第15話 第六感③ ―ポルターガイスト—
ポルターガイスト。ドイツ語の「poltern(騒々しい)」と「Geist(霊)」を合成した「Poltergeist(騒々しい霊)」という合成語である。
オカルト的要素の他に精神疾患的要素もあり、1938年に英ロンドン郊外で起きた事件の調査結果では、無意識状態。つまり、解離状態にあった女性が自ら行っていた行動である事が明らかとなっている。
突然の激しい音に、皐月は一体何が起こったのだろうとキョロキョロと辺りを見回し、結子は怯えた様に悲鳴を上げた。
「先生! 妃緒の中に出来た新しい人格は、本当に幽霊なの!」
裁人が妃緒へと視線を向けると、妃緒はじっと静かに上目遣いで裁人を睨みつけていた。裁人は笑顔のまま、「こんにちは」と、挨拶をした。診察室内の明かりがチカチカと点滅しだし、妃緒がニヤリと薄気味悪い笑みを浮かべてみせた。
皐月は状況が飲み込めず、その様子を唖然として見つめていた。
——確か、テレビか何かで、ポルターガイスト現象は、思春期の精神的に不安定な少年少女が居る環境下で起こりやすいと聞いたような……?
いや、でもまさか! っていうか、お化けの類は苦手なんだ。勘弁してよっ!
平静を装って笑顔を浮かべながら、皐月は背に汗を垂らしていた。結子は完全に取り乱している様で、怯え切った目を裁人へと向けた。
「西川さんは少々危険が伴いますので、待合室でお待ち頂けますか? 後は私と皐月君とで対応します」
「わ、分かったわ!」
裁人の指示でほっとしたような顔をして結子は席を立ち、逃げる様に診察室から出て行った。結子がドアを閉めた様子を見届けた後、裁人はふぅと小さく息を吐いた。
「それで、お名前を伺っても良いですか?」
「『紫式部』」
——大物来た!? ……え? いやいや、なんかおかしいだろ!? そもそもそれってペンネームみたいなもので、本名じゃないよな!?
皐月が思わず心の中で突っ込みを入れたが、裁人は動じた様子もなく頷いた。
「はい、こんにちは。紫式部さん」
「こんにちは」
——平安時代ってこういう会話交わすのか!? いや、いくらなんでもおかしいよな!?
苦笑いを浮かべた皐月を一瞥し、裁人は小さくため息を洩らした。
「……透真さん、その作戦は効果がありましたか?」
——え!? 透真? 紫式部じゃなく!? さっぱり意味が分からないんだけど!!
皐月がぽかんとしていると、妃緒がふんと鼻を鳴らして肩を竦めた。この態度、どうやら裁人が言うように透真の様だ。
「先生、すぐバラしたら面白くないじゃんか」
「妃緒さんのご両親を怖がらせ、虐待を防ごうとする案には賛成ですが、この場でやる必要はありません」
「ちょっとあの母親にもうんざりしてたからさぁ。そこのお兄ちゃんにまでちょっかい出そうとするとか、あり得ないし」
——俺は、透真に庇われたのか……?
「それに、先生との会話の邪魔だったしさ。先生がどのくらい協力してくれるのかも試したかったしね」
「ですが、もう少し別の人物を名乗った方が良いと思います。皐月君ですら嘘だと見抜いたと思います」
——『すら』は余計だっ!!
皐月がムッとした様に裁人を見つめると、妃緒が無邪気な笑みを浮かべた。
「そっか、お兄ちゃんにもバレちゃったかぁ。あまりいいのが思い付かなくってさ」
「裁人、ひょっとして俺の反応を試す為にわざと陪席させた?」
じとっと皐月が裁人を見つめて言うと、裁人はあっけらかんとした様子で頷いた。
「はい。お母様に信じさせる必要がありましたから。先ほど診察室で響いた音は、私がスピーカーから出しました。診察室の照明も調光器を操作したんです。同様に、妃緒さんがお父様から虐待を受けそうになった時も、私が音を出したりテレビを操作しました」
「先生すげぇよな。あんなことできるなんて、一体何者なんだ?」
裁人はへらへらと笑いながら茜色の頭を掻くと、「褒められると照れます」と言った。
——そんな、騙すような真似って……。
と皐月は思ったが、その言葉を飲み込んだ。
解離性同一性障害の人格の一人が行った事は、妃緒自身が無自覚である為、妃緒にとっては全てがポルターガイスト現象の様に感じても不思議は無い。
もしかしたら裁人は、妃緒の両親に、妃緒の置かれている状況や気持ちを少しでも理解して欲しいと思っての行動だったのかもしれない。
「先生、幽霊って信じる?」
透真の質問に、裁人は「信じたいと思っています」と答えた。それはまるで憧れにも似たような言い方で、皐月は不思議に思いながら裁人を見つめた。
緋色の瞳を細めて透真を見つめる裁人は、何か眩しい物を見つめている様に思えた。
「俺も信じたいって思ってるんだ。やっぱり先生とは馬が合うなぁ!」
透真は嬉しそうに裁人とあれやこれやと話し始め、裁人はそれに対し笑顔で相槌を打って応えた。妃緒が言った通り、透真は裁人とずっと話したがっていたようだ。途中フランス語を話すドニとも交代し、彼らはおしゃべりを存分に楽しんだ。
話し終えた後、透真が寂しげに言った。
「……なあ、先生。妃緒が落ち着いたら、俺は統合されて消えて無くなるんだよな? さっきのラップ音はただの茶番だったけれど、俺は消えたら、俺の魂やなんかはどこへ行くんだ?」
裁人は笑みを浮かべたまま首を左右に振った。
「透真さんもドニさんも、消えるわけではありません。妃緒さんと一つに戻るだけです。ですから、何も心配する必要はありません。寧ろ、分裂していた魂が一つに戻るのです」
「そっか。……わかった。それならいいかも」
その会話を聞いて、皐月は僅かに拳を握り締めた。
——良平がもしも戻って来たら、裁人と一つになることは無いだろう。裁人と良平は別の存在だから。
皐月は、裁人がAIであることに寂しさと虚しさを感じた。
裁人は妃緒と皐月にそのまま診察室で待つ様に言い、一人待合室へと向かった。母親の結子の前に屈むと、緋色の瞳を向けて言った。
「大丈夫ですか? 西川さん」
「ええ、私は平気よ。妃緒はどうなの?」
結子は落ち着かない様子で裁人に尋ね、裁人は心配そうに結子の手を見つめた。
「貴方はご主人に引っ張られ、指を損傷しています」
「私が怪我をするなら別にいいでしょう? まだあの子には手を出していないんだから……」
「いいえ。母親がDVを受けている姿を見る事は、精神的ダメージとして深く残ります。それは妃緒さんが大人になった後も時折フラッシュバックしてしまう程の深い傷です。妃緒さんは既に、男性の大きな声に過剰に怯える反応を示しています」
裁人は結子の手に湿布を貼り、丁寧に包帯を巻きつけた。労わる様に優しく手当をしながら、「妃緒さんには、母親の存在が必要です」と言った。
「けれど、私は駄目な母親だから……」
怯えた様に身体を震わせながら言う結子に、裁人はきっぱりと答えた。
「私はそうは思いません。境界性パーソナリティー障害の貴方が、娘さんを連れてここへ訪れる事がどれほど大変な事か分かっていますから。努力できる人が、駄目なはずはないんです」
裁人の言葉に結子はくしゃりと顔を歪めた。涙を零し、先ほどまでの色気はどこへやら、子供の様に泣きじゃくった。
「皆、私を駄目な母親だって言うわ……! 私のお母さんでさえ!! 妃緒も、そう思っているはずよ!!」
「貴方のお母さんは間違っています。妃緒さんは貴方を慕っています。妃緒さんにとって母親は貴方だけです。だからこそ、別人格を形成してまで貴方を守ろうと必死なんです。それほどに深い愛情を貴方に抱いているのですから、貴方が駄目なはずは無いんです」
裁人は結子に笑顔で話した後、診察室で待つ妃緒を呼んだ。透真だった人格は妃緒へと戻っており、縋る様に結子の手を掴んだ。裁人の手により手当された母親の手に気づき、嬉しそうに裁人へと視線を向けた。
「先生、有難う」
「どういたしまして、妃緒さん」
二人を見送った後、皐月は裁人をジロリと睨みつけた。
「父親の方に問題があるんじゃないのか? そっちをどうにかしない限り、どうしようもないじゃないか」
「残念ながら、DV加害者の治療には、加害者自身が自己の問題に気づき、治療をしようという意思がなければ成り立ちません。私にできることは、治療したい意思のある妃緒さんと西川さんの力になることだけです。そして、DVの加害者側が精神疾患を患っている確率は低いそうです。妻子以外には暴力を振るうことなく、周囲との関係が良好である例が多いんです」
「人に酷い事をしているのに、正常だっていうのか!? そんなのおかしいじゃないか! どうにかならないの!?」
不満そうにする皐月を見つめ、裁人は困った様に肩を竦めた。
「皐月君。私に犯罪を犯して欲しいのですか?」
「え!? いや、それはないけど!!」
——犯罪って、一体裁人は何をする気だ!?
慌てて皐月は「あんた、捕まる様な事なんてするんじゃないぞ!?」と言うと、裁人はニコリと微笑んだ。
「皐月君、私の心配をしてくれているということは、もしかして私に好意を……」
「それは無いから安心しろよ!?」
裁人はチッ! と舌打ちをすると、二人のカルテを皐月に手渡した。
「……あの子は暫く他の人格達と過ごさなきゃならないの?」
「はい。妃緒さんにはまだ透真さんとドニさんが必要です。妃緒さんはお父さんから受けた虐待や、目の前でお母さんを傷つけられた光景を受け止められるだけの、心の強さがありませんから」
皐月はカルテを棚にしまいながら、裁人を見つめた。煙草に火をつけてふぅっと煙を吐く様子を見て、何故だか裁人が消えてしまいそうな気がした。
「人間の生きる本能というものは凄いですね。コンピュータでは考えられない行動をとります。これもある意味『第六感』だとは思いませんか? 心が壊れない様にと自分を守るために、別の人格を形成するだなんて、五感のどれもが当てはまらない行為です」
「……裁人」
皐月には、裁人が泣いている様に見えた。涙を流しているわけでもなければ、声の調子もいつもと変わらず淡々と聞き取りやすいテンポで話しているというのに。
「皐月君。『私』という存在は、所詮ただのプログラムに過ぎません。良平と一つの人格に統合されることもありません。それは、凄く寂しいですね。私は、透真さんとドニさんが羨ましいと思いました」
皐月は優しく裁人の茜色の髪を撫でた。
「大丈夫。裁人はここに居るじゃないか……」
昼間からブラインドを下ろし、太陽の光を遮断した薄暗い電気が灯された室内。有幻メンタルクリニックは今日も患者の心を救うべく、密かに営業中である。
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