど赤、白、黒。

 あの池を見た事のある者には、優雅な鯉の姿をどこか彷彿とさせた。


 一階のリビングでは、介護中の父が長椅子でくつろいでいる。寝たきりに近いので、日中は出来るだけ日光に当たろうと日差しの良いリビングで過ごす事が多い。

 小さな庭へと続く窓では、レースのカーテンが穏やかな風で微かに揺れて、春から初夏へ変わる爽やかな緑の匂いが運ばれてきた。

「父さん、あやめちゃんから手紙が届いたの。お茶を淹れるから、一緒に読みましょうね」

 細く骨と皮のようになってしまった父の手元に、手紙をそっと置く。

 寝ていたのかゆるゆると微睡んでいたのか、正治は閉じた目を細く開けて、手元に置かれた手紙をただうっすら半眼で見つめていた。

 それを確認してから、梓はお茶を淹れに離れ、小さな盆に湯呑を二つ乗せて戻った。


 長椅子の近くに置かれたサイドテーブルの上へ湯呑を置くと、長椅子の傍らに膝を着く。

「綺麗な和封筒よね、ふふ、菖蒲の絵が描かれているのは、あやめちゃんからのサインみたいね」

 話しかけても、父からの返事は殆ど無い。あっても、梓の事は以前利用していたディサービスやショートスティの職員だと思っているような節がある。もう、娘である梓の事も、分かっていないのかもしれない。

「父さん宛だけれど、私が開けるわね。……あら? 一枚だけね」

 封書なので数枚入っているのかと思った梓は意外そうな声をあげた。

「あやめちゃんの事だから、きっと日常の色んな事をめいっぱい何枚も書き込んでくると思ったけれど、珍しいわね」

 そう小首をかしげつつ、丁寧に折られた便箋を開く。

 カサリ

 紙が微かな音を立てて開かれた。

 正治の目が、静かに、静かにしっかりと開かれていく。

「あやめちゃんってば、大学生にもなってナゾナゾかしら? うーん、ちょっと分からないわね」

 便箋を縦から横にしたり裏向けたりして、梓は考え込んでしまった。

 それもそのはず、手紙に書かれていたのは、見慣れたありふれた文章ではなかったからだ。

 縦書き。便箋の真ん中一行に怪文が書かれているのみ。

 上から下へ、縦一列の『い』が書き連ねてあり、その『い』を貫き通すように、長い『し』が書かれている。

 お行儀良く引かれた罫線なんかは無視して、でかでかとナゾナゾのように書かれた手紙。

 梓の眉が困ったように顰められる。

「入れる便箋を間違えたのかしら、ちょっとあやめちゃんにメールして聞いてみるわね」

 そう言って、梓は便箋を正治の手元に置いて、スマホを取り出した。

 フリックしてあやめへのメールを書く梓は気付かない。

 正治の手が、震えながらも便箋をゆっくりと持ち上げているのに、気付かない。


 そっと、カサカサの乾いた指先が、大事そうに、愛おしそうに、綴られた手紙をなぞった。

 『いとしと書いて藤の花』

 綾乃のはにかんだ笑顔が、正治の脳裏に蘇る。

 照れながらも、互いに交換だと言って渡し合った。交し合った。

 下手くそながら、自分も心を込めて綴った栞の恋文。

「あやめちゃんにメールしてみたわ、とうさ……父さん?」

 スマホから顔を上げた梓は、父の変化に気付いて目を丸くした。

 何度も何度も手紙をなぞっては涙を流す正治に、慌ててティッシュを取って、涙をそっと拭く。

「……綾乃さん、ありがとうなぁ、せっかくの結婚記念日じゃっちゅうのに、紅の一つも買うてやれんでなぁ。

 すまんなぁ。すまんなぁ。こげん栞一枚しか用意出来んで、すまんなぁ。ほうじゃけど、綾乃さんの栞は、大事にしまっちょくけん。親からもろた事典に挟んどこうかのぉ、ほうしたら、子どもが悪戯で触ったりもせんじゃろう。

 なにがあっても稼いで、稼いで、綾乃さんと子どもん事だけは、なにがあっても食わせていくけん。ひもじい思いはせんように、稼いでくるけん」

 梓の手を取って、ゆっくりゆっくりと小さな声で話す正治の言葉は、久し振りに聞く意思のある言葉だった。

「とうさ」

 そこまで言って、梓は言葉を飲んだ。


 どうやら、母の綾乃と勘違いしているようだし、手紙も栞と思っているようだが、それでもこんなにしっかりと話せるのは久方ぶりだ。下手に口を出さずに聞いておいた方が良いのではと思った。

 けれど、そのまま、黙ってまた手紙をなぞる動きを繰り返して、いつしかまた正治は寝てしまったようだ。

 目を閉じた正治の手元から、梓はそっと便箋を抜き取り、大事に封筒へしまう。

 穏やかに眠る父を見て、涙が出そうになった。


『これからは、看取り期です。どう過ごされるのか、ご家族でよく話し合われて下さい』

 お医者様に言われて、最後は自宅と決めた。

 独身のまま四十を過ぎて働く弟には、とても介護は任せられない。夫も頷いてくれた。

 寝たきりの介護は、その実作業は、本当に本当に大変だった。弱音を上げそうだった。

 覚悟はしたつもりだったけれど、それでも思いがけない事はいくつもあった。

 今の介護生活は、足腰が立たない分徘徊も出来ないおかげで、なんとか介護出来ている。

 これでもし、暴れたり歩き回ったりするようならば自宅での看取りは断念しただろう。

 介護の実作業の苦労とは別に、最後を看取るという心構えだって、出来ているつもりでいた。

 けれど、ふいに虚しさと哀しさが押し寄せて、無力感に苛まれて眠れぬ夜もあった。


 もう父の今後の日々には、何も無いのか。

 喜びも、楽しみも、幸せを感じる事は無くただただ過ぎるのか。

 終わるその日まで。ただただ、ただただ、弱っていくだけなのか。

 苦しかった。辛かった。愛しているからこそ、失った日々が苦しい。忘れられた日々に苦しい。報われぬように思える日々が辛い。


 だけど、失ってはいなかった。

 眠っていただけだ。父の中、奥深くに、眠っているだけだ。そうして、父もこの先眠りにつくというだけだ。願わくば、穏やかな眠りが迎えてくれますようにとただ祈る。

 菖蒲の便りが運んでくれた一時に、心が少し軽くなった。失われてはいないと気付けた。


 大丈夫、きっと大丈夫だ。だって、眠るだけだ。愛しい記憶は、日々は、ここにある。


 人生半ばを折り返して、父を看取る今に思い起こされるのは、働き盛りの頃の逞しい巌顔。

 頼もしい父の、家族を護ろうと働き続けた父の、巌顔。その巌が、今は役目を終えたと言わんばかりに、穏やかな寝顔をしている。


 ふと梓は、あの池を思い出した。


 苔生した岩に囚われているのか護られているのか、優雅に泳いでいた鯉の池。

 仲良く泳ぐ鯉の姿と、静かに佇む父母の姿を。 

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藤の栞に『い と し』と書いて ちょこっと @tyokotto

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