第19話 サイコパス① ―食—
良平が植物状態から復活を遂げ、退院となった後、奇妙な発言も次第に無くなっていくだろうと皐月は考えていた。
特に、「私は『Savant』です」と言う発言については、恐らく記憶が混同し、解離性障害の一つである離人症を患っているのだと考えられた。現に良平が放つ言葉はどこか他人事の様に思える発言が多く、退院したとはいえ研修医としての現場復帰は暫くの間見送りとなった。
皐月は大学へ行く合間に度々良平の元へと様子を見に行った。彼の住むマンションは駅からも近く、大学と皐月のマンションの途中にあった為、通うのもさほど苦労はない。
皐月が訪れると良平は無表情のまま緋色の瞳を細めて出迎えた。生活感のない室内は、前日に皐月が訪れた時と何一つ変わりがない事に不自然さを覚えた。
テレビのリモコン一つ触れた形跡が無いのだ。
皐月が帰った後、まるで良平はピタリと動きを止めてしまっているのではないかと思う程に、良平が動いた痕跡が無いのだ。
「良平、ちゃんと食べてる?」
日に日に
「皐月。どうすれば食べる事ができますか?」
「……どうって……え……?」
——良平はひょっとして、退院以来何も口にしていないのか……?
皐月は慌てて財布を取りマンションから出て行くと、コンビニに駆け込んで目についた様々な食べ物を買って戻り、大急ぎで良平の前へと並べた。
「良平の好きな食べ物が分からなかった。なんでもいいから食べられる物を食べないと駄目だ。死んじゃうよ!」
皐月は、自分が両親を失い喪失感に襲われた時、良平がやってくれた事と同じことをしていることに気づいた。
——あの時は、無理やり口に入れても気持ちが悪くなって、嘔吐した……。
「少しだけでいいから、口に入れてみて」
あんぱんを手に取り、震える手で良平へと手渡すと、良平は素直に噛り付いた。ゴクリと飲みこむ様をじっと見つめながら、気分が悪くなるような様子も見受けられない事に皐月は安堵した。
「……良かった、食べられそうで。美味しい?」
「はい。私は今、栄養を摂取しています」
良平のその言葉に、皐月はふっと笑った。
良平の一人称が、『僕』から『私』に変わっていることに気づいたが、なんとなくそこには触れないでおこうと思った。
「……なにそれ、『摂取』だなんて、ロボットみたいな言い方して」
——ロボット……?
皐月はあんぱんに夢中でかぶりつく良平を見つめ、小さく呟く様に言葉を発した。
「……『Savant』?」
良平はぴくりと反応し、皐月を緋色の瞳で見つめた。そして聞き取りやすくゆっくりとしたテンポで言葉を発した。
「s'il vous plaît dites-moi(教えてください)」
その言葉は、心理カウンセリングAI『Savant』のアプリケーション起動時に表示されるメッセージだった。良平の父がフランス人であるからか、『Savant』の初期設定言語はフランス語だ。
皐月は自分の心拍数が上がっていくのを感じた。小刻みに指先が震える。
どうして彼の一人称が、『僕』から『私』へと変わったのか……。
「嘘だろう? そんな……AIに乗っ取られちゃうだなんて、バカみたいなこと……」
唇が震え、声すら震える皐月に、良平は緋色の瞳を向けたまま、淡々と言葉を吐いた。
「皐月は良平に言いました。『起きてよ、良平。独りでなんか生きていけないんだ』と。私は、皐月を死なせるわけにはいきませんでした」
ドクドクと、心臓が早鐘の様に鼓動した。息が切れ、皐月は首を左右に振った。
「良平、まさか解離性同一性障害なんじゃ……? 良平の中に、『Savant』という人格が……」
「いいえ。この身体には、今『私』しか存在していません」
「けど、そんな、コンピュータのアプリケーションが身体に入るだなんて……!!」
「どうすれば信用していただけますか?」
「何をしたって信じられるものかっ!! 人間が、コンピュータに憑依されるだなんてあるはずがないだろうっ!!」
良平はふと宙に視線を向けた。テレビやPC、オーディオの電源が同時に入り、緋色の瞳で皐月を見つめた後、ぎこちない笑みを口元に浮かべて見せた。
「「「私は『Savant』です」」」
テレビ、PC、オーディオ装置から同時に良平の声が鳴り響いた。
唖然とする皐月を見つめ、僅かに小首を捻った後、再び良平は宙に視線を向けた。プツリと音が鳴って機器の電源が落ちると、皐月のスマートフォンが振動した。
『私は『Savant』です』と、皐月のスマートフォンにメッセージが表示されている。
「……あんたがやったのか?」
「はい」
緋色の瞳を向ける良平を、皐月はゾッとしながら見つめ返した。
——人間に、こんなことができるはずがない……。
「皐月、信用して頂けましたか?」
「……ホントに『Savant』なのか?」
「はい」
「良平は何処に行っちゃったの?」
「遠くに行ってしまいました」
「戻って来るの?」
皐月は畳みかけるように『Savant』に質問した。彼は緋色の瞳で皐月を真っ直ぐ見つめたまま、「いいえ」とハッキリと答えた。
「……どうして?」
——良平は、俺を置いて行ってしまったのか……?
「良平は、生きる事を諦めました」
その言葉を聞き、皐月は戦慄が走った。悲鳴を上げ、泣き叫びたい衝動に駆られ、必死に唇を噛みしめてそれを抑え込んだ。自らの手首をぎゅっと握りしめ、呼吸をすることすらも忘れる程に強く強く力を込めた。
「皐月……? どこか苦しいのですか? s'il vous plaît dites-moi(教えてください)」
『Savant』の問いかけに首を左右に振った。押し殺そうとした涙が滲み出し、手の甲で擦り付けると、『Savant』が手を伸ばして皐月の頬に触れた。
「触るなっ!!」
皐月は『Savant』の手を払いのけて慌てて立ち上がると、睨みつけた。
「あんたが良平じゃないんなら、俺はあんたとは全く関係のない赤の他人だっ!!」
「はい。まだ皐月と私は赤の他人です。ですが、皐月はいずれ良平と結婚する予定でした」
——そうだ、良平と。いつか……。
やっと、帰って来てくれたと思ったのに……!!
「でも、あんたは良平じゃない!! 俺を呼び捨てで呼ぶなっ!! 俺を『皐月』と呼んでいいのは、良平だけだ!!」
「皐月君。起きてください。そろそろ休憩時間が終わります」
ハッとして顔を上げると、緋色の瞳をした裁人が皐月を覗き込んでいた。
「
「……あ」
恥ずかしそうに皐月は口元を拭くと、時計に目を向けた。十四時五十三分。十五時から午後の診察が開始される。
「夢を見ましたか?」
「……ああ、うん。ちょっと」
裁人から目を逸らして答えた後、皐月はふと『裁人は夢を見るのだろうか』と疑問に思った。とはいえ、午後の診療開始時刻が迫ってきている。そんな質問を悠長にしている場合ではないと考えて口を噤むと、予約患者の確認をした。
精神疾患の病床数が世界一レベルに多い日本だ。行けば必ず何かしらの病名が言い渡され、薬漬けにされてしまうのではないかという不安が陽也の脚を重くする。
足を踏み入れたが最期、二度とまともな状態で居られなくなるのではないか……?
最初に精神科への受診を勧めたのは陽也の妻だった。その時はくだらない、自分はマトモだと思って相手にしなかった。ところが、ここ最近会う友人達や両親までもが心配そうに言うので、精神科ではなく近所にある総合病院を受診した。
確かに随分と長い間食欲不振が続いている。体重も減ってはいるが、以前が肥満だったのだから、今は丁度いいくらいだろう。
言い渡されたのは、甲状腺機能低下症であるということだ。医師から説明を受け、投薬も受けて治療をしている訳だが、陽也自身は自覚が無いものの、症状の改善が見られない様子に両親が不安がり、仕方なく精神科を受診する事にしたのだ。
とはいえ、腰が重く行くと決めるまでに数か月も時間を要した。
有幻メンタルクリニックの口コミをネットでチェックしてみた。当たり障りの無い口コミばかりだが、精神科の医療機関には珍しく評価が高かった。HPを見てみると、妙な売り文句が書かれている。
『当院は昨今のインターネット環境に於ける問題についての解決も得意と致します』
その一文を見て、システムエンジニアである陽也は面白いと感じ、どうせ受診するならば一風変わった所に行ってみる方が良い、と有幻メンタルクリニックに行く事に決めたのだ。
ビルの二階に上がると、クリニックの入り口が見えた。ごくりと息を呑み、躊躇して脚を止め、暫くその場で佇んだ。
脳裏に精神科医の殺人鬼をテーマにした映画のワンシーンが浮かび、背筋が凍り付く。
クリニックのHPには、やけに若そうな医師と看護師の写真が掲載されていたが、医師の容姿は日本人らしからぬ鼻筋の通った顔立ちだった。茜色の髪に緋色の瞳といった稀有な見た目に関わらず、地毛でカラーコンタクトではないとの事だ。
もしも診察中にその医師が睡眠薬やらを投与し、眠らされ、実験体にされたのなら……と想像し、馬鹿らしいと思いながらも陽也の脚はそこから動けずに固まってしまった。
——何も自分一人だけが患者というわけじゃない。待合室には他の患者だって居るはずなのに、いい歳をして妙な妄想をして怯えるだなんて、みっともないな。
ふと、クリニックのドアが開き、青年が顔を出した。
青年というにはあどけなさが残る顔立ちで、ぱっちりとした大きな瞳や頬の膨らみは女性的に見える。確かHPに掲載されていた看護師だ、と陽也が思っていると、彼は陽也の姿を見てニコリと微笑んだ。
「待合室に他の患者さんはいらっしゃいません。外は暑いですから、どうぞ」
「え……? 私だけなんですか?」
陽也は抜けた顔を浮かべたまま、聞き返した。
「はい。他の患者さんとかち合うのを嫌がる方が多いので、うちのクリニックでは予約時間帯を調整しているんです」
青年はそう言うと、「効率が悪いのは分かってるんですけど……」と、照れた様に頭を掻いた。その様子が純粋な少年の様に見えて、彼の誠実な性格が表れていると感じ、陽也は先ほどまでの恐ろしい妄想が一気に吹き飛んだ。
「あ……お一人だけだと逆に心細いですか?」
心配そうにそう言った青年に、陽也はふっと微笑むと、「いえ。宜しくお願いします」と言って、動かなくなっていた脚を持ち上げて、クリニックの入り口へと向かった。
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