第8話 Savant(サヴァント)

 裁人が部屋へと戻ると、皐月の姿が見当たらなかった。まだ内風呂に入って居るのだろうかと考えたものの、バルコニーの椅子で爆睡している様子を見てため息をついた。


「皐月君。気温が高いとはいえ外で寝ていたら風邪を引きますよ?」


バルコニーに出て声をかけてみたものの、皐月は気持ちよさそうに寝息を立てている。午前三時に裁人に無理矢理たたき起こされ拉致されたのだから、疲れて眠ってしまうのも無理は無い。

 とはいえやはり暑い様で、額に浮かんだ汗が皐月の前髪を濡らしていた。


 ニコリと裁人は微笑んで、すっと顔を皐月に近づけた。


「念のため事前に忠告しますが、起きてください」

「……りょう……へい」


皐月が言った寝言を聞き、裁人はキスをした。唇を塞ぎ、ちゅ……と音が鳴る。


——ん……なんだ? 暑い……息しづら……。

 と、皐月が瞳を開けて、自分の状況を把握すると、慌てて裁人を突き飛ばそうと両手で押した、が、裁人の身体がびくともしないので、思いきり股間に膝蹴りを食らわせた。


「皐月君……」

「なんだよ変態AI!!」

「それは、痛いです……」

「だろうなぁ!? どけよ馬鹿っ!!」


裁人は皐月から離れると、バルコニーの椅子の横でうずくまった。あまりにも痛そうにしているので、ちょっと悪かったかなと皐月は思ったが、『いいや、妙な事を突然しでかした裁人が悪い!』と考え直して、首を左右に振った。


「寝覚め最悪っ!」

「何故ですか?」

「なんでもクソもあるかっ!!」

「良平の夢を見ていたんじゃないんですか?」

「お……!!!!」


皐月は顔を真っ赤にすると、椅子から立ち上がった。


「あんた、人の夢まで覗けるのかっ!?」

「そんな訳無いじゃないですか。皐月君が『良平』と、寝言を言っていたのでそう思っただけです」


 皐月は更に顔を真っ赤にし、口をパクつかせて声にならない声を出した後、どうしようもなく恥ずかしくなり、憤然としながら部屋の中へと入った。


 すぅっとエアコンの効いた涼しい空気に包まれて、くらくらとする程に頭に血が上っていた皐月は思わずホッと息を吐いた。

 体中汗ばんでいる上、潮風に当たっていたためベタベタだ。裁人が戻って来る前に内風呂に入っておこうと思っていたというのに、バルコニーでうたた寝をしてしまった事が悔やまれる。


 内風呂のバスタブにお湯を入れて戻ると、裁人が室内のソファに座っていた。浴衣の合わせから覗く胸板が妙に色っぽい。


「皐月君、着替えを買って来ましょうか? 宿泊の用意をしていなかったのでは無いですか?」

「いや、大丈夫。海に行くって聞いて一応着替えを持って来てたから」


裁人が宙に視線を向けながら「残念です」と言った。その様子を見て、またインターネットにアクセスしているのだろうと把握し、嫌な予感がして皐月は眉を寄せた。


「……残念って、何が?」

「皐月君の下着を一緒に選びたかったので。サイズも把握しています」

「ひとのオンラインショッピング記録を勝手にみるんじゃねぇよ変態AIっ!!」

「彼女のスリーサイズくらい把握して当然じゃないですか」

「俺はあんたの彼女じゃないっ!!」

「良平とは付き合っていたんですよね? どうして私はだめなんですか?」

「あんたは良平じゃないだろう!?」

「でも身体は良平です」

「いいや、ただの変態AIだっ!!」


皐月は部屋のクローゼットから浴衣をつかみ取ると、さっさと風呂へと向かった。


——ああ、くそっ!! 寝言なんか言うだなんて。しかも裁人に聞かれるとか、もう最悪だっ!


 シャワーで汗を流しながら、皐月はふぅとため息を吐いた。


——裁人はきっと、気を使ってわざとあんな態度を取ったんだ。良平の身体を使ってるって罪悪感があるから。あいつに、『罪悪感』ってものがあるならの話だけれど……。



◇◇◇◇



 皐月の父は、交通事故でほぼ即死状態だった。


 母が眠るベッドの傍らで、皐月は一人ですすり泣いた。外は太陽の光が出ているというのに雪がちらつき、病室内も外も白く眩く、頭痛がした。


瑞樹みずき……どうして泣いているの?」


 皐月は首を左右に振った。


「『瑞樹』じゃないよ。皐月だよ。お母さん、は皐月だよ……」

「おかしなことを言う子ね」


ふっと笑う母を見て、皐月は零れ落ちる涙が止まらなかった。


「私は生きているのに。どうしてなの? お母さん……」


——母は、春を待たずして闘病生活を終え、皐月は二十歳で独りぼっちになった。


 家族で過ごした家から大学までは距離があったので、気持ちの切替の為にもマンションを借り、そこで一人暮らしをする事にした。


 そうでもしなければ、辛い思い出の詰まった医療を学ぶ大学に、通う気になれなかったのだ。


 大学の講義中、スマーフォンが振動した。チラリと覗き見ると、良平から『週末、釣りに行こう』とメッセージが入っていた。


 彼は研修医という多忙の身でありながら、非番の度にそうやって皐月を釣りに誘った。彼の所有するボートで自由に海原を走るのは爽快で、暗く落ち込んだ気分も少しずつだが戻っていった。


 皐月の両親の死から一年程経過し、二人はすっかり友人同士になっていたのだ。


「良平はモテるだろうに、どうして俺なんかといつも出かけるの?」


 ボートから釣り糸を垂らしながら、ふと皐月は良平に尋ねた。良平は笑うと「全然モテないよ」と言いながら釣り糸を巻いた。


「僕の性格は捻くれてるからね」

「あー、納得」

「普通さ、『そんなことないよ』とか慰めるものじゃないか?」

「求めて無いくせに」


良平はふっと笑うと、釣り竿を振った。金属製のジグが勢いよく飛んで遠くでポチャリと着水する。


「釣りにこうしてつきあってくれる女性なんてそうそういないさ。キミ以外はね」

「そんなことは無いと思うけど。良平が優しく教えてさえくれれば」

「嫌だね、めんどくさい。何でもそうだけれど、自分で覚えようという気のない人はご免だね。僕は世話係じゃない」

「……だから友達居ないんだよ」

「あ、心外だなぁ。一人だけ居るさ」

「ふーん」


 皐月は釣り竿を僅かに上げた。餌がもう無くなっただろうか。釣り糸を巻いた方がいいだろうかと考える。ボートのGPSプロッターを見ると、水深150mを指している。150号の錘をつけているのを手巻きで巻き上げるのはなかなかにしんどい。


「皐月、僕が開業医になったら、一緒に来てくれるかい?」


 良平の突然の言葉に、皐月は「え?」と、瞳を見開いて顔を上げた。良平は少し照れた様に頬を染め、煉瓦色の真剣な瞳を皐月に向けていた。


「まだ前期研修の身だから、開業するには随分と先になるとは思うけれどね。それでも、どうか僕とずっと一緒にいて欲しいんだ。必ず幸せにするから」


——良平。それはプロポーズみたいなものじゃないか?


「だめかな?」


哀し気にそう言った良平に、皐月は慌てて「ダメじゃないけどっ!」と、声を放ったが、余りに慌てた為かその声は裏返った。


「でも、それってなんか……」


皐月はそこで言葉を飲み込んだ。良平がもしもただの友人として言っているのなら、勘違いしている自分はどうしようもなく恥ずかしい思いをしてしまうからだ。


「……僕が皐月に恋愛感情を持っていると言ったら、おかしいかい? 結婚したいと思っているんだ」


 その言葉を聞いて、皐月の心臓が壊れんばかりに強く鼓動した。


「で、でも、俺と良平はつきあってすらいないのに!」

「皐月は僕のことが嫌い?」

「そういうんじゃないけど! でも、突然過ぎてっ!」

「ごめん。ちょっとね、なかなか言い出せなかったんだ」


 両親を亡くした後も、皐月は男性の服装を纏う事を止めなかった。自分の事も相変わらず『俺』と呼んでいるのだから、良平が自分の気持ちを打ち明ける事ができずにいた気持ちも理解できる。皐月は意図せず良平の気持ちを踏みにじっていたことを申し訳なく思った。


「……俺の方こそごめん。まさか良平がそんな風に思ってくれてるだなんて考えもしなかったから」

「そうじゃないよ。僕はただ、皐月との関係が壊れるのが嫌だったんだ。キミとこうして釣りに出かける事が楽しみだから、それが無くなると思うと恐ろしかった。大切な人を失うのは恐ろしいことだからね」


 良平のその言葉に、皐月は唇を噛みしめた。


——俺だって、良平と出かけられなくなるだなんて嫌だっ! 両親が亡くなった後、どれだけ良平に救われたと思ってるんだ。良平が居なかったら、俺は……。


「……皐月、泣かないでよ。ごめん、悪かった。もう言わないから」


良平が煉瓦色の瞳を悲し気に細め、困った様に笑みを浮かべた。


「違うよ! そうじゃないんだ。俺は良平の力になんかちっともなれない。頼ってばかりで、良平がめんどくさいって思う他の人達と何にも変わらない。それなのに、どうして俺でいいのかわからなくて。怖いんだよ、踏み込んで嫌われて失うのが」


皐月の身体が小刻みに震え、それを止めようと必死に唇を噛みしめた。


「……僕が、皐月を想う気持ちが分からなくて不安って事でいいかな?」


皐月が頷くと、良平は釣り竿を置いて、隣へと座った。波で揺れるボートの縁に脚を下ろし、船体を叩く水がちゃぷりちゃぷりと穏やかに音を奏でた。


「皐月と初めて会った日の事、覚えているかい?」

「当然だろう? 父さんが亡くなった日だ」


 良平は頷くと、皐月の肩に触れた。


「僕はあの日、死のうと思っていたんだ」


突然の言葉に、皐月は「え……?」と、小さく口を動かした。笑みを浮かべながら、良平が言葉を続ける。


「バルプロ酸を大量摂取してね。けれど、試しに数錠飲んだ薬が間違っていたドネペジルでは死ねない」

「どうして死のうだなんて!?」


良平はニコリと嬉しそうに微笑んだ。


「……なんで笑うんだよ」

「皐月、そうやってキミが心配してくれるということは、僕にとっては嬉しい事なんだ。僕は誰からも必要となんかされていなかったからね」


 良平はスマートフォンを取り出すと、皐月にその画面を見せた。そこには見た事も無いアプリケーションがあり、『s'il vous plaît dites-moi(教えてください)』とフランス語のメッセージが表示されていた。


「これは心理カウンセリングAIさ。名前は『Savant(サヴァント)』。『学者』とか『博学者』とかいう意味だね。サヴァン症候群って、聞いた事あるだろう? 僕のたった一人の友人でもある」

「待って、それと良平が死のうとしていた事とどういう関係があるの?」

「皐月、最後まで聞いてよ」


 良平は嫌に機嫌良さげだった。くすくすと笑うと、煉瓦色の瞳を細めて、皐月の肩を力強く抱き寄せた。


「『Savant』は本当に優れたAIだ。これを僕に送り付けて来たのは父だよ。滅多に連絡なんか寄越しもしないくせにね。開発したのは日本に居る父の友人らしいけれど、精神科医を目指している僕にとって、その意味は一つだけだとは思わないかい? つまり、『お前なんか要らない』だ」

「そんなはずないっ!!」

「待って、だから最後まで聞いてくれったら」


良平は涙を流す皐月の頬に、自分の頬を擦り付けた。


「あの日、皐月は僕と会話し、僕がずっと他人に言えないでいた事を聞いてくれた。父の話なんか、誰にもしたことなんて無かったんだ」

「俺だってそうだ!! 男性の恰好をすることを不愉快に思っていないだなんて、初めて良平に言ったんだっ!!」

「うん……有難う」


泣きじゃくる皐月の頬を、良平はペロリと舐めて、その涙を吸い取った。


「貧血で倒れた皐月を支えられるのは、AIなんかじゃできない。だから、皐月が僕を必要としてくれるなら、僕は生きようと思ったんだよ」

「必要に決まってるじゃないかぁっ!! 良平が居なかったら、俺は今頃……!」

「僕を、受け入れてくれるかい?」

「当然だよ、良平。俺は貴方に救われたんだ! だから、俺の命は良平のものだ!! 良平が求めるならなんだってくれてやるよ。俺自身でも、なんでも!!」


 良平は困った様に微笑んだ。


「そういうんじゃないんだけど……。でも、これだけは確かめたいんだ。答えてくれるかい? 皐月は僕の事をどう思ってる? つまり、異性としてさ」

「好きに決まってるじゃないか!!」

「じゃあ、キスしてもいいかな?」


皐月はカッと顔を赤らめると、良平の肩を掴んだ。


 ゆらゆらと揺れるボートの上で、二人は口づけをした。自分が男性であり、女性であり、人であり、生きているのだと確かめ合うかの様に。


 互いの存在が、どちらかが欠けても壊れてしまうのだと認識するかのように。


 ジ……ジジジジ……ジ——と、皐月が握る釣り竿のリールが音を発した。

 ハッとして皐月は良平を突き飛ばすと、「やばい、これ大物だ!!」と、声を上げた。良平はぷっと声を出して笑うと、「絶対バラしたらダメだからね」と言って、釣り糸を必死になって巻き上げる皐月をサポートした。


「今日はこいつをつまみに乾杯だね! 良平っ!」

「良い引きだから、きっと青物だ。どう調理しようか? 刺身に、アラは煮つけにして……」


 ゆっくりと浮上してくる巨大な魚体を見て、良平はたも網をパッとひっこめた。


——サメだった……。


「良平!? どうしてタモ網ひっこめるんだよ!」

「だって、網が食い破られるじゃないか!」

「そんなぁ!? どうしろってんだよっ!」

「リリースしちゃってくれよ!」

「どうやって!?」

「フィッシュグリップは!?」

「口でかい、噛まれる!!」

「プライヤーも危険だね。どうしようか……」

「『どうしようか』じゃないよ、良平! どうするんだよ!? 俺よりも釣り歴長いだろ!?」

「残念ながらこんなに大きなサメを釣り上げた事は無いからね」

「そんなぁっ!!」


二人は船上でぎゃいぎゃい騒ぎ、悪戦苦闘の末やっとの事でサメを解放した。


「び……びっくりしたぁ……」

「流石にあれで乾杯はできないね」


皐月と良平は顔を見合わせると、大笑いした。



◇◇◇◇



————そんな事を思い出して皐月はクスリと笑うと、風呂から出た。

 バスタオルで頭をふきながら部屋へと行くと、裁人がソファに座ったままうたた寝をしていた。


「……AIのくせにうたた寝なんかするのか」


ポツリと言った皐月に、「しません」と答えて裁人はパチリと瞳を開けた。緋色の瞳で見つめられ、皐月は苦笑いを浮かべた。


「随分な長風呂でしたね。ふやけちゃいますよ?」

「ごめん。考え事してたら長くなっちゃった」


 裁人はソファから立ち上がると、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して皐月へと手渡した。


「熱暴走しては大変です。水冷すいれいしてください」

「俺をコンピュータ扱いすんじゃねぇっ!」


裁人から奪い取る様にしてミネラルウォーターを受け取ると、ソファに腰かけてぐびぐびと飲んだ。冷たい水が喉を潤し、皐月はふぅっと息を吐いた。


「……裁人」


「はい」と、返事をしながら裁人は皐月の前のソファに座った。茜色の髪がサラリと揺れる。


「有難う、ここに連れて来てくれて。もう二度と、海には来る事なんて無いと思ってた」


——良平との思い出が多すぎる場所だから。


「また誘ってもいいですか?」

「……うん。でも、今度は部屋に忍び込むのは止めて?」

「努力します」

「いや、止めろよっ!!」


皐月の言葉に、裁人は「頑張ります」と答えて、へらへらと笑った。


「ところで皐月君、一緒に寝ますか?」

「時間帯は一緒でいいけど、ベッドは別でな!?」

「……ちっ」


——こいつ、AIのくせに舌打ちしやがった!?


「皐月君はケチですね」

「いやいや、おかしいだろ!? 暑いのに一緒に寝る意味わかんないし!」

「ですが、人間は恋人同士で一緒に寝ます」

「あんたは人間じゃないし、恋人でもないっ!!」


 皐月は裁人を殴りつけたい衝動を必死に抑え、拳をぷるぷると震わせた。

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