第21話 サイコパス③ ―欠如—
音も無く滴り落ちる点滴液。身体に流れ込む液体の温度が低く、じっくりと身体が冷やされていくようで、陽也はフト『これが睡眠薬で、先生が殺人鬼だったら』などと想像し、苦笑いを浮かべた。
——茜色の髪に緋色の瞳をした殺人鬼か。漫画にでも出て来そうだな……。
「乙田さん」
「!」
突然裁人が目の前に立っており、陽也は思わず声を上げた。ドキドキと心臓が激しく鼓動する。
「脅かさないで下さいよ、先生……」
「すみません。点滴の間暇かと思いまして、お話しに来ました」
裁人は笑みを浮かべながら、「『サイコパス』ってご存じですか?」と陽也に問いかけた。
陽也はゾッとした。映画のワンシーンが脳裏をよぎる。
不快そうに眉を寄せた陽也に、裁人は困った様に頭を掻いた。
「先ほど私は、『マトモではないのは、治療する術もなく、もとからそうである人の事です』と言いました。サイコパス、つまりは『精神病質』と言われる方がそれに当たると思います」
裁人の話を聞き、陽也は小さくため息を洩らした。
「治療する術が無いんですか?」
「はい。ありません」
裁人はきっぱりと言い切ると、ベッドの横にある椅子に掛けた。
「DSM-5の分類からすると、反社会性パーソナリティ症に分類されます」
不快感を露わに眉を寄せた陽也に、裁人はにこりと笑顔を向けた。
「『反社会性パーソナリティ症』とは、他人の権利を無視し、侵害する項目により診断されます。例えば、違法行為を繰り返し行う。繰り返し嘘をつく。衝動性。攻撃性。無謀さ。無責任。良心の呵責の欠如。そして、十八歳以上である事と、十五歳以前に発症した素行症の証拠があり、統合失調症や双極症の経過中以外にも反社会的行為が見られること」
つらつらと言葉を並べる裁人を見つめ、陽也は困ったようにため息をついた。
「先生、私には難しい内容で理解が追い付きません」
「今並べたのはDSM-5の『反社会性パーソナリティ症』の診断基準です。サイコパスの方は『良心の呵責の欠如』と『冷淡・共感性の欠如』が更に顕著に見られます。つまりは人を殺しても罪悪感を感じず、相手の気持ちも一切理解できない人の事を言います」
陽也の脳内に思い浮かぶ映画の登場人物も、確かそんなキャラクターだったなと思った。
「そして、治そうという気が無い人を治療することは不可能です」
「おい、裁人」
いつの間に現れたのか、ポン、と皐月が引き攣った笑みを浮かべながら裁人の肩を叩いた。
「全部あんたじゃないか!?」
「え? どの辺りがですか?」
キョトンとして緋色の瞳を瞬きした裁人を指さすと、皐月は怒鳴りつけた。
「『良心の呵責の欠如』と『冷淡・共感性の欠如』がだっ! 休んでる患者さん相手に何の話してんだよ!? 怖がらせてんじゃねぇよっ!」
裁人は少し考えた後、緋色の瞳を見開いて陽也を見つめた。
「乙田さん、大変な事に気づきました。私はどうやらサイコパスのようです!」
陽也はその台詞を聞き、ポカンとした。
——この二人は、私を和ませようとしてくれているのか……?
陽也は僅かに考えた後、ため息交じりに言葉を発した。
「犯人に対して、恨みが消える事はありません。私が生きている限り、許す事は無いでしょう。しかし、先生はそれを強制しなかった。『罪を憎んで人を憎まず』と言うでしょう? 私には無理なんです」
陽也の言葉を聞き、裁人はにこりと穏やかに微笑んだ。
「孔子の言葉ですね。彼は人肉を食べていました」
シン……と、間を置いた後、皐月がゴチリと裁人の頭を拳で殴りつけた。
「痛いです。エラーになります」
「お・ま・え・はっ!! いい加減にしろってのっ!」
「ですが、皐月君。当時のその国では人肉を食べるのは普通の事だったんです。でも、今は違います」
「だから何だ!?」
「つまりですね、私が言いたいのは……」
「分かっています。私は、妻を食べました。あの味が忘れられず、以来食事が喉を通らなかったのですが、今日からはきっと気にならないでしょう。先生のおかげです」
嫌に晴れ晴れとした顔をしながら陽也が放った言葉を聞き、皐月がすぅっと青ざめた。
「最初から知ってたのか?」
診察室の掃除をしながら、皐月は震える両手を必死に抑えて裁人に問いかけた。
「……すみません。先に皐月君に話すと、恐怖心を抱いて乙田さんのケアができなくなると思いましたから」
——裁人の言う通りだ。今だって恐ろしくて堪らない……。
「奥さんを殺害した事に、彼は罪悪感を持っていません。サイコパスは彼なんです」
「……治療を続けるの?」
「はい」
「受け入れきれるのか?」
「私は乙田さんと約束をしました。『摂食障害の治療はこのクリニックに脚を踏み入れた時点で私の責任ですから、必ず完治して頂きます』と。サイコパスの治療は私にはできませんが、摂食障害の治療は可能です」
「摂食障害の治療だってかなり難しい治療だろう?」
「はい。ですが乙田さんは今日点滴を受けました。それは既に回復の兆しです」
納得しきれていない顔を向ける皐月に、裁人はいつも通りの笑顔を向けた。
「何か問題がありますか?」
裁人のいつも通りの笑顔を見つめながら、皐月は少し悲しくなった。感情が希薄なAIだとしても、裁人が危険な目に遭うのは嫌だ。
「問題だらけじゃないか。心配に決まってる! だって、殺人犯なんだろう? サイコパスは治療できないって、言ってたじゃないか」
「大丈夫です。皐月君の言う様に、私も彼と同じです」
「……同じ?」
「『良心の呵責の欠如』と『冷淡・共感性の欠如』です。私はAIですから、良心も呵責も共感性もありません」
裁人の言葉を聞きながら、皐月はじっと裁人を見つめた。穏やかな笑みを浮かべた裁人の緋色の瞳はどこか悲し気で、自分の心の痛みを堪えているかのように見えた。
「違う!!」
皐月は椅子に座って居る裁人の頭をぎゅっと抱きしめた。
「ごめん。同じなんかじゃないよ。酷い事言ってごめん。あれは冗談だよ、本気に捕らえないで。謝るから」
薄暗い診察室は静まり返っており、外の通りを走る車のヘッドライトがブラインドの縁から僅かに光を発する。
「だって、裁人は優しいじゃないか……」
皐月は裁人に冗談気分で軽はずみに言ってしまった事を激しく後悔した。今まで裁人がこのクリニックでどれほどの患者達の心を救ってきたかをずっと側で見ていた。
罵声を浴びせられても気にも留めない所はAIの利点なのかもしれない。いかに患者を救おうと自分の能力を最大限に活用し、全てを捧げる勢いで尽力している裁人の姿もまた、AIの利点なのかもしれない。
しかし、それを『実行する意思』は、裁人自身のものなのだ。
裁人の能力を駆使すれば、人を壊す事など造作も無い事だろう。けれど、裁人は救う事を選んだ。敢えて難しく困難な道を選び、皐月と共にこうして懸命に生きている。
「……皐月君」
裁人が皐月の腕の中でもぞもぞと動いた。
「Eカップの胸が苦しいです。呼吸ができません」
「何でサイズ知ってんだっ!? 裁人の馬鹿っ!!」
皐月が慌てて裁人から離れると、裁人はいつも通りのへらへらとした笑顔を向けた。
「乙田さんは措置入院の退院が不適切であるとして連絡を入れます」
「え? そんな事ができるの?」
キョトンとした皐月に、裁人は笑顔のまま頷いた。
「措置入院の退院後、再び措置入院となる患者は三割強居ます。私が乙田さんと約束をしたのは、あくまでも摂食障害の治療です。彼は既に痩せる事への魅力を失っていますので、回復したも同然です。約束を違えたわけではありません」
皐月はふと嫌な予感がして裁人を見つめた。
「……ひょっとして、乙田さんを受け入れたのって……」
「はい。再入院させる為です」
裁人はふと宙へと視線を向けた。
「彼はここへ向かう様に進言したご両親に殺意を抱いています」
「は!?」
「大丈夫です。犯行現場を取り押さえる為、警官が見張って居ます。彼はそれに気づいていません」
「……裁人が呼んだの?」
「はい」
「………」
皐月は何やら裁人に振り回されている様な気がしてうんざりとした。
「なんか疲れた……」
「そうですね。美味しい物でも一緒に食べに行きましょう」
「なんであんたと一緒に食事に行かなきゃならないんだ!? っていうか食欲なんかあるわけないだろ!?」
「唐揚げが美味しいと評判のお店の情報を入手しました」
「お! それは絶対行く!」
皐月はニッと笑うと、「さっさと片づけ終わらせちゃおう!」と掃除を開始した。
「……裁人ってさ、夢を見たりするの?」
掃除をしながら皐月がポツリと言葉を発した。裁人はカルテを片づけながら「わかりません」と答えた。
「夢なのか、現実なのかがよく分かりません。私にとって、今こうして良平の身体を借りて存在していることこそが夢なのかもしれません」
昼間からブラインドを下ろし、太陽の光を遮断した薄暗い電気が灯された室内。有幻メンタルクリニックはいつも通り営業中である。
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