第12話 大人の発達障害②

 会田虹子あいだこうこは、ADHDと診断されていた。周囲が普通にできることが、自分には大変な苦労を要する。日々劣等感に苛まれ、苦しく辛い思いをしてきた。子供の頃から落ち着きがないと言われ、注意をしていても忘れ物を頻繁にしてしまう。社会人になった今もそれが治らず、周囲から疎まれてばかりいた。


 『有幻メンタルクリニック』は、繁華街から少し離れた路地に立つビルの二階に構えている小さなクリニックだ。会田が会社を辞める事で引っ越し、近くで通いやすい精神科をインターネットで検索したところ、表示されたのがここだった。


 院長の有幻裁人は日本人離れした顔立ちに、茜色の髪に緋色の瞳をした特徴があり、ホームページには地毛でカラーコンタクトもしていないのだと書かれていた。

 そういった見た目だけで苦労しながら生きて来たであろうと推測できる医師は、患者の心に寄り添ってくれるのではと期待され易い。会田も例外無くそう思った。

 看護師の天野皐月は優しそうな笑みを浮かべる、まるで少年の様な美男子で、会田は転院先に対する期待が大きかった。


 緊張しながらクリニックの中へと脚を踏み入れると、「こんにちは」と、受付に立つ皐月が笑顔で声を掛けて来た。


「会田さんですね? お待ちしておりました。お掛けください」


 ホームページの写真で見るよりもずっと美青年な皐月の様子に、会田は暫しぼうっと見惚れた。


「会田さん? 大丈夫ですか? 暑かったでしょう、冷たいお水をお持ちしますね」

「す、すみません。大丈夫です」


会田は慌てて待合室の椅子へと腰かけた。待合室は会田の他には誰も居らず、他院での混雑ぶりをかんがみると不思議に思った。しかし、会田にとっては流行っていない、閑古鳥が鳴いているようなクリニックこそ都合が良いと思った。


 ADHDは脳機能の偏りにより生じる病である為、完治しない。ならば、投薬するだけのクリニックの診察にかける時間が、勿体ないと感じていたからだ。


 皐月から受け取った問診票に記載し終えると、すぐに診察室へと入る様にと指示があった。

 診察室内は日中だというのにブラインドを下げ、明るいとはお世辞にも言えない照明が点けられている。

 茜色の髪をした男性がふと顔をこちらに向け、緋色の瞳を細めて「こちらへおかけ下さい」と椅子を勧めた。会田が「失礼します」と言いながら腰かけると、彼はニコリと愛嬌のある笑みを浮かべた。


 有幻メンタルクリニックの院長、有幻裁人だ。見惚れる程に美しい人だ。HPで見た時に感じた通り、彼は純粋な日本人では無さそうだ。すっと通った鼻筋や額、頬等の骨格が日本人離れしている。睫毛までも茜色で、その容姿は妙に色気があり、いつまででも見ていられる。

 そう会田が思っていると、裁人は身を乗り出さんばかりに会田を見つめた。会田は思わず赤面し、視線を裁人から外した。が、裁人の言った言葉が余りにも予想外だった。


「会田さん。貴方はADHDではありません」


 一瞬、何を言われたのかが理解できなかった。


 会田が唖然としていると、裁人はサラサラとカルテに何やら書き込み始めたので、慌てて「でも!」と、声を発した。


「あの、紹介状を持ってきました。他院でADHDと診断されて、引っ越したので……」

「当クリニックでは紹介状を必要としません」


通常、精神科や心療内科の転院は、紹介状が必要である事が一般的だ。それは、長く通院する事の多い科目の特質上、患者の経過や薬物依存の有無、そして最も重要となる患者に関する細かな情報が記載されているからだ。

 紹介状が無い場合、受け入れを拒否する医院も少なくはない。


「ちょっと待ってください。私は薬を処方してもらいに来ただけです。先生の診断を期待したわけではありません!」


失礼だとは分かっていなからも、会田は裁人にそう言ったが、裁人は穏やかな笑顔のまま、聞き取りやすくハッキリとした口調で言葉を吐いた。


「当クリニックでは、よっぽどのことで無い限り薬を処方しません。例えADHDの患者さんだとしてもです」


会田は尚も食い下がった。


「どうしてですか!? 薬を出すだけなんて、簡単なことじゃないですか!」

「いいえ。大変難しいことです。私が薬を処方することで、人の人生を狂わせてしまうこともあり得ます。向精神薬は依存性が高いです」


 向精神薬は、中枢神経系に作用し、精神機能や行動。あるいは情動面に著しい影響を及ぼす薬物の総称である。それはつまり、麻薬と同じ作用である。


「貴方を薬物依存症にしてしまいかねません。そうなれば、薬を求め定期的な通院が一生必要となってしまいます。そんな責任を、私は負えません」

「どこの精神科でもやってる事じゃないですか!」

をですか? 有幻メンタルクリニックは、養殖場ではありません。治療をするところです」


 青ざめる会田を見つめて、裁人は僅かに頷いた。


「会田さん、本当に困っている事を解決しなければ、貴方の為になりません」

「今困っているのは先生に薬を処方して頂けないことです!」

「そうではありません。考えてみてください。何故貴方は、病気ではないと言われて困るのですか?」


 会田はぎゅっと拳を握り締めた。手が震えている。


「……仕事に行くのが怖いんです。復帰したら、落ち着きがないとまた虐められてしまいます。私は、皆が普通にできることができないから。もう耐えられないんです。お願いですから助けてください」


ぐすぐすと泣き始めた会田を見つめて、裁人がパチンと指を鳴らした。


「会田さん、それです!」

「……はい?」


ボックスティッシュを会田に手渡し、裁人はゴミ箱を足元に置いた。


「辛いなら、辛いと言えばいいんです。貴方はずっと、自分は努力をしていると勘違いしていましたが、我慢は努力とは違います。どうしても我慢できない事というものは誰にでも必ずあるんです。どこまでも我慢ばかりしていては、身動きが取れなくなってしまいます」


裁人は優しく微笑むと、「攻撃は最大の防御と言うじゃないですか」と言った。


「不安に思っている事を吐き出してください。会田さんがお持ちのその紹介状には、会田さんの本当の悩みが一切書かれていません」

「……どうして解るんですか?」

「誤診している事が何よりの証拠です。会田さんの会社の事を私に教えてください」


 会田はポカンとして、裁人から渡されたティッシュを数枚取ると、鼻水をかんだ。


「大きい企業です。恐らく先生も名前を聞いた事があると思います。受かった事が嬉しくて、田舎から両親の反対を押し切って一人で上京してきましたので、今更戻るわけにも心配をかけるわけにもいかないんです。それなのに、ミスばかりするので、自分に呆れてしまいます。もう、どうしたら良いのか分からなくて。周りは皆優秀なのに……」


 裁人はふと宙に視線を向けた。そして僅かに頷いた後、「会田さんの上司の課長、言っていることが支離滅裂です」と突然言い放った。


「……どうして知ってるんですか?」

「それと、会田さんの隣の席の女性。いつも会田さんを監視して、その上司の課長に告げ口をしていますね」

「先生、斎藤さんの知り合いですか!?」

「いいえ」


裁人はケロリと返した後、更に続けた。


「あー、小池さんという男性の方。家庭不和の八つ当たりを会田さんにしているんですね。そんな性格だから家庭不和なのですね。体脂肪率も高めです」


会田が思わず吹き出して笑うと、裁人は嬉しそうに微笑んだ。


「貴方は彼らの手によってADHDに仕立て上げられたんです。人はミスをするものです。それを執拗に監視し、威圧的な環境下に置かれれば更にミスを誘発するのです。貴方はADHDではありません」

「私は、病気じゃないんですね……?」


会田は裁人の言葉を聞きながら、今度はホッとしたように涙を零した。


「はい。病気ではありません。彼らの為に、会田さんが人生を棒に振る必要はありません。私は薬の代わりに転職を処方します」

「……転職ですか?」


考えてもみなかったという様に、会田は瞳を見開いて驚いた。


「はい。会田さんに必要なお薬は、『転職』です」


その言葉に会田はくすくすと笑った。


「……分かりました。転職を頑張ってみます」

「はい。それが努力です。我慢と努力は別のことです」


裁人が満足気に微笑むと、「会田さんを必要としている会社は沢山あります」と言って、彼女の長所を事細かに話し始めた。





「またいつでも遊びに来てください」と、裁人は会田に言い、会田は深々と頭を下げて帰って行った。

 皐月は機嫌良さそうにカルテに書き込む裁人を見つめ、眉を寄せた。


「で、MRIが無いのに、どうやって診断したの?」

「皐月君、私はDSM-5の診断基準を元に、ちゃんと診断しました。疑いの目を向けるのは止してください」

「いやいやいや、おかしいだろ!? そもそも脳機能の偏りってのを問診だけだとできないんじゃないのか!?」


裁人はニコリと微笑むと、カルテを皐月へと手渡した。


「こちらを解決済みの棚にお願いします」

「マトモな診察したんだろうな? AI!」

「勿論です。皐月君も見たでしょう。彼女は最初から、とても落ち着いていました」


皐月はハッとして裁人を見つめ、頷いた。


「他院でADHDと診断され、安心していたのでしょう。うちには薬だけ貰いに来れば良いのだと。皐月君や私を観察する余裕がある様に見受けられました」


——確かに……。なんか、ちょっと愛でる様な目で見られたような……?


「まあ、そもそも彼女の幼少期からの行動や、メールのやりとり、SNSの投稿内容を見る限り、ADHDでは無いと容易に察しが付くことですが」

「そうやって人のプライバシーを覗くの止めろってっ!!」

「診断に必要な事です。皐月君、妬いてるんですか? ひょっとして、私に好意を……」

「ねぇってっ!!」

「ちっ!」


 ADHDは、アメリカで製薬会社との癒着により、障害の範囲外の人をまで発達障害であると診断し、薬漬けにされて社会復帰不能な状態へと落とし込まれると、世間を騒がせた病名である。


 現在日本に於いてもそう診断されるケースが爆発的に増えているそうだ。


 向精神薬には、麻薬と同等の依存性があるのだという……。


「私は、患者を養殖する気はありません」


「ん? 裁人、何か言った?」


皐月が怪訝そうに振り返り、裁人は「いいえ、何も言っていません」とさらりと返した。


有幻メンタルクリニックは今日も患者の心を救うべく、密かに営業中である。

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