第23話 過換気症候群
無現良平である『僕』は自らこの牢獄に閉じこもった。
物質というものが何一つ存在しない世界だ。
裁人の瞳を介しての映像を、無感情のままただ見ているだけに過ぎない。生きているとはとてもではないけれど言えないだろう。恐らく裁人もコンピュータの中に居る時は、今の僕と同様だったのかもしれない。
勿論、感情など存在しない彼にとっては、望みもまた存在しなければ、希望も存在しなかった事だろう。
しかし僕もまた、ここから出たいとは思わない。無気力となった僕は、映像が途絶えればそのまま自身の存在も消えていく。ただそれを待つだけだ。AIとなんら変わりはないだろう。
自分で捨てた命なんだから、今更惜しいはずもない。
ところが予想外な事に、僕の身体を使う裁人は、心理カウンセリングAIという存在であるというのに、『皐月』に妙な執着を見せている。折角コンピュータの中という牢獄から出られたのだから、自由に好きな事を愉しめばいいというのに、結局のところAI故に自発的に行動するということは難しいのだろう。
鳥の刷り込みの様に皐月に執着しているその様子は、見ていて同情すらしてしまう。裁人の能力を以てすれば、世の中を掌握する事だって容易いことだろう。
尤も、それに価値を見出せないのなら無意味な事だが。
恐らく自由とは何かすら理解していないのだろう。哀れなものだ。所詮はAIだということだ。
では、それならば人間は自由なのだろうか? 少なくともコンピュータの中に居た裁人や、今の状態の僕は自由ではないだろう。しかし、自由とは何だろうか? 何のしがらみもない人生を送ることができる人間なんて、この世に存在するのだろうか。
人は生まれた瞬間に既に親というしがらみを持つ。それは自由を奪う事の一つではないだろうか。
親に捨てられた僕は、そんなしがらみから解放されているはずだというのに、自ら手を伸ばしてそのしがらみを手に入れようとした。
もしかしたら、全てを手に入れた上でも自由でありたいと考える事は、人間の最悪の欲求なのかもしれない。
そう思った時、僕にとって『皐月』という存在も、しがらみなのではないかと考えた。
僕を見て。誰よりも僕を愛して欲しい。けれど、僕を縛る様な事は決してしてはならない。傲慢で、欲深く都合のいい感情が膨れ上がり、心を汚していく気がした。
感情のないAI風情が皐月にキスをした時は、流石の僕も腹が立った。けれど、思いきり股間を蹴り飛ばした皐月の様子に、僕は思わず笑い転げてしまったんだ。
妙な気分だった。沸き起こる感情を失い、考える事も止めてしまっていたはずなのに。
——皐月が必要としているのは、AIなんかじゃない。『僕』だ。
そんな強い思いが僕を支配するかの様に埋め尽くされていく。
淡々と生きるAIの様子は本当につまらないものだけれど、皐月に関してだけは僕の感情が揺れ動くのだ。
僕の帰りを待ちわびる彼女の悲痛な思いが、ぞわぞわと心を駆り立てる。
ああ、僕はなんて鬼畜なのだろう。寂しげに裁人を見つめる皐月の瞳が、心地よくて堪らないのだから……。
◇◇◇◇
裁人は患者と楽しそうに会話をし、どんなにか罵声を浴びせられても
診察室から怒鳴り声が聞こえる度、皐月は『またか』とうんざりするが、ここはメンタルクリニックなのだ。患者は皆、辛さ、苦しみから救われたくて訪れているのだから、理不尽さにも仕方が無いのだと思うしかない。
しかし、その分、症状が改善し、晴れやかな顔になっていく患者の様子を見ると、達成感というものはひと際だ。
勿論、そんな達成感も裁人には味わう事のできない感情なのだろう。
——裁人はともかく、良平は堪えられるのかな……?
ふと皐月の脳裏にそんな疑問が浮かんだ。
患者をいつも通りの笑顔で見送る裁人をチラリと見つめる。
もし、良平が戻って来たら。彼にこのクリニックの経営をそのまま続ける事なんかできるんだろうか?
良平は後期研修を受けていない。通常開業医は後期研修後に医院で経験を積んだ後、開業するというのがセオリーだ。裁人はAIであるが故にそのあたりを全部飛ばして、この有幻メンタルクリニックを開業した。
良平が戻って来たのなら、経験を積む為に一度クリニックを閉業する必要があるだろう。そうなったら……患者達に多大な迷惑を掛ける事になってしまう。ひょっとして、裁人はそういう理由もあって臨床心理士を雇うと言い出したのだろうか?
「皐月君、キスをしてください」
キーボードを叩く手を止めて、皐月は「は?」と、眉を寄せて裁人を見た。裁人は機嫌良さげにニコニコと笑みを浮かべ、皐月を見つめている。
「何寝ぼけてんだよクソAI。それとも俺の聞き間違えか? キックならいつでもしてやるぞ!?」
「暴力は止めてください。エラーが発生します」
裁人はトンと机に手をつくと、身を乗り出して皐月に顔を近づけた。ふんわりとベルガモットの香りが漂い、皐月の鼻を
「だから、何なんだよクソAI!! 近づくんじゃねぇって!!」
ぐっと裁人の顎を手で押し返すと、皐月は怒鳴り散らした。
「まだ午後の診察があるってのに、ぶっ壊れたんじゃないか!? 今の時間ならまだ家電量販店も開いてるだろうから、連れてってやるよ!」
「壊れてなどいません。キスがしたいからしましょうと言っています」
「俺はしたくねぇよっ! いっそ大破しろ!!」
「ですが、蕁麻疹が出てきました。痒いです」
「薬飲めっ!!」
裁人は残念そうに唇を尖らせると、肩を竦めた。
「皐月君はケチですね」
「そういう問題じゃねぇよっ! いいか? 俺はあんたの恋人でもなんでも無いんだから、勘違いするなっ!!」
「ですが、この間のデートではキスをしてくれました」
「あれは薬が無かったから仕方なくだ!」
「……ちっ!」
「舌打ちしてんじゃねぇよっ! それと、あれはデートじゃなく『拉致』って言うんだっ!」
裁人がふと宙に視線を向けた。またインターネットに接続しているのだろうと皐月が思った矢先、突然駆けだしてクリニックから出て行った。
——何が起こった!?
唖然としていると、裁人が女性を抱き抱えた状態で戻って来て、待合室の長椅子の上にゆっくりと寝かせた。
『過換気症候群』。発作的に呼吸や神経、循環等と様々な症状を呈する機能的疾患だ。
「藤川さん、大丈夫です。私がついていますので。息を吸ったら一度息を止めましょう」
過換気発作時にはペーパーバッグ法といい、紙袋で口と鼻を覆う方法もあるが、必要以上に長く再呼吸をさせる事により低酸素状態になったり、再び発作を起こす可能性がある為、昨今では推奨されない方法だ。
「そうです。上手です。ではゆっくり吐きましょう。身体の力を抜いて楽にしてください」
裁人の声は、テンポもよく聞き取りやすく通った声質だ。
『過換気症候群』の発作時には、深呼吸を促してはならない。更なる過呼吸となりがちだからだ。
美彩は苦しさで瞳に涙を滲ませたまま細い腕を伸ばし、裁人の肩へと回した。発作が起こった事でパニック状態となり、そこから救ってくれた裁人に感極まったのだろう。
サラサラと零れる長い髪が美しいなと、皐月は思った。
「藤川さん、診察室のベッドで少し休憩し、落ち着いてから診察に入りましょう」
裁人の言葉に美彩はか細い声で返事をし、頷いた。
「歩けますか?」
裁人に甘える様に首を左右に振り、肩へと回した腕をぎゅっと引き寄せた。
美彩が裁人に好意を抱いている事に、皐月は以前から何となく気づいていた。クリニックの患者で裁人に想いを寄せる女性は意外と多い。親身になってカウンセリングをする相手に頼りたくなる依存的感情という事もあるだろう。
更に裁人は長身で、程よく鍛え上げられた体つきであり、茜色の髪や緋色の瞳という特異な風貌に整った顔立ちをしている為、どこか浮世離れして見える。
良平はあまり社交的とはいえない性格で、他人に声を掛けられる事を好まずシカトするタイプだったが、裁人はAIが故にか誰にでも愛想がいい。
——AIのくせに、モテてどうするんだか……。
「皐月君、診察室のドアを開けてください。藤川さんを診察室のベッドへと運びます」
「あ、うん!」
皐月が急いで診察室のドアを開けると、裁人は華奢で小柄な美彩を軽々と抱き上げて診察室へと入って行った。皐月も後に続き、診察室にあるベッドの準備を整えた。
——患者さんを抱き抱えていくだなんて、もし落としたらとか、セクハラがとかいうリスクを考えないのかよこいつは……。
皐月は注意したいのを堪えながら対応していた。美彩を不安にさせるわけにはいかないと思ったからだ。
「皐月君」
美彩をベッドに寝かせ、席についている裁人が皐月を呼び止めた。無言で立ち止まった皐月に、裁人は「何か怒っていますか?」と聞いてきたので、少し苛立って「別に」と答えて、診察室から出た。
受付で事務仕事をしていると、外が薄暗い様子に気づいた。ゴロゴロと雷が鳴り始めたかと思うと、突然激しい雨が降り出した。
美彩は確か傘を持っていなかった。折り畳み傘を鞄に入れている可能性はあるが、皐月は念のため予備のビニール傘を出しておこうと考えた。
待合室の掃除用具入れの中に、確かいくつか傘をしまってあるはずだと、皐月がガタガタと音を立てて探していると、診察室のドアが開き、裁人が顔を出した。
「皐月君、静かにしてください」
「あ、ごめん。傘を出しておこうと思って……」
「藤川さんはバッグの中に折り畳み傘を入れています」
——なんでそんなこと知ってんだ!?
「そ、そっか。分かった」
引き攣った笑顔で頷いた皐月に納得したのか、裁人は診察室のドアを閉じた。
再び事務仕事に手をつけたものの、しんと静まり返ったままの診察室の様子が妙に気になる。
美彩はぱっちりとした大きな瞳が印象的で、清楚で華奢で……同性である皐月の目から見ても彼女は魅力的な女性だ。
——裁人は、誰かを愛する事ができるんだろうか……?
精神科医としての倫理上、患者との恋愛関係を築く事しないだろうけれど、誰かに恋心を抱いたりが、この先あったりするのだろうか? そしたら、もしも良平が帰って来た時に困るんじゃないのか? 俺は一応、良平とつきあっていたから、大分複雑だな。
そう考えて、皐月はハッとした。
……そもそも、良平が帰って来たとしても、俺の事なんて眼中になくなっている可能性だってあるじゃないか。そしたら俺は、一人で生きていかなきゃならないんだ。
一人で……。
皐月はざわざわと悪寒が走るのを感じ、キーボードを打つ手をピタリと止めた。
いつまでもこうして裁人に『依存』して生きていたら駄目なんじゃないのか……?
裁人が俺を必要としていたんじゃない。俺が裁人を必要としていたんだ。
両親の死を一人で受け止めるのには余りにも俺が弱すぎるから。自分の居場所を求めた結果、良平の身体だからという理由だけで裁人に頼り切っているのは俺なんじゃないのか?
「皐月君? 大丈夫ですか?」
裁人が緋色の瞳で覗き込んでおり、皐月は驚いて「わ!」と声を発した。見ると、美彩が財布を持った状態で困った様に笑みを浮かべて立っている。
「すみません、お会計を……」
美彩がか細い声でそう言い、皐月は慌てて「すみません!」と謝罪すると、カチカチとキーボードを叩いて伝票を作成した。
「どうかしたんですか?」
美彩が帰った後、裁人が心配そうに声をかけたが、皐月は「なんでもない」と素っ気なく返した。
「ひょっとして、ヤキモチでも妬いたんですか? ということは、皐月君は私に好意を……」
「裁人。次の患者さんが来るから、早く診察室に戻って」
皐月は裁人にそう言い放つと、次の診察に向けた準備を始めた。
「皐月君。私が何か気に障る事をしましたか?」
「どうして?」
「突然そっけなくなりました」
「俺はいつだってあんたにはそっけないけど?」
裁人はいじけた様に唇を尖らせると、受付のカウンターの上に手を乗せた。その行動に皐月はビクリと身体を動かした。
——頭を撫でられるのかと思った。良平はいつも、俺がいじけた時に頭を撫でてくれたから……。
皐月は堪らなく寂しさを感じると、深いため息を吐いた。
——俺は、裁人に『良平』を求めたらだめだ。『依存』したらいけない。
「皐月君、どうすれば私に優しくしてくれますか?」
「特別優しくなんかしない。裁人と俺は仕事のパートナーという関係だけじゃないか」
「では、私と恋人としてつきあってください」
さらりと言った裁人の言葉に、皐月は苛立って睨みつけた。
「それは無理だって分かってるだろ?」
「何故ですか? 私には戸籍もありますし、結婚も可能です」
「そういう問題じゃない!」
「では、一体何が問題なのですか?」
「あんたは良平じゃない。それに、感情が希薄なAIが、他人に恋愛感情を抱く事なんかできるのか?」
「恋愛感情が無いとつきあってはいけないのですか?」
「好きでもない相手とつきあうなんて、できるはずないじゃないか」
皐月の言葉に、裁人は緋色の瞳を見開いて絶句した。
「俺にだって恋愛のことはよく分からないのに、AIの裁人が分かるとは思えない」
裁人は暫くその場で立ち尽くしたまま動かなかったが、次の患者の予約時間が迫ってきている事に気づき、無言で診察室へと戻って行った。
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