第16話 蕁麻疹
日課となっている朝のトレーニングを終え、シャワーを浴びると、裁人はクローゼットからデニムとTシャツを取り出した。
今日は休診の日だ。良平が好んでいたスリムストレートタイプのブラックジーンズに、焦げ茶色のベルトを締め、白いVネックのTシャツに袖を通すと、少々肩のあたりが
姿見で見てみると、盛り上がった筋肉の形が分かる。裁人は「あ……」と小さく呟いて、宙を見つめた。
裁人の脳内に電子音が響く。
『……何?』
不機嫌そうに皐月が応答する声が聞こえた。裁人は電話を掛ける為に機器を必要としない。
「皐月君。買い物に行きましょう」
『はぁ!? 朝っぱらから変な電話してくるなよ! 今日は休診日だろう? 俺の都合ってものはどこ行った?』
「どうせ日がな一日ごろごろしているだけじゃないですか」
『俺が何してようと勝手だろ!?』
「肩回りの筋肉が大きくなったので、大きいサイズのTシャツを買わなければなりません。仕事で着るYシャツも一緒に購入しておきたいです」
『ああ、服が小さくなったってこと?』
「いえ、服が小さくなったのではなく、私が大きくなりました」
『だろうなぁ!? いいか、裁人。俺は休みの日は昼まで寝るって決めてるんだっ!』
「では、十四時に皐月君の自宅に車で迎えに行きます」
『いやいやいや、来なくていいよっ! 一人で行けばいいだろ!?』
「皐月君が好む服装を選ぶ為の知識が私にはありません」
『どうでもいいよっ!!』
ブツッ!! と、電話を切る音がした。
裁人は再び宙を見つめ、皐月に電話を掛けた。
『うるせぇよ!! クソAIっ!!』
皐月はテーブルに肩肘をつき、ストローでアイスコーヒーを
「相変わらず強引だなぁ、あんたは……」
裁人はへらへらと笑いながら皐月を見つめると、「そう言いながらも来てくれる皐月君は、ひょっとして私に好意を……」と言ったので、「ねえよっ!」と皐月はすかさず怒鳴りつけて言葉を打ち消した。
裁人はふと宙に視線を向けた。またインターネットにアクセスしているのだろうと皐月は察すると、ふあっと欠伸をした。
今朝早くに裁人にたたき起こされた為、どうにも眠気が消えない。
「皐月君、近くでお祭りがあるそうです」
その言葉に皐月はドキリとした。ふと目を逸らし、「……ふーん」と興味無さげに声を洩らすと、裁人は緋色の瞳をキラキラと輝かせた。
「行きましょう」
「行かねぇよっ」
「しかし残念です。皐月君の浴衣姿が見たかったです」
裁人のその言葉に、皐月は怯んだように言葉を飲み込んだ。
——皐月の脳裏に良平と行った夏祭りの思い出が浮かび上がった。
釣りに行く時と変わらない恰好で待ち合わせ場所で待つ皐月の元に、良平はカラコロと下駄の音を響かせながら、浴衣姿で現れた。
良平はなかなかの高身長だ。それだというのにくるぶしより少し上程度の、丁度いい丈の長さであるということは、仕立てた浴衣であるに違いない。濃い灰色のしじらの浴衣で、帯を腰骨に締めて、なかなかに粋だ。
「良平がその恰好だと、俺が浮いちゃうじゃないか……」
恥ずかし気に言った皐月に、良平はふっと微笑んだ。いつもはさらりと
「似合ってるかい?」
煉瓦色の瞳を細めて茶化した様に言った良平に、皐月はため息を吐きながら肩を竦めてみせた。
「ああ、かなりね。日本人みたいだ」
「なにそれ。僕の国籍は日本なんだけれどなぁ。カッコイイとか素敵とか、素直に言えないの?」
「俺は奥ゆかしい日本人だから、そういうことを口にはしないんだ」
良平は吹き出した様に笑うと、「さ、行こうか!」と言って、皐月の腰に手を回した。
「ちょ……良平、暑い」
「いいじゃないか、偶にはいちゃついたってバチは当たらない」
「人前でこういうのは……」
「誰も見てやしないさ」
——いや、視線が刺さるんだけど!?
ただでさえ良平は高身長で洋風な顔つきである為良く目立つ。そこへきて一見男性に見える皐月とベタベタとくっついては、目立つどころの騒ぎではない。男性同士のカップルだと思われるのも必至だ。
「こんなことなら女の服を着て来た方がずっとマシだった……」
「へぇ? 皐月の浴衣姿か、似合いそうだね。見てみたいなぁ」
「浴衣を着るなんて言ってないけど!?」
「え? そうなのかい? なんだ、残念」
良平はそう言うと、皐月の頭にキスをした。
「ちょ!?」
「無理に合わせようとしなくたって平気さ。周りの目を気にする必要だってない。勿論、皐月が僕の為にお洒落しようっていうなら感激だけれどね。けれど僕は皐月に何も無理強いなんてする気はないよ」
「皐月君」
裁人に声を掛けられて、皐月はハッとして顔を上げた。
緋色の瞳で裁人は皐月を見つめ、寂しげに微笑んだ。
「良平の事を考えていましたか?」
「あ……うん、ちょっとね。思い出してた」
気まずそうにそう言った後、皐月はアイスコーヒーのストローを指先で転がした。グラスの中の氷は溶けて無くなっており、コースターは水滴で濡れていた。
「いいよ。お祭り。一緒に行っても……」
皐月がそう言うと、裁人は緋色の瞳を見開き、少年の様にキラキラと輝かせた。
こういう時、裁人が可愛いと思ってしまうあたり、どうにも複雑な気分だと皐月は思った。
買い物した品々を一度車に置きに行った後、二人は歩いて祭りが開催されている神社へと向かった。日が暮れ始め、裁人の髪の様に鮮やかな茜色の空が広がっている。ふんわりと裁人から香るベルガモットの香りに、皐月はぷっと噴き出して笑った。
「……オレンジ人間」
「ベルガモットの香りにはリラックス効果があるそうです」
「知ってるけど、なんか笑える」
「どうしてですか?」
きょとんとした様子の裁人に、皐月は白けて目を逸らした。
——
太鼓の音が聞こえてくる方向へと歩いて行くと、
「皐月君、私と一緒に居るのに他の男性を見ないでください。失礼です」
「どういう意味だよっ!?」
「あ、あれは何ですか?」
裁人が出店の一つを指さして言った。水を張ったループ状のプールに色とりどりのスーパーボールが浮いている。
「スーパーボールすくいだよ」
「何故水に浮かせる必要があるのですか?」
「……楽しいから?」
「何故楽しいのですか?」
「知らん!」
——しまった! AIの裁人にとって縁日の出店程に非合理的で不可解なものなんか無いかも!!
「皐月君、あれは何ですか?」
「金魚すくい」
「何故……」
「知らん!!」
裁人の質問が来る前に皐月は遮る様に言うと、裁人の手を引いて神社の境内に続く階段へと向かった。
「まずはお参りに行こう」
「何故……」
「いいからっ!!」
裁人の手を引きながら、縁日の出店に目もくれず皐月はずんずんと境内を歩くと、拝殿の前でピシリと姿勢を正した。
「裁人、二礼二拍手一礼だよ。理由は聞かないで」
裁人は怪訝な顔をしたが、黙って皐月の見様見真似で参拝を済ませた。周囲はお祭りで騒がしいというのに、不思議と手を叩く音が澄んで耳に響いた。
良平と縁日に来た時も、二人で神社に参拝した。
あの時は何をお願いしただろうか……。忘れてしまったけれど、今は。
——奇跡か何かが起こって、良平が帰って来たらいいのに……。
皐月が振り返ると、裁人が手を差し伸べた。
日が落ちて薄暗くなり始めた境内で裁人を見つめ、皐月は僅かに困惑した。
——良平……?
「皐月君、私はあの銃で撃つゲームがやってみたいです」
——裁人の話し方だ。
「早く行きましょう。景品が無くなってしまいます」
「……無くならないよ。ああいうのは取れないようにできてるんだ」
「皐月君、それは立派な詐欺です」
皐月は苦笑いを浮かべると、「裁人、イチゴ飴食べよう」と、裁人の手を引っ張った。
二人は境内の隅でイチゴ飴を食べながら、賑わう様子を眺めた。
太鼓の音が鳴り響く夕闇の中、眩い程の出店の灯りが軒を連ね、呼び込みの声や子供達のはしゃぐ声、射的のコルク銃の音が混じり合い、その辺り一帯が不思議な雰囲気に包まれている。
イチゴ飴を食べ終えると、裁人は「帰りましょうか」と、皐月の手を取った。いつの間にか裁人と手を繋ぐ事に抵抗が無くなっているなと皐月は思ったが、今日はお祭りだしいいか、と何も言わずに歩いた。
「私には理解できない世界でした……まだまだ人間の勉強が不足しているようです」
歩きながら裁人が渋い顔をして言い、皐月は思わず噴き出した。
「大丈夫だよ。誰も解ってないから。でも、楽しいならそれでいいんだよ。お祭りなんだから」
「皐月君と一緒なら、どこへ行っても楽しいと思います」
裁人はそう言って、車の助手席のドアを開けた。
「どうぞ、皐月君」
「なんだ? らしくもないことを突然」
「今日はデートですから」
「デートじゃねぇよっ! あれは拉致って言うんだっ!!」
ぷいと顔を背けながら皐月が助手席へと座ると、裁人は車のドアを閉めて運転席へと乗り込んだ。
エンジンをかけ駐車場から出ると、お祭りの開催もあってか、道路は酷く渋滞していた。
「渋滞回避ルートが無いので、暫く我慢してください」
裁人の言葉に皐月は苦笑いを浮かべた。
——こいつが居るとナビ要らずだなぁ。VICS対応かよ……。
「別にいいよ。ゆっくり帰ろう」
「ひょっとして、私ともっと一緒に居たいですか?」
「一刻も早く帰りてぇよっ!! あーもう! なんであんたはいつもそうやって……」
皐月はピタリと言葉を止めた。ハンドルを握る裁人が、真っ直ぐ前を見つめたまま、嫌に寂しげな顔をしていたからだ。
「裁……」
「良平の服を、皐月君の断りも無しに勝手に買い足すのは良くないと思いました」
「……え?」
「良平の身体が変わってしまった事を、皐月君に知って貰わなければと思いました」
皐月が押し黙って唇を噛みしめて俯き、裁人は更に言葉を続けた。
「皐月君は今日、神様に、良平が帰って来る様にとお願いをしました」
「裁人、それは……!」
「良平は帰ってきません」
裁人の言葉に、皐月は反射的に声を荒げた。
「帰って来るよ!! どうしてそんなこと言うんだっ!!」
「そうしたら、私は何処へ行けばいいのですか?」
車が赤信号で止まった。皐月は俯いたまま、ポツリと言った。
「……どうしてそんなこと、俺に聞くの? 解るはずないじゃないか」
「私はAIです。良平の代わりにはなれません」
「そんなこと、求めてなんかいない!」
「では、皐月君は私にどうして欲しいのですか?」
「どうして欲しいも何もない。俺にそれを聞くなんて間違ってる! 俺は裁人が良平の身体を使う事に了承した覚えなんか無いよ!」
カチリとシートベルトを外すと、ドアのロックを解除して皐月は車から降りた。
「俺は……あんたにとって都合のいい
皐月はそう言って車のドアを閉めると、パッと駆けた。
——裁人の大馬鹿野郎……。自分の存在に罪悪感を感じてたとしても、俺にそれを言うのは間違ってるに決まってるじゃないか!
混雑している歩道を駆け、皐月は駅の方向へと向かった。駆けながら聞こえてくる祭りの太鼓の音が、耳障りに感じた。
——俺が、裁人の存在を認める訳にはいかない。そうしてしまったら、良平が帰って来なくなる気がするのに……。
そう考えて、駅へと続く歩道橋の上で、皐月はピタリと脚を止めた。車のブレーキランプが眩しい程に連なっている様子を歩道橋の上から眺める。
——違う。そうじゃない。俺が願わなきゃならなかったのは、裁人に、裁人自身の身体を与えて欲しいということだったんじゃないか? 何も良平が帰って来たからって、裁人が消える必要なんかないじゃないか。
良平がいなくなった世界で、裁人と二人過ごして来たんだ。あいつに情が沸くのも当然の事じゃないか。俺はどうしてそんな当たり前の事を否定していたんだろうか。
裁人は、俺にとってかけがえのない存在に、もうすでになっているんじゃないのか?
あいつがいなくなったら、俺は悲しいに決まっているんだから。そう思う事が悪い事であるはずがないのに……。
皐月の服のポケットで、スマートフォンが振動した。
「……はい」
『皐月君。その歩道橋を降りてください。下で待っていますから』
「え?」
『電車が人身事故で停まっています』
「…………」
皐月は無言のまま電話を切ると、少しだけ迷った後、無言のまま歩道橋を降りた。白いスポーツカーがハザードを上げて停まっており、無言で助手席へと乗り込んだ。
——気まずっ!!
「皐月君」
「あ、えっと。ゴメン、裁人。俺……」
「シートベルトを締めてください」
カッと顔を赤らめて、皐月は慌ててシートベルトを締めようと手に取り、運転席側にあるソケット口へと差し込もうと身をよじった。
ちゅ……。
唇に柔らかい感触があり、瞳を閉じた裁人の顔が視界を塞いでいる。
「$&@☆△!?」
声にならない声を上げ、皐月が慌てて後方へと避けると、サイドガラスに頭を打ち付けた。
「いだっ!!」
「気を付けてください」
「あんたのせいだろ!?」
喚いた皐月の両肩を力強く引き寄せると、裁人は再び皐月にキスをした。
「止めろって!! なんなんだよ!?」
「実は、先ほどのイチゴ飴が身体に合わなかったのか、蕁麻疹が出てきました」
突然蕁麻疹の話をし出した裁人の意図が分からず、皐月は戸惑いながら、「だ、大丈夫?」と聞くと、裁人はへらへらと笑った。
「キスにはアレルギー反応を抑える効果があるらしいので、試しています」
「おま……え……は……!!!!」
——この、クソAI!! 感電させてデータ削除してやろうか!?
「もしかしたら蕁麻疹が起きたのは、皐月君を怒らせてしまったからかもしれません」
「……は!?」
「蕁麻疹は心身症を呈する皮膚疾患のうちでも代表的なものです。私にとって皐月君に嫌われた事が酷いストレスだったのだと思います」
裁人は痒みを我慢しているのか、両手を組み合わせてぎゅっと結んだ。
「ですが、私はこれで、蕁麻疹に悩まされてクリニックを訪れる方々の気持ちが理解できたと思います」
ふ……と、僅かに吐息を洩らして、裁人は俯いた。皐月は眉を寄せると、裁人を見つめた。
「別に嫌ってなんかいないよ、裁人」
——もしも裁人が、良平の身体を借りて人間にならなかったら、そんな苦しみを味わうことだって無かっただろうに……。裁人が良平の身体を借りる事になったのは、俺の責任じゃないか。
俺が、一人だと生きて行けないくらい弱いから……。
皐月は身を乗り出すと、裁人にキスをした。
「こんなことであんたの蕁麻疹が治るなら、いくらだってしてやるよ」
窓の外から祭りの太鼓の音が微かに聞こえてくる。
有幻メンタルクリニックは……今日は休診中である。
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