第22話 インターネット・ゲーム障害
文部科学省の調査による、二〇二二年度の小中学生の不登校者数は約三十万人。小中学生が全体で約一四六五万人であることから、百人に二人以上は不登校者であるということだ。
ちなみに、文部科学省の不登校に於ける定義とは、「何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しない、あるいはしたくともできない状況にある為、年間三十日以上欠席た者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの」とある。
病気の定義とは何だろうか。心の病は、病気とは言えないのだろうか……。
尚、不登校と引き籠りの一部には連続的な関係を有する事例がある。不登校事例の十%~二十%程度が長期の社会的引き籠り状態へと至る事が推測されるからだ。
十五歳~六十四歳で引き籠り状態にある人数は、全国での推計一四六万人にも上ると言われている。
これは由々しき事態である。
日本人の死亡原因として最も多い癌の患者数が約百万人であり、それを優に超えるのだから……。
ガラガラと台車を押す音が響き、皐月は驚いて顔を上げた。見ると、クリニックのドアが開き、二十代の男性が苦笑いを浮かべながら入って来た。
「えっと……予約した伊藤ですけど」
「どうぞ、掛けてお待ちください」
皐月は問診票を伊藤に渡すと、診察室のドアをノックして開けた。裁人が緋色の瞳を皐月に向けると、「伊藤さんですね。カルテは用意してあるので診察室に案内しても構いません」と微笑んだ。
「あ……でも、なんか台車を持って来てるんだけど……」
「え?」
裁人はふと宙に視線を向けた後、困った様に肩を竦めた。
「所有しているパソコンがウイルスに感染してしまったとのことで、実機を持ち込まずともリモートで対応できるとお話したのですが」
裁人の言葉に、皐月は成程と思った。つまり彼は、有幻メンタルクリニックのホームページに書かれている、『当院は昨今のインターネット環境に於ける問題についての解決も得意と致します』という売り文句を頼りに訪れたということなのだろう。
「……うち、家電屋じゃないんだけどなぁ」
「皐月君。彼は『インターネット・ゲーム障害』です」
『インターネット・ゲーム障害』とは、依存症の一種だ。ゲームに集中し過ぎるあまり、日常生活に様々な支障を来すのだ。生活リズムの乱れや、暴力的になったり、金銭感覚が欠落し、高額な課金を行い、更には家族関係や友人関係の悪化にも繋がる。
——ん? 裁人はどうなんだ?
そもそも常にインターネットに接続しているようなものじゃないか?
「あ、皐月君。今私の存在そのものを疑いましたね?」
「そ、そんなことないよ! じゃあ、患者さんを呼んでくる!」
皐月は慌てて誤魔化すと、待合室で待つ患者へと声を掛けた。
『
彼の両親は共働きで多忙であった為、親が帰って来るまでの長い時間を、彼はゲームと共に過ごして来た。友人には時間制限があるが、ゲームは遅い時間まで伊藤の相手をしてくれるのだから、仕方のないことだ。
次第に人とのコミュニケーションも苦手となり、彼は成長していくにつれ増々ゲームにのめり込んでいった。
昼夜逆転の生活は社会から孤立するには十分な理由だ。不登校になり、二十歳を越えた今も仕事をせずに部屋に閉じこもり、ゲームに噛り付く毎日を送っている。
特に、オンラインゲームは依存性が強いという。
終わりがなく延々とプレイし続ける事が出来る上、実生活でのコミュニケーションが苦手であっても、ゲーム内のユーザとは同じ目的を共有することで、承認欲求や自己肯定感を満たして貰える為だ。現実世界がつまらないと思えば思う程、ゲームの世界にのめり込んでいく可能性が高いと言えるだろう。
「ウイルス削除してくれるって聞いて……」
診察室に入るなり、伊藤が開口一番発した言葉がそれだった。裁人は笑顔で頷くと、「まずはお掛けください」と椅子に座るように促した。
「あ……そのパソコンは有線のみですか」
伊藤の持ち込んだPCを見て裁人はそう言ったが、伊藤は何も答えずに俯いた。裁人は診察室のドアから顔を出し、皐月にLANケーブルを持って来るようにと頼んだ。
席に戻ろうと振り返ると、伊藤がスマートフォンを取り出して早速ゲームをしている姿があり、裁人はつっと宙を見つめた。
「あれ? 電波が悪くなった!! なんだよこんな時に!!」
伊藤が苛立った様に言い、カタカタと脚を揺らした。
「裁人、LANケーブルあったけど」
「皐月君、少し手伝ってください。あ、伊藤さん、助手に看護師の皐月君を陪席してもよろしいでしょうか」
「何でも構わないから早くして! ここ、電波悪すぎなんだけど!!」
「ありがとうございます」
裁人の指示で伊藤が持ち込んだPCにLANケーブルを接続し、モデムへと差し込んだ。その間、伊藤は手伝うでもなくブツブツと悪態をつきながらスマートフォンを弄っており、皐月はチラリと裁人に視線を向けた。
——裁人の末路?
「皐月君、そういう目で私を見るのを止めてください」
「ねぇ、早く直してよ。ここなら保険も効くし、専門店に持って行くより近いからさ」
伊藤が苛立ったように言った。
——うちはパソコンショップじゃねぇよっ!
皐月はカチンと来たが、いやいやこの人は患者さんだと笑顔のまま力を思いきり込めてPCの電源ボタンを押した。
ファンが回り、PC本体がカラフルな光を発する。
——なにこれ、電気の無駄っ!?
ゲーミングPCを初めて目の当たりにした皐月は、薄暗い診察室内を照らし出す派手な七色の光を見て唖然とした。
「なるほど、なかなかに高スペックですね」
裁人の言葉に伊藤がジロリと視線を上げた。
「先生、分かるの?」
「勿論です」
「へぇ、そうなんだ?」
伊藤が得意気に笑い、自宅の設備がいかに凄いかを早口で熱弁し始めた。
「終わりました」
ケロリとした調子で裁人が言った。伊藤はまだまだ自慢し足りないといった風に眉を寄せ、裁人を睨みつけた。
「モニターもキーボードも接続しないでどうやって? パスワードだって教えていないのに、先生、ばかにしてんの?」
「いえいえ、とんでもないです。PC内はクリアな状態です」
「直って無かったらまた来るからな? その時は無料で直せよ?」
「再診の際は、実機はお持ちいただかなくて結構です。リモートでできますから。でも、伊藤さん本人はいらしてくださいね? 保険診療ですから」
伊藤はフンと鼻を鳴らすと、帰ろうとし、訝し気に裁人を見つめた。
「先生、電源落としてくれないと帰れないんだけど」
「おや、これは失礼」
裁人がふと宙を見つめた。派手派手しい光が消え、ファンが停まる様子を見て、伊藤は怪訝な顔をした。
「触ってもいないのに、どうやった?」
「インターネット経由でリモート接続し、コマンドプロンプトからシャットダウンコマンドを入力しました。あ、因みにですが、オーバークロックの匙加減が少々見誤っており、CPU負荷がかかり過ぎていましたので、調整しておきました。発熱量的にもっと性能のいいクーラーをつけるべきです。これではパフォーマンスがあがりません」
裁人の話に伊藤はキツネにつままれた様な顔をした後、パーツに関する細かい検証結果等を口にし、その度に裁人がスラスラと受け答えをした。
——これは……裁人じゃないとできないかもしれないけど、果たして精神科医に必要なスキルだろうか……。
疑問に思う皐月の前で二人はあれやこれやと議論を交わしていく。
そうするうちに、伊藤の瞳が生き生きとしていく様子に皐月は気づいた。
裁人は何を思ったのか、いつもピタリと閉じられているブラインドをカラカラと上げた。日が暮れ始め、眩い程のオレンジ色の光が室内へと差し込む。
「……何? 先生、眩しいんだけど」
「コンピュータで出す事のできない色彩を味わう事で、伊藤さんの中のインスピレーションが上がるはずです」
「どういう事?」
「つまりは、人生には刺激が大事だと言うことです」
夕日に照らされた裁人に視線を向け、伊藤は眉を寄せて窓の外を見つめた。刺すようなオレンジ色の光に、眉間に皺を寄せたが、照らし出されて影として落ちたビル群が幾何学的な模様に見え、美しいと感じて思わず夢中になって見つめた。
幼少期の思い出が伊藤の脳裏に浮かぶ。母親がまだ時短勤務していた頃、二人でよく公園に遊びに行った。夕日を背に家路へと急ぐ時間が好きだった。家に帰ると母親は忙しなく夕食の支度をする。
いつしか夕日は独りぼっちで見ることとなり、温かい食事は味気ないコンビニの弁当やスーパーの総菜になった。物分かりのいい伊藤は、我儘を口にすることなく、ずっと堪えた。寂しさを紛らわせる為に、どんどんゲームの世界へとのめり込んでいき、夕日をこうしてみる事が無くなった。
「……なんかさ、よくわかんないけど。来て良かったかも」
「私は伊藤さんにお会いできて嬉しかったです」
診察室を後にする頃には、すっかり二人は仲良くなった様で、伊藤は満足気な顔をして帰って行った。
伊藤を見送った後、裁人がぽつりと言った。
「明日、彼はまた来ます」
「え!?」
素っ頓狂な声を上げた皐月に、裁人はふあっと欠伸を返した。
「彼のPCは明日の朝九時に再びウイルス感染します。今度はPCを持って来ないはずですが」
「それ、裁人が仕込んだの?」
「はい」
「……ちょっと待って。ひょっとして彼が今日来たのも」
「はい。私が仕込みました」
「おいおいおい!! それは犯罪だろう!?」
「彼はコンピュータウイルスと勘違いしていますが、実際はコンピュータウイルスではなく、私がリモート操作をしただけです」
——あんた自身がコンピュータウイルスじゃないか……?
「なんでそんなこと!?」
狼狽える皐月に、裁人はさらりと言った。
「そうすることで、彼は部屋から出て、しかも外に出てこうしてここまで来たじゃないですか。その間ゲームができませんでした」
裁人はそう言うと、診察室のブラインドを下ろし、椅子に掛けて煙草に火をつけた。ふんわりと甘い香りが漂う。
「先日伊藤さんのご両親が相談に訪れましたので、強硬手段を取ったまでです」
「他に方法は無かったの?」
「インターネット・ゲーム障害は薬物依存症と似た傾向があります。ドーパミンが分泌され、快楽を味わうわけですから。更生には突然取り上げるよりも、徐々に減らすという治療行為が必要となります」
そして僅かにため息をつくと、緋色の瞳で皐月を見つめた。
「私がもし、皐月君にとってインターネットやゲームのような存在なのだとしたら、皐月君の脳内にもドーパミンが分泌されるかもしれませんね。つまり、私に依存する可能性が……」
「ねえよっ!!」
「……ちっ」
裁人は舌打ちをすると、ふぅっと煙を吐いた。
有幻メンタルクリニックは今日も患者の心を救うべく、密かに営業中である。
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