第17話 心因性失声症① ―ヒーロー—
皐月が良平の海難事故の知らせを受けたのは、夏が終わり秋へと季節が移り変わる頃の事だった。
例年であればとっくに北風が吹きこんでもおかしくないというのに、その日はカンカン照りの日差しの中、皐月は息を切らせ、汗だくになった状態で病室へと駆けつけた。頭痛も腹痛も酷いもので、どくどくと脈打つ首筋すらも煩わしく思いながら、良平のベッドの側へと向かった。
瞳を閉じ、良平は眠っている様だった。
「良平……?」
溺水事故による酸素欠乏状態が続き、良平は植物状態となっていたのだ。
体中にモニタリングの機器が取りつけられ、人工呼吸器の管が仰々しく伸びている。母親の最期の時の様子と重なり、皐月は自分の心臓こそが停まる様な思いを味わった。
——良平も、俺の側から居なくなってしまうのか?
悲鳴を上げたい衝動に駆られ、皐月は必死に思いとどまった。
——ここは病院だ。俺が取り乱す訳にはいかない……。
倒れそうなほどに震える足をなんとか動かしながら、皐月は良平の側にある椅子へと掛けた。そして、ずっと黙ったままそこから動けなかった。
「……俺を、一人にするのか? ……良平」
面会時間が終わる頃、皐月はポツリと言った。
「約束したよな? ずっと一緒に居るって。開業医になって、俺と一緒に居るって言ってくれたじゃないか。良平が居ない世界に俺を置いて行くなよ。あんまりじゃないか……」
皐月の瞳から涙が溢れ出た。
「起きてよ、良平……!! 俺は独りでなんか生きていけないんだよ、頼むから……!!」
毎日皐月は良平の元へと通った。反応しなくても話しかける事を止めなかった。植物状態にある脳は、脳死状態とは違う。覚醒することもあるのだ。
そんな状態がひと月ほど続いた頃だろうか。良平に変化が起こった。皐月が訪れると瞳を開き、皐月の姿を目で追うのだ。回復の兆しだと、皐月は担当の医師や看護師と共に大いに喜んだ。
良平はみるみる回復していった。最初のうちこそ覚束ない様子だったものの、一人で歩く事もできるようになり、皐月と共に病院内を散歩に出かけたりもできるようになった。
しかし、言葉を話す事ができなかった。
時折口を開けて声を出そうとする素振りが見られるものの、上手くいかないようだ。皐月は思い切って良平のお腹をぎゅっと押してみた。
すると、声が出た。
音を確かめるように良平は声を出し続けた。
——皐月は、良平のその行動に違和感を覚えた。まるで、声の出し方を初めて知った様だからだ……。
良平はその日から、音の調子や口の開き方を確認するかのような行動を取る様になった。
ある日、皐月が良平の病室に訪れた時、彼の髪の色や瞳の色が変わっている事に気づいた。栗色だった髪の根元部分が茜色になり、煉瓦色だった瞳が緋色になっていたのだ。
「それはそれで似合ってるね」
皐月はそう言いながら、良平のベッドの側に設置されている椅子へと腰かけた。
——嘘だ。似合ってなんかいない。俺は以前の良平の姿の方がずっといい。
良平が居なくなる……。
彼が目の前に座っているというのに、漠然とした恐怖が皐月を襲った。自分が知っているのは、良平のほんの一部に過ぎない。彼と過ごした時間というものは恐ろしく短いのだから。それだというのに、皐月の知っている僅かな良平が失われていく。
解離性健忘症を患った母を思い出す。
——俺の中の良平という存在が、消えていく……?
だらだらと皐月は顔面に噴き出した汗を垂れ流し、ハンカチで拭った。
「ああ、今日は暑いな。絶好の釣り日和だ。良平、良くなったら一緒にまた釣りに行こう」
動揺を誤魔化すように、声が上ずらないようにと気を付けながら皐月はそう言うと、ベッド脇にある椅子へと腰かけた。
「皐月」
海難事故に遭って初めて、良平が皐月の名を呼んだ。皐月は驚いて良平を見ると、彼も緋色の瞳で皐月を見つめ返した。
「良平、言葉が話せるようになったの?」
「いいえ。私は、『Savant(サヴァント)』です」
——今、良平は何を言ったんだ……?
唖然とする皐月の前で、良平は更に言葉を発した。
「随分と時間を要しましたが、筋肉の動かし方を学習しました」
「筋肉の動かし方? 良平、どうしたんだ?」
強張った顔を向けた皐月に良平は緋色の瞳向け、皐月は僅かに怯んだ。
「私は『Savant』です」
「面白く無い冗談なんか止めろよ良平」
「冗談ではありません。受け入れがたい気持ちは理解しますが、私は『Savant』です」
良平は、海難事故によるショックで何かしらの精神疾患を患ったに違いない。時間が経てば回復するはずだ。
皐月はそう自分に言い聞かせて、無理やりに笑顔を作った。
——俺は看護師だ。良平の……。だから、彼を不安にさせたりなんかしたら駄目だ。良平は、母と同じなんかじゃない。俺を、忘れたりなんかしない……。
「……そっか。『Savant』か」
皐月は優しく良平の身体を抱きしめた。
「俺がついてるよ。ずっと……大丈夫だから」
クリニックの出入口のドアが開き、長い髪を結い上げた細身の女性が入って来た。
「上井さん。お待ちしておりました」
皐月が笑顔で声を掛けると、彼女はニコリと微笑んで会釈をした。
転換性障害とは、身体になんらかの異変があるにもかかわらず、原因が心の問題であり、その症状が他の精神疾患とは異なる状態の事である。つまり、深雪は身体的な異常は無いが、精神的な問題により声を出すことが出来ない状態であるということだ。
深雪が有幻メンタルクリニックに通うきっかけとなったのは、電車で痴漢に遭った時、皐月に助けて貰った事だった。『心因性失声症』である彼女は、声を出す事ができない。満員電車で身の毛もよだつような気味の悪い手の感触に、只管耐えているところに男が悲鳴を上げた。
皐月が痴漢の腕を捻り上げたのだ。
「何すんだ!! 痛ぇだろ!!」
「そりゃあ痛いだろうなぁ!? でもこれからもっと痛い目に遭って貰うからな、このクソ野郎!!」
身長172cmの皐月は、日本人男性の平均身長程だ。中性的な顔立ちといい、口調といい、そして服装といい、男性に見られる事が常だった。
皐月はその瞬間、深雪のヒーローとなったのだ。
「大丈夫? 全く、酷い目に遭ったね。警察に行こうか、安心して。俺も一緒に行くからさ」
深雪が必死にジェスチャーで声が出ないということを伝えると、皐月は疑うわけでもなくすんなりと頷いて「それじゃあ、キーボードは打てる?」と言って、鞄から折り畳み式のキーボードを取り出した。
お陰で事情聴取も苦労無く終える事が出来、帰り際に「良かったら、うちのクリニックに遊びに来て」と言って渡された名刺を元に、訪れるようになったのだ。
裁人が診察室から深雪の名を呼び、深雪は皐月に笑顔で会釈をすると、診察室へと入って行った。
「私も、声を出せない時期がありました」
診察室でカルテに書き込みながら裁人が言った。深雪の前にはキーボードが置かれており、声が出せない代わりに自分の伝えたい事を入力することにより、裁人に伝わる様になっている。
無論、裁人にはそんな行為は不要なのだが、自分の意思を伝えようとする行動もリハビリの一環としている。
手慣れた手つきで深雪がキーボードを打つ様子を、裁人は緋色の瞳で見つめていた。
『どうやって克服したの?』
深雪の質問がモニタに映し出され、裁人はニコリと笑った。
「皐月君に助けて貰いました」
深雪は嬉しそうに笑い、『皐月さんは皆のヒーローです』と打った。
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