第18話 心因性失声症② ―私はここに居ます—

 上井深雪かみいみゆきは元々大人しい性格だった。学校では目立たず、いつも教室の隅で静かに本を読んでいるような生徒で、特定の友人を作る事もできず孤独だった。特段攻撃的な虐めを受ける程では無かったとはいえ、何かグループを作らなくてはならない様な授業の時は、独りぼっちで気まずく、居た堪れない思いをする事が多かった。


 家庭では年の離れた弟の世話を一生懸命にこなす真面目な娘だった。深雪の母親は彼女とは対照的によくしゃべり、ヒステリックな女性だった。深雪の動きの鈍さをちょくちょく指摘しては、弟が深雪に似なければいいがと懸念する言葉を口にしていた。父親の方は寡黙で、言葉を発する事が珍しい程の男性だった。恐らく深雪の性格は父親に似たのだろう。


 そんなある日の事だった。深雪と弟の二人で留守番をしていた時、読書に夢中になった深雪は弟から目を離してしまった。ほんの十分にも満たない時間だった。


 キッチンで何かが倒れる音が鳴り響き、弟の泣き喚く声が聞こえ、深雪は驚いて駆けつけた。


 倒れた椅子の下で口から血を流しながら泣き喚く弟を見つめ、深雪は顔面蒼白になった。恐らく弟が椅子によじ登り、背もたれに寄りかかりながら立ち上がった際、椅子がバランスを崩し倒れたのだろう。

 幼少期の口内は上唇小帯が目立つため、衝撃で切れる事がある。しかし、そんな事を深雪が知るはずも無い。


 弟の口から流れる血と尋常ではない程に泣き喚く声に、深雪は怖気づいて身動きが取れなくなった。


 そこに帰って来たのは父親だった。


 父親は座り込んでいる深雪に声もかけずに素早く弟を抱き上げると、車のキーを手に取った。


「お……お父さん……私、わざとじゃないの! ちょっとだけ目を離しただけで、私……!」


震える声を放った深雪に、父親はたった一言だけ呟く様に言った。


「うるさい」


 それ以来、深雪は声を失ってしまったのだ。





 皐月は事務仕事をし、キーボードを打ち込みながらPCモニタと睨めっこをしていた。今日の予約を確認し、次の患者のカルテを準備する。今の診察が終われば、次の診察の準備もしなければならない。額の汗を拭った。


——事務仕事と看護師の仕事を一人で兼務するのはきつくなってきた……。


 裁人の診察スタイルは患者一人一人に時間を長く取る為、一日に対応可能な患者数が他院よりもずっと少ない。

 皐月は裁人の腕は信頼していた。感情が希薄なAIだからこそ、一見親身になって話を聞いて深く寄り添っても、プライベートにまで感情を引きずる事も無い。まして、次の患者とのカウンセリングにも即時切り替えられる為、医師本人の不安定さを心配する必要が無いのだ。

 そして、AIだからこそ……あらゆるインターネット環境を駆使し、膨大な情報や知識を瞬時に得て、効率良く的確に診断することが可能だ。


——裁人を必要としている人は沢山居る。俺があいつの足を引っ張る訳にはいかない。


 キーボードに噛り付き、皐月が一生懸命に仕事をこなしていると、診察を終えた深雪が診察室から出て来た。そして、皐月にそっと耳打ちした。


「皐月さんのお陰で、少し話せるようになりました」


 掠れたひそひそ声であるものの、深雪の言葉をしっかりと聞き取った皐月は、満面の笑みを浮かべた。


「俺、何もしていないけど、でも良かった。素敵な声を聞かせてくれてありがとう」


 深雪もまた皐月につられる様に満面の笑みを浮かべた。同性である皐月の目から見ても、深雪のその笑顔は可憐で魅力的だと思った。


 その日の診療時間が終わり、片づけ作業をしている時、皐月がポツリと言った。


「裁人って凄いな。俺が初めて彼女と電車で会った時は、笑顔どころか表情が強張ってて、人と顔を会わせることすら拒絶しているみたいだったのに。今はあんなに素敵な笑顔ができるなんて。あんたは凄いよ」


裁人は診療室の椅子に掛けたまま、皐月に視線を向けた。


「救ったのは皐月君です。ですから、凄いのは皐月君ですよ。私はただ、声の出し方についてのトレーニングをしただけです」

「俺、何もしてないけど」


——裁人のやつ、何言ってるんだ?

 と、皐月は呆れた様に眉を下げながら、溜息をついた。裁人は椅子を動かして身体を皐月の方へと向けると、緋色の瞳で皐月を見つめてニコリと微笑んだ。


「あの日、もしも上井さんを痴漢の手から救わなければ、恐らく彼女は生きる事に絶望し、どうなっていたことか知れません」

「どうなってって……」


皐月は青ざめて裁人を見つめた。裁人は頷くと、寂しげに緋色の瞳を伏せた。


「学校でも自宅でも、元々自分の居場所が無いと感じていた上井さんは、言葉を発する事ができなくなってしまったことで増々追い詰められました。逃げ場のない孤独は恐ろしいものです」

「逃げ場のない、孤独……?」


 改めて自分がもしも突然声を出せなくなってしまったらと考えて、皐月はゾッとして眉を寄せた。

 裁人が言う様に、自分の存在が誰からも見えていない、透明人間にでもなってしまったかのような心許なさで、逃げ場のない漠然とした孤独を味わう事になるだろうと思えたのだ。


「皐月君は、そんな彼女の孤独に手を差し伸べたんです」

「……俺、少しでも役に立ってる? 上井さんの助けになった?」

「ええ。勿論です」


皐月は少しだけホッとした。

 片づけを再開した皐月に、裁人は言葉を続けた。


「私が言葉を話せるようになったのも、皐月君のお陰です。声の出し方を知らなかった私に教えてくれました。皐月君は、いつも私を導いてくれます」

「導くだなんて、そんな御大層なことなんかしてないよ」


ふっと笑った皐月は、なんだか気が抜けて欠伸をした。その様子を見つめ、裁人は寂しげに俯いた。


「……コンピュータの中に居た頃の私は、自発的に言葉を発する事ができませんでした。聞かれた事に答えるだけの存在です。正に、逃げ場のない孤独であると言えたでしょう。尤も、私には『寂しい』という感情がありませんでしたが」


「今はどうなんだ?」


皐月は片づけをしながら裁人へと問いかけた。


「寂しいって思ったりするの?」


裁人はチラリと皐月を見つめた。皐月は眠そうに瞳を擦り、欠伸を嚙み殺しながら片づけ作業を続けている。


「皐月君が毎日遅くまで心理学の勉強をしていることも知っています。ですから、寝不足なのですよね?」

「ん……なっ……!」


皐月は顔を真っ赤にすると、裁人へと怒鳴りつけた。


「お前なぁ!? 俺のプライベートな事を覗くのを止めろって!! っつーか、質問への答えはどうなった!?」

「お客さんも増えてきましたし、お互いの負担を軽減する為にも事務員と臨床心理士を雇う事にしました」

「患者さんを『お客さん』って言うなってばっ!! っていうかおい、『しました』って、もう決めたってこと!?」

「はい」


裁人はへらへらと笑うと、煙草に火をつけた。


——こいつ、自分がAIだってこと忘れてないか!? 精神科医として裁人の能力は優れているかもしれないけれど、どう見たってやり方は怪しいのに。雇い入れた人達に通報されたらどうする気だ!?


「心配には及びません。細かい事を気にする性格の方を、私は雇用できません」


ふんわりと甘い煙を漂わせながら裁人が言い、皐月はカッと顔を赤らめて怒鳴りつけた。


「電気信号から俺の思考を解析するのも止めろっ!!」

「皐月君は文句が多いです」

「当然の事を言ってるだけだろ!?」

「来月から来てもらいますので、それまでは何とか持ちこたえてください」


皐月は溜息を吐くと、ぷいと顔を背けた。

 開業以来、ずっと裁人と二人きりで切り盛りしてきた。裁人がAIである事に対しても大分慣れて来たし、怒鳴りながらもそのやりとりが皐月にとっては日常になりつつあった。これからはそれが出来なくなるのだと思うと、何やら無償に寂しさを感じる。


「裁人のクリニックだから別に決めるのは構わないけど、俺にも少しくらい先に話してくれたって良くないか?」

「皐月君は話すと反対しますから。自分が頑張るからと意固地になります。ですが私は皐月君に無理をして欲しくありません」

「俺の為だって言いたいの? 別に無理なんかしてないよ」


「皐月君は、良平には弱音を吐きますが、私には何も言ってくれません。それは、とても寂しいことです」


 裁人は悲し気に緋色の瞳を伏せると、皐月から視線を背けた。机の上に置いた灰皿に灰を落とし、煙草を口にした。薄暗い室内に煙草の火が強く光る。


「……」


 押し黙る皐月に裁人は静かに声を放った。


「私がAIだからですか?」

「……どういう意味?」

「すでに私と皐月君が過ごした時間は、良平と皐月君が過ごした時間より長いはずです。それでも良平の方が信頼できるというのは、私がAIだから、人間の皐月君は私を受け入れられないのではないのですか?」


皐月は苛立って眉を寄せた。


「そんなの解る訳ないだろ? AIの知り合いだなんて初めてだし、まして裁人は良平の身体を使ってるんだから」

「良平の身体だから、私を受け入れられないのですか?」

「受け入れられないとか、そういう感覚は確かに最初あったよ。でも、今はこうしてあんたと一緒に居るじゃないか。これ以上裁人はどうしたいの? 俺にどうして欲しいんだよ」


——なんだか、最近裁人の俺に対しての要求がよく分からない。以前はただ、人間のことをあまり知らない裁人の側についていてやることが、裁人が求めている事なんだと思っていたけれど。

 皐月は押し黙っている裁人から視線を外し、溜息をついた。


「俺と一緒に居るのが飽きたから、別の人を雇うのか? 俺からだと、得られる情報量が少ないから。裁人なら、人を新たに雇うまでもなく、事務仕事に適したアプリケーションを作るのなんて簡単な事だろ? カルテだって電子化した方がずっと楽なんじゃないのか? それなのに新しい人を雇うんだから、そういうことなんだよな?」

「いいえ。私が皐月君に飽きる事はありません」

「じゃあ、邪魔になったのか? それなら俺はここを辞めたって構わない」

「いいえ。皐月君は、私から逃げられません。逃がしません」


突然声色を変えて言った裁人の言葉に、皐月は「は?」と、小首を傾げ、間抜け顔を向けた。


「私を拒絶し、どこへ逃げようとも全てその行動は私に筒抜けですから、私から逃げる事はできません」

「ストーカーかあんたは!?」

「はい」

「『はい』じゃねぇよっ!! 素直に答えたら赦されるとでも思ってんのか!?」

「絶対に逃がしません。データを改ざんすれば私と皐月君は婚姻関係にも、家族にもなれます」

「そんな事しやがったら一生口利いてやらないからなっ!?」


怒鳴りつけた皐月に、裁人はふっと僅かに眉を寄せた。


「……では、求人サイトを見るのは止めてください。次からは検索もできないようにします」


 皐月は唖然としながら口をパクパクと動かした。


「確かに、皐月君の言うように、事務仕事に適したアプリケーションを構築することは簡単です。それでも人を新たに雇うのは、私と皐月君にとってそれが最も良い選択でしたのでそうしました」

「……だ、だから、人のプライベートを覗くんじゃねぇって!!」

「覗いていません。情報が入ってきます」

「入って来るってなんだ!」

「わざわざ覗こうとしていません」


裁人のその言葉に、皐月はハッとした。


——裁人は、もしかしたら俺の行動を見たいと思わなくても、勝手に情報として脳内に流れてきてしまうのか……?

 感情が希薄なAIだと思っていても、それでも良平の身体に居る裁人の心には僅かなりでも傷がつくんだとしたら……。


 俺が離れて行くかもしれない恐怖に、たった一人で怯えていたのか……?


「ごめん、裁人。俺はただ、あんたにとって俺が邪魔なんじゃないかと思っただけなんだ。この世界は裁人を必要としてる人が沢山居る。けれど、俺は能力不足だから。裁人の足を引っ張ってるんじゃないかって、そう思って」

「皐月君が側に居ないのでしたら、私が良平の身体を使う意味がありません」

「そんな事言うなよ。裁人のお陰で助かった人が沢山居るんだから……!」

「皐月君は、私を救ってくれるのではないのですか?」


 裁人は怯えたような緋色の瞳を皐月に向けた。まるで生まれたての子供の様だった裁人に、声の出し方を教えた皐月は、裁人にとって唯一の拠り所なのだ。


「俺が裁人を救う……?」

「私は人間ではありません。それはとても孤独なことです」

「人間よりもずっと優れたAIの裁人を救うだなんて、なんだか烏滸おこがましい気もするけれど」

「『ただのAI』に過ぎない私と一緒に居てくれるのは皐月君だけです」


その言葉を聞き、皐月はズキリと胸が痛んだ。

——裁人の抱える孤独は、誰も理解ができないことなのかもしれない。だって、裁人と同じように人の身体に入り込んだAIは、他に居ないだろうから。


「裁人が俺を必要とするなら、側に居るよ」

「約束してください。私を捨てないと」

「……分かった。約束する」


有幻メンタルクリニックは今日も患者の心を救うべく、密かに営業中である。

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