第14話 第六感② ―解離性同一性障害—

『ビリー・ミリガン』という名を聞いた事はあるだろうか。解離性同一性障害(多重人格障害)である彼は、主人格であるビリーの他に、二十三人もの人格をその体の中に宿していたという人物だ。

 解離性同一障害の患者が別の人格へと入れ替わった時には、まるで時間が飛んでいるかのように思うのだそうだ。それを苦にした主人格のビリーは自らの人生を悲観し、自殺願望が強くなり、彼の自殺を止める為に別の人格により眠らされ続けていたのだという。

 彼の人格はバラエティーに富んでいる。イギリス訛りの言葉を話す人格が居たり、女性の性別を持つ人格が居たり、年齢も幼児から成人で、IQ診断結果もバラバラと、演技とは到底思えない人格が存在しているのだ。


——何故、別の人格を作る必要があったのだろうか……?


 彼の実父は自殺し、継父による辛辣な虐待の影響で人格が複数生まれたのだと言われている。

 虐待から逃れる為に別の人格を形成し、辛い出来事を自分以外の者へと代わって貰うのだ。


西川妃緒にしかわひお』にも、心が受け止めきれない程の辛い過去があった。


 裁人は目の前に座る少女を見つめながら、聞き取りやすく心地の良いテンポで会話を進めた。


「最近もよく時間が飛びますか?」

「Je ne sais pas(さあね)」


 妃緒の中には主人格である妃緒の他に二人の人格が存在している。待合室で現れた透真とうまから、今はフランス人のドニへと変わったのだろう。流暢なフランス語を話す彼へと変わると、周囲はお手上げ状態なのだという。

 母親の話では、フランス語に触れるような生活を妃緒はしていないため、どこで言葉を身に着けたのか全く分からないのだそうだ。


「Pourquoi s'embêter à utiliser le français quand on peut comprendre le japonais ?(日本語が理解できるのに、何故わざわざフランス語を使うのですか?)」


 裁人もまた流暢なフランス語で話しかけた。裁人が言うには、ドニは日本語も話せるのだそうだ。

 ドニは子供らしからぬ笑みを少女のその顔に浮かべた。


「……だって、その方がだからさ」


 周囲を攪乱させる為に、ドニはわざとフランス語を話しているのだ。それでもって自分の身を守る事ができるのであれば、確かに有効な手段であると言えるだろう。


「成程。ドニさんは頭が良いです」


 裁人がにこりと笑った。


——多言語対応型AIって便利だよな。良平のお父さんってやっぱり天才だ……。

 と、皐月が思っていると、目の前に座って居る少女の顔つきが、不安気なあどけない表情へと変わった。主人格の妃緒以外は男性である為、妃緒になると表情ですぐに解る。


「裁人先生、お化けが私の中に入っちゃったんだって」

「……お化けですか?」


妃緒が頷くと、「透真がね、もう一人増えちゃったって」と言った。


 解離性同一性障害の特徴として、精神的に不安定な状態となった場合、人格の分裂が著しく起こることがある。有名な『ビリー・ミリガン』は主人格も含め二十四人もの人格を持っていると言われていたが、一度統合しかけたその人格も、彼の別人格が起こした犯罪の裁判中のストレスにより、再び分裂してしまったと言われている。


 裁人がチラリと母親の方へと視線を向けると、母親は少し怯んだ様に目を逸らした。


「でもね、先生。私分からないの」


不安気に言葉を発する妃緒に、裁人は頷いて優しく言葉を放った。


「……妃緒さん、透真さんに代わって貰えますか?」

「うん。透真も先生と話したがってるからいいよ!」


妃緒はすぅっとどこを見るでもない視線を宙へと向けた。皐月はその様子を見て、まるで裁人がインターネットにアクセスしている時の様だと思った。


「やあ、先生」


妃緒の口調が変わった。恐らく『透真』という人格へと変わったのだろう。裁人は笑顔で頷くと、「こんにちは、透真さん」と言った。


「この女、相変わらずなんだぜ?」


そう言って、透真は睨みつける様に母親に視線を向けた。

西川結子にしかわゆうこ』。妃緒の母親の名だ。裁人は笑顔のまま結子を見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「ご主人とは離婚調停中と伺っていますが」


裁人の言葉に、結子は取り乱した様にヒステリックな声色を発した。


「別れるに別れられないのよ! こんな状態だから、妃緒の医療費だってばかにならないし、私にどうしろというの!?」


 妃緒は、実父からの激しい虐待と、母親へ向けて行われるDVにより、人格の分裂が始まったのだ。実父は服役し、出所したものの、そう簡単に人の性格が変わるものならば苦労しない。


「透真さん、口を開けてください。舌の様子を確認しましょう」


 裁人の言葉に皐月は膝の上に置いた拳を僅かに握りしめた。


——実父に押し付けられた煙草の火の影響で、妃緒の舌は激しく損傷し、味覚障害が残っている。


「味覚はまだおかしいんだ。妃緒は何でも美味しいって言うけどな」


裁人は頷き、妃緒の口の中をライトで照らして見た後に「もういいですよ」と微笑んだ。


「『あいつ』がまた暴力を振るうのは時間の問題だぜ? 妃緒はいつも怯えているんだ」


透真の言葉に、裁人は結子の方へと視線を向けた。


「このままでは妃緒さんにとってよくありません。西川さん、児童相談所に頼る事も検討してみては如何でしょうか」

「無理だね。この女には別れる気なんかさらさらないんだ」


裁人が透真に代われと言ったのは、恐らくこの会話を妃緒に聞かせたくなかったからだろう。透真が話している間、主人格の妃緒は眠っている様で、会話の内容を全く覚えていないのだ。


 結子は唇を噛み、裁人を見つめた。彼女はクリニックに来るときにわざとらしい程に露出が高い服を選んで着る。足を組みかえて色気のある眼差しを向ける様子に、皐月は平常心を装いながらも拒絶反応を示していた。


「裁人先生は結婚しているの? 妃緒は先生を気に入ってるみたいだし、私も先生さえ良ければ……」


——裁人に色仕掛けって通用するのかな? そもそもAIって恋愛感情なり性欲なり持ってるんだろうか……。


 女性患者と性関係を持つ精神科医の問題は、時折週刊誌やニュースでもとりあげられることがある。


 チラリと皐月が裁人に視線を向けると、裁人はぐるりと身体の向きを変えて皐月を見つめた。


「皐月君、何か私に期待しましたか?」

「いやいやいやいや、患者さんの話聞けよ!」


「ちっ!」と、裁人が舌打ちし、妃緒の中の透真が爆笑した。


「ちっとも相手にされてねーんでやんの! ウケる!! もう色気出してここに来るのは止めるんだな!!」

「この、クソガキ!!」


結子が苛立って怒鳴りつけた。もしもこの母子の席が近かったのなら、間違いなく結子は妃緒を叩いていたことだろう。


「あの、倫理上カウンセリングを受ける際、カウンセラーのプライベートな情報をお伝えすることができないんです」


皐月は場の雰囲気を和ませようと裁人をフォローした。


「プライベートな情報?」


結子の質問に、皐月は「はい」と答えながら頷いた。


「結婚の有無や家族構成もそれにあたるんです」


結子は不満気に皐月を一瞥した後、長い脚を再び組み替えた。


「貴方、結構可愛い顔してるじゃないの。看護師って給料はいいの?」


——俺にきた!?


「結子さんは十分に魅力的な女性です。だからこそ、そのような自分の価値を貶める行動を取ってはいけません」


裁人がサラリとそう言うと、カルテに何やら書き込んだ。

 裁人の机の上には二枚のカルテが置かれている。西川妃緒のものと、西川結子のものだ。裁人の見立てでは、妃緒が解離性同一性障害であり、結子は境界性パーソナリティー障害であると診断していたのだ。


 ふと、今更ながらに皐月は疑問に思った。電子カルテの方がずっと便利で管理もし易いはずだというのに、裁人が敢えて物理的に残る紙にこだわるのは何故なのだろうか。


——まるで、自分の存在が消えても残るものを、好んでいるようじゃないか……。


「さてと、最初に妃緒さんが話していた『お化け』についてですが」


 裁人がその話題を出した途端、結子は顔を強張らせた。

 裁人はチラリと宙に視線を向けた。インターネットにアクセスし、二人の周囲で起こった情報を収集しているのだろう。


「ふむ、ラップ現象ですか……」

「ああ、そうだよ。先生」


 妃緒が睨みつけるようにじっと裁人を見つめた。


「え? 今ですか……」


ポツリと言った裁人の言葉に反応するかの様に、パアン!! と、何かが弾ける音が診察室内に響き渡った。

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