第20話 サイコパス② ―無罪—

 待合室で問診票に記載を進める陽也はるやを見つめ、皐月は『痩せすぎているな』と思っていた。

 Yシャツの袖口から覗く手首は筋張っており、ペンを走らせる度に袖口が邪魔そうにゆらゆらと揺れた。首回りもボタンを一番上まで止めているというのに服が大きく見える程に空いており、背の骨格が浮き出ている。ベルトも一番目の穴を通しているというのに、まだまだ余裕がありそうな様子だった。

 やせ過ぎて居るせいか、四十三歳という年齢にしては老けて見え、五十代であると言われても不思議はなく、頭髪も白髪が大半を占めていた。


「お願いします」


 書き終えた問診票を受付にいる皐月へと陽也が渡した時、診察室のドアが開いた。茜色の髪を覗かせて、裁人がいつもの穏やかな笑みをふりまきながら「乙田おつださん、診察室へどうぞ」と声を掛けた。


「それと、皐月君もお願いします。点滴の準備をしておいてください」


 点滴と聞き、陽也が唖然とした表情を浮かべた。しかし裁人はお構いなしに陽也を診察室へと招き入れた。薄暗い室内に怯んだ陽也に気づき「照明を少し明るくしましょうか」と言って、どうやったのか薄暗かった部屋にふわりと明るさが増した。


「あの、点滴って一体どういうことですか?」


診察室の椅子に半ば強制的に座らせられながら、陽也は居の一番に質問をした。


「栄養が不足していますので、点滴によってそれを補います」


——点滴だなんて、冗談じゃない。そんな、こと。


陽也の額に汗が浮き出て、たらりと頬を伝った。


「先生、確かに私は他院で甲状腺機能が低下していると診断されました。飲みたくも無い薬も飲んでいます。それでいいじゃありませんか。ここへは両親からの強い要望があって仕方なく来ました。失礼を承知でいいますが、私はこちらのお世話になる気など毛頭ありません」


淡々と言葉を述べる陽也を前に、裁人は穏やかな笑顔のままサラリと説明をした。


「貴方は摂食障害を患っています。女性が発症しやすい病気であるという固定観念から、男性の場合別の病気であると誤診されることが多いのですが、神経性やせ症、分かり易い言葉では『拒食症』です」


裁人の言葉を聞いて、陽也の喉の奥でひゅっと音が鳴った。

 拒食症については陽也も偶にテレビ等で見聞きした事があった。容姿を気にする女性がガリガリにやせ細り、無残と言える程の姿へとなり果てている映像が脳裏に浮かんだ。


——やはり、精神科とは足を踏み入れたが最期、病人に仕立て上げられるのか。


「私はです。精神疾患なんかありません!」


僅かに声を荒げた陽也を、裁人は笑みを浮かべたまま見つめた。


「精神疾患の患者さんも、ですよ。乙田さん」


裁人は椅子に掛けたまま、テンポもよく聞き取りやすく通った声質でそう言い放った。陽也は眉を寄せ、嫌悪感露わに顔を顰めた。


「何を言っているんです? 精神疾患の患者がマトモ? 馬鹿みたいに食べ物を貪り食って、狂人の様に暴れたり人を殺したりするような人だっているじゃないですか」

「いいえ、精神疾患の患者さん達はマトモです。乙田さんが言うそれら全てが、病気のせいだからです。病気は治療ができます」


陽也は立ち上がると、裁人を睨みつけた。


「じゃあ、マトモな奴が、私の妻を殺したと言うんですか!?」


陽也の妻は、七年前、刃物による刺殺事件で命を奪われた。犯人の男性は逮捕され、精神鑑定の結果無罪となった。


「私は、そんなことは認めません。いや、認めたらいけない! 人を殺しておいて、何の罪にも問われず、更に貴方はその犯人を『マトモ』だと言った。では狂っているのは私ですか? 先生、教えてくださいよ!」


裁人の両肩を強く掴み、陽也は腹の底に溜まった怒りと呪いを吐き出さんばかりに声を荒げ、怒鳴りつけた。

 裁人は緋色の瞳を陽也に向け、顔色一つ変えずに穏やかな表情のまま陽也を見上げている。


 異様な光景だった。


 明るく照らされた診察室内で、茜色の髪に緋色の瞳をした浮世離れした裁人が穏やかな笑みを向け、それに対してやせ細った男が怒鳴りつけているのだから。


 皐月が点滴の準備をして診察室のドアの前に立ち、二人の様子をじっと見つめている事に気づき、陽也はハッとした。


——今、あの看護師の目に映る私は、……。


 裁人の肩を掴んでいた手をすっと降ろし、陽也は何事も無かったかの様に自らの身なりを整えた。ダボついている服の裾を直し、深呼吸をする。


「乙田さん」


裁人が穏やかな調子で言った声に、陽也はびくりと身体を震わせた。


「治療すれば治る人はマトモなんです。マトモではないのは、治療する術もなく、もとからである人の事です」


それを聞いて、陽也が渇いた笑いを放った。


「先生は妻を殺した男の事はではないと仰るんですね?」


陽也の質問に、裁人は少し困った様に目を逸らした。

 皐月にはそれが妙に違和感を覚えた。いつも飄々としている裁人が患者から目を逸らしたからだ。少なくとも皐月は裁人がそうやって患者から目を逸らすのは、初めて目にした事だった。


「彼の周囲の人間が、彼の状態を見て見ぬフリを続けた、社会悪の結果です」


裁人の言葉は、陽也の質問の答えになっているのか曖昧な回答だと皐月は思った。AIであるが故に数式の解の様にハッキリと答えるはずの裁人が、乙田に対しては言葉を選んでいる節がある。


「それを、納得して受け入れろと言いたいんですか?」


陽也の問いかけに裁人はゆっくりと首を左右に振った。


「いいえ、その件について強制はしません。ですが、乙田さんの摂食障害の治療はこのクリニックに脚を踏み入れた時点で私の責任ですから、必ず完治して頂きます」


陽也は治療とは何をする気だと考えて、皐月が準備している点滴のセットを見つめ、吐き気が込み上げてきた。


「止めてください……。と、一緒になってしまいます!」


吐き気を押さえつけながら声を発し、体中が脈打つ様な感覚から眩暈へと変わり、陽也は頭を抱え込んだ。


 神経性やせ症の患者は、体重増加に対する恐怖心が強く、治療を受け入れさせる事は困難を極める。痩せている事への安心感よりも、体重が増加することの方が利点があると認識させなければならない為だ。

 陽也の妻を殺した男は酷く肥えていた。陽也は犯人に対しての強い怒りと恨みから、皮肉な事に犯人と同じく摂食障害を患ったのだ。犯人側が神経性過食症であり、陽也が神経性やせ症である。


「家へ帰ります。こんなところ、来るんじゃなかった!」


 裁人は何も無い宙へとふと視線を向けた。


 心神喪失で無罪となった被告は、措置入院することが法律で定められている。

 アメリカでは措置入院した被告が回復し、退院できる割合は二割未満であると言われている。つまり八割以上が退院することなく一生を終える為、終身刑と大差が無いと言えるのだ。場所によっては患者に対する扱いも酷いものだ。人として扱われずに、増々精神を病む者も居る。

 日本の法律では、死刑、無期、短期二年以上の懲役に当たる行為について、再犯の恐れのある者に対しては、入院期間の上限が設けられていない。とはいえ、十年以上入院するのは二割強、五年以上~十年未満の入院は一割弱である。


 殺人を犯した者は刑法の規定上、最も軽くて三年以上懲役が課せられる。

 しかし、二〇〇二年に日本精神病院協会が行ったアンケート調査によれば、殺人を犯して措置入院となった患者の四割が退院し、そのうち六割が三年未満で退院している。


 裁人は視線を陽也へと戻し、ニコリと微笑んだ。


「乙田さんの奥様を殺害した男性は、現在ガリガリにやせ細っています」

「……え?」


突然何を言いだすのだと、陽也は眉を顰めて裁人を見つめた。


「彼は神経性過食症から、神経性やせ症へと転換しています。治療が芳しくない様ですね」


——あいつが、ガリガリに痩せているだって……?

 陽也は自分の手首をふと見下ろした。

 妻を殺した男と似ても似つかない程にやせ細ったと思っていたというのに、今度はあの男が痩せてきている……?


「皐月君、乙田さんに点滴をお願いします」


 皐月は頷くと、点滴を打つ為のベッドへと陽也を案内し、陽也はあっさりするほど大人しくそれに従った。


 靴を脱いだ陽也の靴下には穴が空いており、彼が妻を失った時の長さを感じた。


 ベッドに横たわりながら陽也がポツリと言葉を放った。


「……私は、なんです」


——成程、乙田さんは奥さんを殺した犯人と同じになりたくないだけなんだ。

 チクリとした点滴針の痛みに僅かに眉を寄せた陽也に、皐月はにこりと微笑んだ。


「世の中まともじゃない人の方が珍しいと思います。……裁人はまともじゃないけれど」


そう言って、診察室の方にチラリと視線を向けた。茜色の頭を掻きながら何やらカルテに書き込んでいる裁人の姿が見える。


「こんな、病気を患ってしまっても、マトモだと認めてくれるんですか?」

「マトモだから……傷ついてしまうんです。生きる事に苦労する世の中ですよね。優しい事が弱さだなんて、認めたくなんかないけれど」


 皐月はそう言って小さくため息を吐いた。

——本当に、生きる事に苦労する世の中だ。少なくとも日本は食べ物を手に入れるのに、決して苦労する様な環境ではないはずだというのに、生き抜けないだなんて……。


「先生をマトモじゃないと仰ったのは、何故です? 私は、すっかり取り乱してしまいましたから、きっと先生に嫌われてしまったと思います」


陽也の質問に、皐月は苦笑いを浮かべた。


「あいつは、感情が欠落しているから傷付かないんです。患者さんに何を言われても何とも思わないし、共感だってしません。だから安心していいですよ。人を嫌ったりなんかもできないですから」

「決してそのようには……」


陽也は裁人へと視線を向けながらそう言った。穏やかな笑みを浮かべたまま書類整理を続ける様子が見える。ふと視線に気づき、彼が振り向いた。緋色の瞳を皐月に向け、少しだけムッとした様に唇を尖らせた。


「皐月君、患者さんに私の悪口を言わないでください」


——地獄耳!?


「……ほら、まともじゃないでしょ?」


 皐月は溜息をつくと、椅子から立ち上がった。


「カーテンは閉めますか? あ、エアコンが効いてますし、毛布をお掛けしますか?」


カーテンで視界を閉ざされるのは不快だと陽也は思い「いえ、このままで結構です」と断った。


「じゃあ、何かあったら呼んでくださいね? 俺、いつでも駆け付けますから」


余計に不安になる言葉を残して皐月が去って行き、陽也は遠くの椅子に座って居る裁人を見つめた。

 先ほどまで明るくしていた室内は、いつの間にかほんの少し明かりが落とされていた。

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