第10話 自己愛性パーソナリティー障害

 早朝、裁人は日課であるランニングをし、自宅にあるトレーニングルームで身体を鍛えた後、シャワーを浴びる。これは『無現良平』であった頃からの日課だった。お陰で彼の身体能力はすこぶる高い。

 裁人は常に『無限良平』の生活と同様の行動を取っている。それは、彼がAIであるが故に、自発的に考えて行動するという事をしないからだ。毎日のルーティンを守りながら、突発的な問題に対しては独自の高い計算能力を以て対処していく。


 鍛え上げられた肉体をワイシャツで包み、勤務先であるクリニックには徒歩で向かう。裁人のマンションからクリニックまでは歩いて十分程の距離だ。


 通常、精神科のクリニックは患者のプライバシーを配慮し、二階建て以上のテナントに開業する事が多い。有幻メンタルクリニックも同様に、八階建てのビルの二階にあり、周囲には歯科医院や針きゅう整骨院等が入っている。

 裁人がクリニックに向かうと、既に出入口のシャッターが上がり、裏手にある従業員用の通用口の鍵も開いていた。中へと足を踏み入れると、皐月が掃除をしながら「おはよう、裁人」と笑顔で声を掛けた。


「おはようございます。皐月君」


 皐月はチラリと裁人を見つめた。特段沈んでいる様子も無く、いつもと同じ雰囲気の裁人にホッとした。


 昨夜、海からの帰り道。裁人が泣き出すのではないかと思う程に落ち込んでいる様に見えた。AIである彼に感情が存在するのかは分からないが、今まで裁人が涙を零す姿を、皐月は一度も見た事が無かった。

 精神科医であるという職業柄、様々な心の病を持つ患者と出会う訳だが、裁人はいつも飄々ひょうひょうとしていて、患者の感情に移入する事無く精神科医としての仕事をこなしている。それが皐月には頼もしいとすら思っていたのだ。


 皐月は予約表に視線を向けて、掃除をする手を止めずにサラリと言った。


「裁人、今日の予約は二十名だよ。新規は午後の一名だね」

「皐月君、そんなに予約を入れては死んでしまいます」

「予約は裁人が自分で入れたんじゃないか。それに、AIなんだから死なないんじゃないの?」

「今日でなければならない方が多かったので、調整が難しかったんです。これでは良平の身体が死んでしまいます」


 有幻メンタルクリニックでは院長の裁人と看護師の皐月の二人体制である為、他院と違って受け入れ可能な患者人数が少ない。しかもこのクリニックでは、他の患者同士顔を会わせないようにと、できるだけ予約時間をずらす配慮をする為、尚更だ。


「連休明けなんだから仕方ないよ。患者さん達も大変なんだから頑張ろう」

「それを言われると頑張るしかありませんが、ねぎらいの言葉が欲しいです」

「今日の診察が終わったらね」

「期待しています」


裁人は雑巾を絞ると、皐月と一緒に掃除を始めた。机を拭きながら、ポツリと言葉を放った。


「昨日はすみませんでした」


皐月はハッとして裁人を見た。裁人は机を拭く手を止めず、言葉を続けた。


「また、一緒に海に行きたいです」

「うん。行こう!」


皐月は間髪入れずに返事をした。すると、裁人はへらへらと笑った。


「最初はあんなに嫌がっていたのに。皐月君、ひょっとして私に好意を抱いていますか?」

「……は?」

「今度は水着を着てくれますか?」

「着ないよっ!!」


——なんだよ、心配して損したっ!!

 皐月はムっとしながらモップ掛けを終え、掃除用具を片づけた。カルテを予約の時間順通りに用意し、時計を見る。後十分で開院時間だ。


「皐月君、最初のお客さんがもう入口前に来ていますので、案内しちゃってください」

「『お客さん』って言うなっての!」


 皐月は入り口のドアを開けると、外で申し訳なさそうにしている男性を見つけ、「どうぞ」と声を掛けた。


 精神科は長く通院する事が多い為、自ずと患者とは顔見知りになる。診療内容的にも患者のプライベートに立ち入る為、信頼関係を築く事も重要だ。だからこそ、看護師に求められる能力として、精神科的な対応ができる素養を持つ必要がある。

 心を病んでいる患者とのコミュニケーションはなかなかに苦労が多い。中には酷い言葉を掛けられる事もあるし、それにいちいち傷ついていては成り立たない。強い精神力が必要となる。


 忙しく過ごしていると一日が過ぎるのはあっという間だ。最後の患者が診察室へと入り、皐月は待合室の本の整頓をしたりと簡単な片づけ作業を行った。


 けたたましい音が診察室で響く様子が、待合室にまで聞こえて来た。怒鳴り散らす声も聞こえ、皐月はふぅと小さくため息を吐いた。


 陪席者。つまり、医師以外の者を伴う場合、患者に許可を得る必要がある。皐月はそれを心得ているものの、診療室のドアを開き、中へと入った。


 患者の男性は、裁人を酷く罵倒していた。裁人の頬を殴りつけた様子もうかがえる。赤紫色に変色している裁人の頬を見て、皐月はズキリと心を痛めた。


「こんなところに来たくて来たんじゃない!! 俺はただ無理矢理行けって言われただけだ。俺はマトモだ!!」

「警察から精神科を受診するよう、指示を受けたのですね?」

「ああそうだ!! お前なんかに俺の一体何が分かるって言うんだっ!」


——ああ、昨日の今日なのに、裁人にはできるだけ犯罪に手を染めそうな患者に係わって欲しくない。

 皐月は唇を噛みながら二人の様子を見つめた。


 葉山武文はやまたけふみ。それが患者として訪れて、今こうして裁人を怒鳴りつけている男の名だ。彼はストーカー加害者として警察から警告を受け、精神科を受診するようにと指示されたのだ。


「俺と幸奈ゆきなは愛し合っているんだ! それなのに邪魔ばかりしやがって!! お前ら全員ぶっ殺してやるっ!!」


 その言葉に、皐月は恐怖を覚え、チラリと裁人を見つめた。裁人は微笑みを浮かべると、皐月に声を掛けた。


「皐月君。陪席者を伴う場合は患者さんに陪席の目的を伝えなければなりません。勝手に入って来てはいけません」

「分かってるけど、緊急事態だと思って」

「心配には及びません。皐月君は知っているはずです。私はここへ訪れる人を選べますから」


 裁人の言いたい事を皐月は理解していた。有幻メンタルクリニックは完全予約制だ。インターネット上で検索をかける時に、裁人ならば受け入れがたい患者の検索にひっかからないようにすることくらい朝飯前だ。

 つまり、葉山を患者として受け入れると決めたのは裁人自身だということだ。


 二人の会話を聞き、葉山は余計に逆上し、患者用の椅子を蹴った。


「てめぇらみたいな低俗な馬鹿と話してなんかいられるかっ!!」


そう怒鳴りつけると、振り向いて診療室のドアの前に立っている皐月の方へと駆けて行った。


——あ。ヤバイ。殴られる……。


 皐月が呆然としながらそう思った時、葉山がビタン!! と床に転び、顔面を強打した。何が起こったのかとみると、裁人が葉山の両足を掴み、素早く後ろに引いた様だ。


「すみません、お怪我は?」


裁人が自分でやっておきながら、さらりと葉山にそう言った。葉山は顔を真っ赤にすると「痛いに決まってるだろうが! 訴えてやるぞこんな病院なんか!!」と、怒鳴りつけた。


「止めておいた方が良いと思います。私は葉山さんから殴られましたし、椅子も破損しました。警察は恐らく貴方を逮捕すると思います。それと、ここは病院ではなくクリニックです」


 その言葉を聞いて、皐月はゾッとした。


——裁人の身体能力なら、葉山の拳なんか簡単に避けられたはずだ。ということは、わざと殴られたということだ。何かあった時の為に、予め正当防衛を装おうとした……?


 万が一、俺がこうして診察室に入って来て、葉山から暴力を受けそうになった時にも、正当防衛として対処できやすいように……?


「まあ、そんなわけで、私は葉山さんの弱点を握ってしまいました。どうぞ、椅子におかけください。少々ガタつきますが我慢してくださいね。折角来たのですから、診察の続きをしましょう」

「信用できるものか! どうせ俺をブタ箱にぶち込むのに都合のいいことを聞き出して、警察に言うつもりなんだろう!」


裁人は「いいえ」とはっきりと言うと、葉山に向かって手を差し伸べた。


「私達医師は『ヒポクラテスの誓い』を倫理的義務とします。『私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない』というものです。現代は『ジュネーブ宣言』を倫理規定としておりまして、その内容は『ヒポクラテスの誓い』を元に公式化したものですが、こんな一文があります。『私は私への信頼の上で知り得た患者の秘密は、患者の死後に於いても尊重する』。つまり、治療をする上で葉山さんから聞き出した情報を、私は口外できないということです」


葉山は裁人が差し出した手を掴もうとはせず、一人で立ち上がった。そして待合室のドアの方へと向かおうとしたので、裁人は更に声を掛けた。


「貴方が自殺の準備をしていることを、私は知っています」

「……なんだと?」

「命は尊いものです。少し私と会話をしませんか? 治療だと思う必要はありません。貴方の存在がいかに大切なのかを話しましょう」

「命なんか、尊くもなんともないぞ? その辺にごろごろ転がっている」


葉山の言葉に裁人は笑顔のままスラスラと答えた。


「その全てが大切です。大切でなければ、私達医師の存在は不要ということになります。医師だけではなく、医療に携わる全ての人間が不要であるということになってしまいます」

「雄弁な野郎だな。いいか、俺は馬鹿じゃない。お前と命の価値について議論する気はない。分かってるんだ。俺以外は皆馬鹿野郎だってことをな。つまり、無価値だ。お前も……」


と葉山は裁人を指さした後、皐月を指さして、「あんたもだ」と言った。顔には出さないように気を付けながらも、皐月は苛立った。だが、裁人は笑顔のままさらりと言葉を続けた。


「では、葉山さんがいかに優れているかを私に話してください」

「話したところで、外人のお前に分かるはずもねぇよ!」

「いえ、私は国産です」


——裁人、それは変だと思うけど……。


 苦笑いを浮かべた皐月の前で、葉山は小ばかにした様に唇の端を持ち上げて薄ら笑いを浮かべたが、くるりと踵を返した。そして先ほど蹴り倒した椅子を起こし、それへと座ると、「さっさと診察でも何でもしろ」と嘲笑しながら言った。


「けどな、そこの看護師の兄ちゃんには出て行って貰ってくれ」


裁人が皐月を見て頷くと、皐月は僅かに拳を握り締めた後、にこりと微笑んで葉山へと声をかけた。


「わかりました。出て行きます。ですが、もしもそこの医師に対して不満がありましたら、いつでも呼んでください。葉山さんの代わりに殴りに駆け付けますから」


葉山は皐月のその言葉に笑うと、「期待しておく」と言った。



◇◇◇◇



 葉山の診察は随分と長く時間がかけられた。裁人は恐らくそれを見越して彼を最後の予約時間帯に入れたのだろう。葉山がクリニックを出る頃には二十二時を過ぎていた。


 ストーカー加害者は『パーソナリティー障害』に罹患りかんしている可能性が高い。その治療は長期に渡る上、こうした小さなクリニックでは入院設備も無い為、対応が難しい。


——裁人は、どうして葉山さんを受け入れたんだろう……?


 皐月は疑問に思いながら、カルテを片づける裁人へと視線を向けた。葉山は既に帰宅しており、診察室を出る頃には嫌にすっきりとした顔をしていたのが印象的だった。

 クリニックに訪れた時は、自信なさげに俯き、声を掛けても苛立った様にほんの少し頷くだけだったというのに、帰る頃には生き生きとした瞳をしており、皐月が受付の対応で声を掛けた時もハツラツと返事をし、笑顔すら浮かべていた。


「帰宅時間が遅くなってしまい、すみません」


 裁人が申し訳なさそうに皐月に言い、「いや、そんなことは全然構わないんだけど」と返して、皐月は小さくため息を洩らした。

——それより、裁人は大丈夫なのか? 殴られたりなんかして、また人が嫌いになっていやしないか?


 皐月が心配そうに裁人を見つめると、彼はカルテに書き込みながら、ポツリと言った。


「葉山さんには、拡大自殺の傾向がみられました」

「え……」


皐月は絶句し、裁人を見つめた。


 拡大自殺とは、自殺願望があるものの、自分自身で自殺をしようにも死にきれず、他人を道連れに死を選ぶ行為だ。


「それじゃあ、ストーカー被害者の人を殺して、自分も死ぬつもりだったってこと?」


ゾッとしながら思わず上ずった声を発すると、裁人がコクリと頷いた。


「はい。ストーカー被害者の女性は小学生教諭で、既婚者で子供も居ます。葉山さんが拡大自殺を行った場合、被害者は一人では済まなかったと思います。彼の自宅には複数個の手製の爆弾やガソリンがありますから」


眉を寄せた皐月に、裁人は「葉山さんを偏見の目で見てはいけません」と言った。


「分かってるよ。あの人の前でこんな態度は取らない」

「皐月君は優秀で助かります」

「でも、警察には言わないんだろう? 『ジュネーブ宣言』だっけ。一体どうするの?」


裁人はにこりと笑った後、さらりと「いえ、警察には通報しておきました」と言ったので、皐月は驚いて思わず「はあ!?」と、声を上げた。


「薬物使用、自殺の予告、殺人の予告や法的に罪に問われるような内容の場合、守秘義務よりも通告義務が優先されます」

「じゃあ、騙したのか!?」

「いいえ。彼の自宅に爆弾があるということを知ったのは、彼から診察で聞き出したのではなく、私が彼の自宅の様子を見たからです」

「じゃあ、なんでわざわざ診察したんだ!? 殴られてまでっ!!」


——診察する前に警察に通報してしまえば良かったのに!

 と、皐月は裁人の行動が全く理解できないと思った。


 裁人は笑顔のまま皐月を見つめると、「それではです」と言った。


「どういうこと?」

「出所後に、彼は同じことを繰り返します。そして、いつかは計画通り、拡大自殺を実行するでしょう」


皐月は惨劇を想像し、ぞわりと鳥肌を立てて唇を噛みしめた。


「それって、もしも葉山さんが死にきれなかった場合、周りを巻き込んだだけで終わる可能性もあるってことだよね?」

「その通りです。ですが、自殺願望が強く、生命に対する価値感が希薄な状態での刑罰は有効ではありません。死刑こそが彼が求める結果なのですから、希望が成就されたということになります」


 皐月は診察室での葉山の様子を思い浮かべた。小ばかにした様に唇の端を持ち上げて薄ら笑いを浮かべた表情が、嫌に印象に残っている。彼が死刑を宣告され、独房の中で一人自分の死を待ち望み、その顔に笑みを浮かべる姿を想像し、皐月は思わず首を左右に振った。


「それじゃあ……診察の後だとしても、警察に通報したところで意味が無かったんじゃないの?」


 皐月の問いかけに裁人は「いいえ」とハッキリと答えた。


「診察室で、私は彼にいかに自分の『生命』が尊く素晴らしいのかを説いたのです。彼が幼少期から大人になるまでにした様々な善行を話し、自分の命は尊い物なのだと理解させました。彼には自己愛性パーソナリティー障害の気質もあるので、その点を上手くコントロールしながら『生命』についての尊さを説くのは、なかなかに苦労し時間を要しました」


裁人の言葉に、皐月はポカンとして、「どういうこと?」と、聞いた。


「簡単に言うと、『死にたく無くしました』。自己への過大評価を少しずつ削りつつ、周囲も葉山さんと同じであると認識させたのです」


 つまり、『死にたくない』と思わせた上で警察に突き出すという天から地へと突き落とす行為を、裁人はさらりとやってのけたということだ。


「鬼畜AI……」

「殺人はいけません」

「偏見持ったら駄目って言ったくせにっ!!」

「偏見ではありません。もう一度言いますが、治療せずに刑罰を受けた場合、彼は出所後に今度こそ拡大自殺を成し遂げようとします。それは最も避けなければならない事です」


「ところで……」と、裁人はへらへらと笑って皐月を見つめた。


「殴られた私を心配して駆けつけてくれたということは、皐月君は私に好意を持っていますか?」

「持ってねぇよっ! もう片方の頬もぶん殴ってやろうか!?」

「エラーになるので止めてください」


裁人は唇を尖らせると、いじけた様に皐月を見つめた。


「皐月君は嘘つきです」

「何がだよ!?」

「今日の診療後に労いの言葉をくれると約束しました」


キョトンとする皐月を、裁人は不満そうに緋色の瞳で見つめ、目を逸らした。


「嘘はよくありませんよ、皐月君」


——なんか、子供がいじけてるみたいじゃないか?

 皐月はぷっと噴き出すと、裁人の茜色の頭を優しく撫でた。


「うん、頑張ったね。偉いよ裁人は」


子供をあやす様に言った皐月に、裁人は嬉しそうに満面の笑みを浮かべると、「やはり皐月君は私に好意を……」と言いかけて、「持ってないから!」と、バッサリと切り捨てられた。


 有幻メンタルクリニックは今日も患者の心を救うべく、密かに営業中である。

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