第13話 第六感① ―Savant—
『Savant』は心理カウンセリングAIであると同時に、精神疾患の診断統計マニュアルと言われる『DSM-5』に基づき、患者の症状を細かく入力していくことで、どんな疾患を患っているのかがカテゴライズ分けされ、治療方針が表示される機能も持つアプリケーションだった。
更にインターネット上から対象の疾患に関する症例が自動検索され、統計・分析結果をはじき出す事で、曖昧な精神科の治療を遠回りすることなく道標を示してくれるのだ。
「優秀なアプリケーションだなぁ。良平のお父さんって天才?」
良平の部屋で、パソコンのモニタを覗き込みながら皐月が言った。良平は煉瓦色の瞳で皐月をチラリと見た後に、肩を僅かに竦めて見せた。
「作ったのは僕の父ではないけれどね。とはいえ、父が関わって制作したことには違いないだろう。あの人は兎に角知識に飢えている人の様だから」
「けれどね」と、良平はにこりと笑った。
「心理カウンセリング機能にしろ、診断機能にしろ、『Savant』に入力する為のデータを収集する行為は、AI自身にはできない。それこそが患者と医師の信頼関係を築かないと難しい事なんだからね。どうしても人間の介入が必要だろう? と、いうことは、僕の存在もまだ必要不可欠ってことじゃないか」
「何言ってるんだか。良平は必要だよ。俺は、良平がいなきゃダメだから」
皐月の言葉に、良平はしゃべりを止め、口の中で僅かに歯を食いしばった。
「……ありがとう、皐月」
机の上に置かれた皐月の手に良平が触れ、皐月は照れてパッと机の上から手を下ろした。その様子に良平は困った様に笑い、モニタに映る文字列を見つめた。
「『Savant』って、良平のお父さんと日本人の知り合いとで作ったんだっけ?」
「うん、そう聞いているけれど」
「良平のお父さんって、日本語話せるのかな?」
「そうだね、随分と流暢に話すようだよ。日本語以外にも様々な言語が話せるんじゃないかな。『Savant』が多言語に対応しているのはそのせいだと思う」
「天才か?」
皐月の突っ込みに、良平は少し嬉しそうに微笑んだ。恐らく良平は、父親を尊敬し、憧れてすらいるのだろう。だからこそ、父が映った雑誌の切り抜きを大切に手帳に挟んで持ち歩き、突然送り付けられた『Savant』の存在に傷ついたのだ。
ずっと彼を放置し続けた冷たい父親に対し、憎しみにも似た焦がれるような愛情を持つ事は、第三者からは理解できない事かもしれない。しかし、誰しもの心は理解しがたいものなのだ。
両親を失った皐月の気持ちに対しても、当人以外の誰が理解できると言うのだろうか。人にできる事はただ、理解する努力をし、寄り添う事しかない。
「『Savant』の言語の切替は簡単なの?」
良平は頷くと、マウスを操作して画面上のボタンへとポインタを動かした。
「ここを選択するだけさ。簡単だろう?」
「これ、高く売れそう……」
「そうだろうね。売る気なんか無いけれど。僕にとって『Savant』は、父の形見のようなものだから。まあ、まだ死んではいないけれどね」
「会えるといいね」
皐月の言葉に、良平は頷いた。
「そうだね。皐月との結婚式には来て貰わなきゃ」
「気が早いな!?」
良平が住むマンションの一室で、二人はパソコンのモニタを覗き込んでは、あれやこれやとよく語り合ったものだった。
今ではその部屋に足を踏み入れる者はいない。裁人は同じマンション内でも別室を『有幻裁人』の名義で押さえ、住んでいるからだ。
——良平……。裁人が自分の意思を持ち、良平の身体を使って問診までできるようになったということを知ったなら、良平はまた自分の存在価値を疑うのか……?
皐月は診察の準備をしながらチラリと裁人へと視線を向けた。彼はコーヒーを口にしながらペンを走らせ、何やらメモを取っている。茜色の髪をかき上げて、前髪を邪魔そうに押さえつけた。
「髪、大分伸びたね」
「そうですね。そろそろ切りにいかなければなりません」
「髪型変えないの?」
皐月の問いに、裁人は緋色の瞳をきょとんとさせて、小首を傾げた。
「皐月君の好みに合わせます」
「俺の意見は関係無いよ。裁人の好きにすれば?」
裁人は少し考える様な素振りをして、皐月の問いかけに答えた。
「特に好みはありません」
ツルツルに髪をそり上げた裁人の姿を想像し、皐月はぷっと噴き出した。
「スキンヘッドは止めた方がいいと思うよ!?」
「そうですね、お客さんからの印象が悪いです。髪の毛は脳を保護する為にも必要ですので、あった方がいいです」
そう言いながらも、裁人は邪魔そうに茜色の髪をかきあげた。
「裁人は、コンピュータの中に戻りたいって思わないの?」
——髪の毛が邪魔にならないだろうし。
「はい、全く」
裁人は即答すると、煙草に火をつけた。ふんわりと甘い匂いが漂い、空気清浄機が反応してチカチカと青い光を放った。
「コンピュータの中では、味覚、触覚、嗅覚が存在しません。それを感じる事ができる人間の身体は素晴らしいです。半導体の加工技術の限界が見え、量子コンピュータの開発に着目しはじめましたが、その素晴らしい計算能力を以てしても、人間の脳には到底敵いません」
「……そうかな? コンピュータの方がずっと計算も早いし凄いんじゃないの?」
裁人は「まさか!」と言うと、首を左右に振って立ち上がった。
「人間には五感があります。それはコンピュータには無い概念です。例えば視線を感じるという一つの感覚に対し、五感が計算して弾き出す答えを持つのは生物にしかできない事なのです」
力説する裁人を見つめながら、皐月は興味無さそうに「ふーん」と言った。
——コーヒー飲んだり煙草吸ったり、人間を満喫してるみたいだから別にどうだっていいけど。ただ、髪が邪魔そうだなって思っただけだし。
「因みに、人には第六感なるものが存在しているらしいですね。こちらについても実に興味深いです」
「AIのくせに妙な事に興味を示すんだね」
「第六感とは心霊的な物を意味する事もある様ですね。AIの私には魂なるものが存在しませんが、人には存在するのでしょう?」
皐月は裁人の言葉を聞きながらぽかんとした。
「存在するかどうかは分からないけど……」
「存在していて、もしも疎通できるのだとしたらどうしますか? 皐月君は良平と話したいのでは?」
「良平は死んでなんかいないっ!!」
咄嗟に怒鳴りつけると、皐月は唇を噛みしめて裁人を睨みつけた。
——死んでない。良平はきっと戻って来るんだっ!! そしたら、また前みたいに釣りに行ったりして……。
緋色の瞳を細め、裁人が悲しそうに皐月を見つめた。
その表情を見て、皐月はハッとした。
——もしも良平が戻って来たとしたら、裁人はどこへ行くんだろうか……?
「……私も、魂が欲しいです。私のデータは消えてしまったらお終いですから」
ポツリと寂しげにそう呟いて、裁人は皐月から視線を外した。
「ごめん、裁人。そんなつもりじゃなくて。俺はただ……」
——もしも、魂があって、第六感というものが本当に存在しているのだとしたら。裁人は自分が消えて無くなる不安から解放されるんだろうか。
「皐月君。そろそろお客さんの予約時間です」
裁人がへらへらと笑いながら言い、皐月は「だから、患者さんを『お客さん』って言うなってば!」と、眉を顰めた。
診察室から出て待合室の受付カウンターにある椅子へと、皐月は腰かけた。先ほど裁人と話した事が、皐月の中でもやもやと胸に残って離れない。
——俺はどうしたいんだろう。もしも良平が戻って来て、裁人が消える事になったとしたら、きっとものすごく寂しいと思う。AIとはいえ、裁人とこうして一緒に過ごして来たんだ。そう思うのも当然だろう。
……良平。早く帰って来てよ。裁人と過ごす時間が長ければ長い程、別れる時の辛さが重く、恐ろしくなる。だからこそ、俺は裁人に『依存』したらいけないんだ。
いつか、裁人と離れる事になる覚悟を、持っていなければならないから。
クリニックのドアが開き、不安気な顔をした少女が母親と思しき女性に付き添われて入って来た。
皐月はハッとして立ち上がり、二人を待合室の椅子へと促した。
「こんにちは、西川さん。診察室にはお二人で入室されますか?」
少女がチラリと女性に視線を向け、女性は「はい。お願いします」と答えた。皐月は頷くと、診察室のドアを開けた。
裁人は茜色の髪をかき上げながらカルテに書き込んでいて、皐月が診察室に入って来たことに気づき、顔を上げた。
いつも通りの穏やかな笑みを浮かべる裁人を見て、ズキリと心が痛んだ。
——俺は別に、裁人にいなくなって欲しいわけじゃない。ただ、良平に帰って来て欲しいだけなのに……。
「『
裁人は頷くと、診察室にある患者用の椅子を二つ離して置いた。
「どうして離すの?」
「お母さんが危害を加えないようにです。もう呼んで頂いて構いません」
「分かった」
「あ、皐月君も陪席してくださいね。許可を得ますから」
珍しい、と思いながらも皐月は頷くと、待合室で待つ二人に声を掛けた。
「妃緒さんと、お母様、どうぞお入りください」
少女は顔を上げると、睨みつける様な鋭い眼差しを皐月へと向けた。
「妃緒じゃない。俺は
皐月は「ああ、失礼しました」と申し訳なさそうに頷くと、言い直した。
「西川透真さんとお母さん。どうぞお入りください」
西川妃緒は『解離性同一障害』だ。かつては多重人格障害と呼ばれていた精神障害だ。
皐月は二人を診察室へと招き入れて、笑顔で迎えた裁人を見つめた。
——良平の中に居る裁人もまた、別の人格であると言えるのだろうか……?
それぞれの人格には、魂が存在しているのだろうか……?
そんな疑問を思い浮かべながら皐月は診察室のドアを閉じると、裁人の横にある椅子へと掛けた。
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