第11話 大人の発達障害①
医師の自殺率は一般のそれよりも高いと言われている。常に患者に親身となって寄り添い、時には理不尽な言葉を浴びせられる事もある精神科医は、精神科医本人がうつ病になることもあるのだそうだ。
精神科医の父と言われるフロイトは自身が神経症でパニック発作を持っていた。そして、認知療法の生みの親のベックは不安障害を患っており、森田療法の創始者の森田正馬は強迫神経症を患っていた。
精神科の医師も人である。それが、まるで人ではないかのように扱われ、何を言っても赦される事を試して来るような、攻撃性の強い患者と対峙することもある。
良平は、研修医時代にそういった患者と遭い、そこへタイミングが悪い事に父親から送りつけられてきた心理カウンセリングAI、『Savant(サヴァント)』の有能さを知り、自分の存在を否定する事で、死を選ぼうとした。
恐らく彼は幼少期から自身の存在価値を希薄に思っていたのだろう。
心理カウンセリングAI『Savant(サヴァント)』は、人では無い為、うつ病にもならない。正に、精神科医にうってつけの存在と言えるだろう。
特に、身体的能力値の高い良平の身体を手に入れた『裁人』の存在は……。
◇◇◇◇
今日は予約患者の数が少ない日だ。昼の休憩時間もゆったりと取ることができ、裁人と皐月の二人はコーヒーを飲みながら書類の整理をしていた。
茜色の髪をさらりと後ろへ追いやって、緋色の瞳で書類を見つめる裁人の様子は、AIであるようには決して見えない。勿論、皐月以外の誰も裁人が人ではないということを知る者はいないのだが。
「裁人ってさ、大好物っていうと何?」
ポツリと聞いた皐月の言葉に裁人は顔を上げると、緋色の瞳を瞬いて小首を傾げた。
「食べ物のことですか?」
「うん」
「
——食材かよ!?
「……随分渋好みだな」
「美味しいじゃないですか」
「美味しいけど……」
いや、まさかそう来るとは思わなかった。と、皐月は苦笑いを浮かべた。
裁人はよく美味そうにあんぱんを食べていたから、てっきりあんぱんと言うだろうと思っていた。飲み物は恐らくコーヒーだろうと予測していたというのに、蓮根とは。
「皐月君は鶏の唐揚げが好きです」
「あんたはすぐそうやって色んな所からデータを引っ張って来るから、会話のキャッチボールを愉しむ事ができないんだっ!」
「会話は投げたり受け止めたりはできません」
「ああそうかよっ!!」
——こいつと雑談しようと持ち掛けた俺がバカだった!!
皐月はムッとしながら書類整理をする手を動かし、裁人との会話を諦めた。
ブラインドが下ろされた診察室内は普段は薄暗いが、患者が居ない時は照明の調光を上げ、事務仕事や片づけ等をしやすいようにしていた。
裁人はAIであるというのに、カルテを電子化せず、何故か手書きに拘っている。文具好きの皐月としては、趣味で揃えた文房具が使用できる為、さほど抵抗はないが、不便であることは確かだった。恐らく裁人にとっても不便であろうとは思うものの、そこに対して皐月は特段指摘しなかった。
ペンを走らせる音が診察室内に響く中、裁人がポツリと呟く様に言葉を吐いた。
「皐月君は、良平の好物を知っていますか?」
裁人の問いかけに皐月はズキリと心が痛んだ気がした。「いや、知らない。魚?」と聞くと、裁人はへらへらと笑った。
「皐月君が大好物です」
「俺は食いモンじゃねぇっ!!」
「知っています」
顔を真っ赤にして皐月はぷいと顔を背けた。
——突然何なんだよ、こいつ!
「私も皐月君を食べたいです」
「だから、俺は食いモンじゃねぇっつーの! 油はちょっとばかし乗ってるかもしれないけどさ……腹のあたりとか」
「身長172cmで体重49kg。体脂肪率が18%ですので、やせ型です」
「……」
絶句した皐月に、裁人はへらへらと笑った後、「ですが、そういう意味の『食べたい』とは少し違います」と言葉を続けた。
「キスがしたいです。そうすることで皐月君を味わいます」
「……絶対しねぇよ」
「それは残念です。さて、終わりました」
裁人は書類整理を終えて机の上を片づけると、ぐっと伸びをしながらおおきな欠伸を掻いた。
——AIのくせに、伸びたり欠伸したり随分と人間臭いな。
と、呆れながら皐月は裁人を見つめた。
精神科の開業医は、日本の医療システム上、他の科目に比べるとあまり収入が多いとは言えない。患者一人一人に費やす時間が長いからだ。自ずと一日に捌き切れる人数も少なくなり、その割には心身が疲弊する過酷な労働状況であると言えるだろう。
更に言えば、精神科や心療内科というものは、患者の自殺を押える為の最期の砦であると言っても過言ではない。
患者に寄り添い、親身になって対応をしても、症状が改善されず、患者が自死を選択する場面に直撃してしまったのなら、医師にかかる精神的苦痛も並ではない。
それでいて時間をかけた診療に対する対価が見合わないのだから、需要と供給が追い付かない。中にはいかにして数多くの患者を捌くかを考え、営利目的にのみ走る医師も現れるだろう。患者を薬漬けにすることで再診の患者を増やし、短い診療時間で定期的な収入を得ようとする、悪質な養殖場を営む輩も存在する事は確かだ。
しかし、良平の父が異常なほどの資産家であることから、裁人の住むマンションやこのクリニックのビルも全て良平の資産として登記されている。つまり、裁人は働かなくても何不自由なく暮らせるどころか、贅沢三昧できる程の資産を持っているのだ。
「裁人はどうして精神科の開業医になろうと思ったの?」
皐月の質問に、裁人は欠伸で出た涙を擦って、緋色の瞳を向けた。
「良平と皐月君が約束をしていたのでは?」
「や、約束っていうか! その、でも良平が開業医になるのは後期研修を終えた後の予定だったから。裁人は前期研修だけで大学病院を離れて開業したじゃないか。二十七歳で開業医なんて殆どいないだろう?」
裁人はコーヒーを一口飲むと、困った様に微笑んだ。
「良平の事を知る人達がいる中で、私は生きづらいですから。それならば早々に開業してしまった方がいいと考えたのです。誰からも私と良平が同一人物であると分からない様に名前を変え、戸籍も取得しましたし」
「不正なやり方でだろ?」
「そればっかりは仕方ありません。私はAIですから」
裁人はコーヒーをごくごくと飲むと、ふはーっと満足気に息を吐いた。
——その様子を見てるとこいつがAIだって事を忘れそうになるけどな。
「皐月君、そろそろお客さんが来る時間です」
「『患者さん』な!?」
予約患者のカルテを裁人に差し出すと、裁人はそれを受け取り小さく言った。
「皐月君、『大人の発達障害』とは聞いた事がありますか?」
発達障害とは、脳機能の偏りによって発生する障害の総称である。
社会的交流、コミュニケーション、想像力の質的障害である、自閉症スペクトラム障害(autism spectrum disorder:ASD)。不注意と多動性・衝動性が特徴である注意欠乏多動性障害(attention deficit/hyperacitivity disor-der:ADHD)。読み書き、計算のいずれかの領域に障害が認められる学習障害(learning dis-order:LD)が含まれている。
その中でも代表的といえば、ASDとADHDだ。
とかくADHDについては、米国の精神医学会の推定では子供の五%程にみられると推定されていたものの、実際には十五%もの子供が診断され、投薬による副作用から自殺や恐ろしい事件へと発展したケースが報告されている。
「『大人の発達障害』か。テレビなんかで見聞きしたり、調べた事はあるけど、あまり詳しくは無いよ」
皐月の言葉に裁人は頷いた。
「発達障害の症状としていくつかの項目に当てはまるものの、全ての診断基準を満たすわけではない方。大人になるまで障害がある事に気づかれずに生きて来た方々の事です」
「生活できてたならいいんじゃないの?」
皐月の言葉に裁人はコーヒーカップを持ったまま、緋色の瞳を向けた。
「皐月君、私もそう思います。しかしそれはつまり、本人が一般と合わせる為にツライ努力をしながらも自立した生活を手に入れるか、それとも周囲の支援の中でADHDの程度で働ける先を選択して貰い、常に支援されながら生きるかの選択となります」
——思ったより究極の選択だった……。
「それはともかく、うちの設備じゃ診断なんか無理じゃないか。MRIなんて無いし」
「はい。あくまでも『脳』の機能が偏っているかどうかをまずは基準としなければなりませんから、うちの設備では診断不可能です。ですが、このあと他院でそう診断された方が来ます」
皐月は唖然として裁人を見つめた。
「じゃあなんで予約を受け入れたんだ!? 診断できないんだよな!?」
「準備をしてください。もう来ます」
皐月は裁人を胡散臭そうに見つめたが、渋々受付へと向かった。
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