第7話 解離性健忘

「美味しかったぁ~! ここのホテルのレストラン、最高っ!」

「お気に召した様で何よりです」


 裁人と皐月の二人は、連休を利用して海辺のリゾートホテルへと訪れていた。と言っても、裁人が強引に皐月を連れ出したのだが。

 レストランでの食事を終え部屋へと戻ると、皐月はソファへと腰かけて満足気にお腹を撫でた。こんな風に旅行に出かけたのは、だなと考えて、ふと裁人へと視線を向けると、裁人はいつもの気の抜けた笑みを浮かべながら、クローゼットの横に置かれているスーツケースを開いていた。


「皐月君。折角なので私は大浴場に行ってきます。ここの温泉はアトピー性皮膚炎にもいいらしいです。アトピーは皮膚科心身症のなかでも代表的症例ですので、興味があります」

「AIのくせに温泉に入るんだ?」

「はい。初めてですから楽しみです」


裁人は手際良く準備を始めた。スーツケースから着替え用の下着を取り出す様子を見て、皐月はなんとなく気まずくなってつっと目を逸らした。


「皐月君は行かないのですか?」

「……俺は内風呂でいいや」

「生理じゃないのに内風呂を使うんですか? 皐月君の生理の周期は月初です」

「何で俺の生理の日を把握してんだよ変態っ!!」


カッと顔を赤らめて怒鳴りつける皐月にへらへらと裁人は笑って返すと、「では行ってきます」と言って立ち上がった。


「あ。裁人、ルームキー忘れてるよ」

「私は無くても電子ロックならば開けられますので問題ありません。それよりも落とした時のリスクを考慮し、持ち歩かない方が無難です」

「……あっそ」


——次から家の鍵はチェーンロックを忘れない様にしないと。


 裁人が部屋から出て行った後、皐月はバルコニーに出て外を眺めた。日中のうだるような暑さは軽減されたものの、涼しいとはお世辞にも言えない。だが、眼下に広がる海へと続く白い木製の階段がライトアップされており、リゾートならではの幻想的な雰囲気をかもし出されている。

 波の音が心地よく、皐月はバルコニーに置かれている椅子に掛けて、暫くぼうっと夜の海を眺めることにした。


 沖の方に光るのは漁船の灯りだろうか。チラチラと光を発するのは灯台だろう。と、眺めながら考えて、ふと、皐月の脳裏に言葉が浮かんだ。


『海はいいね。眺めていると、嫌な事を全部持って行ってくれる気がするよ』


 栗色の髪を潮風になびかせて、煉瓦れんが色の瞳を細めて良平が言った言葉だった。


 良平とは二人でよく海に来た。と言っても、海水浴を楽しみにではない。釣りが趣味である彼に付き合い、訪れていたのだ。


——まさか、裁人と一緒に来る事になるなんて。


 皐月はぎゅっと拳を握り締めた。


——良平。海は……嫌な事だけじゃなく、



◇◇◇◇



 皐月が無現良平むげんりょうへいと出会ったのは、皐月の母親が入院する病院での事だった。成人式が近く、新調した華やかなスーツを着て、皐月は父と二人で面会に来ていた。


瑞樹みずき。とても良く似合っているわ。素敵ね。母さんも一緒にスーツを選んであげたかったわ」


母は誇らしげに皐月を見て言った。『瑞樹』は、皐月の兄の名だった。兄は五歳という幼さで交通事故に遭いこの世を去っている。


「温かくなったら、桜の下で写真を撮りましょう。瑞樹の大学の入学式にも、母さん出られなかったから……あら、どうして出られなかったのかしら……」


不安気に宙へと視線を向けた母に、皐月はニコリと笑った。


「写真、絶対撮ろうね。それまでに早く良くなってくれないと」

「そうね。母さん頑張るわ!」


 解離性障害かいりせいしょうがい(dissociative disor-ders)。ストレスやトラウマによる影響で、解離性健忘かいりせいけんぼうを患った母の頭の中には、『皐月』という存在が消えていた。


 しかし、母が入院しているのはそれが理由ではなかった。彼女の身体は重度の病に侵され、余命半年と宣告されていたからである。宣告されたのは昨年の十月。しかし、解離性健忘の症状はもっと随分と前から発症していた。


「瑞樹、父さんは外せない会議があるから、先に出るよ」


父も母の前では皐月を『瑞樹』と呼んだ。母を混乱させない為だ。皐月は頷き、「行ってらっしゃい」と父を送り出した。


 父は成人式用に母の前で着るスーツとは別に振袖を用意しようと提案してくれたが、皐月はそれを断った。成人式に出るつもりは無かったし、男性の服装を身に纏う事にさほど抵抗が無かった。元々女性らしい服装は好みでは無かったし、むしろ学校の制服のスカートにも抵抗があったくらいだ。


「天野さん。検温をお願いします」


 母の症例はよっぽど珍しいのか、指導医と共に沢山の研修医が訪れる。勿論、大勢で押し寄せるような事は無いし、事前に家族の許可を受けるわけだが、正直気分のいいものでは無かった。強制ではないとはいえ、入院する母の事を考えると、断ろうにも断りづらい入院患者の家族という立場がある。

 特に皐月は看護師を目指して大学へ通っている為、尚更だった。


「母さん。俺、大学の友達にちょっと電話してくるね」


訪れる医師達を前に、母に気遣う様に適当な口実を言って席を外すのはいつものことだった。


 皐月は売店でコーヒーを買おうと思ったが、シャッターが閉まっていた。年始の連休明けなのだから仕方が無いと諦めて、自販機で缶コーヒーを買って、ガランと空いている休憩室の椅子に掛け、今にも雪が降り出しそうな寒空の外を眺めた。


——俺も看護師になったのなら、母の様な患者の看護をすることもあるんだろうな。


 そんな事を考えながらコーヒーを一口飲むと、後ろの方の座席に誰かが座る気配を感じた。

 ぶつぶつと何かしきりに呟きながらメモを取っている様子が伺える。声色から男性であることがわかる。窓ガラスに反射して映るその人物は白衣を身に纏っていることから、医師であると伺い知れた。

 顔をよく見ようと目を凝らした時、彼は「あっ!」と声を上げた。


「薬間違えた……」


彼の言葉に思わず「ええっ!?」と、反応し、皐月は振り返った。彼はハッとした様に栗色の髪の頭を掻き、煉瓦色の瞳で皐月を見つめた。


「あ……いや、患者さんのじゃないよ。僕が飲む薬の事だから安心して」


————それが、無現良平との最初の出会いだった。


 すっと通った鼻筋に色白の肌。明らかに日本人離れした彼の風貌を見つめながら、皐月は気まずそうにため息を吐いた。


「自分が飲む薬でも、間違えたらダメだと思いますけど……」

「それはごもっともだね」


 彼は愛嬌があるような笑みを浮かべた後、突然つっと目を逸らした。そして再びブツブツと言いながらメモを書き入れ始め、皐月は彼に興味を抱いた。


「外国人の方ですか?」


 彼はメモを書き入れる手を止める事無く、「いいや違うよ」と声を放った。


「それは僕の見た目を指してそう言っているんだろうけれど、そうじゃない。キミは単純に、自分との格差を僕に見出して優位に立ちたいと思っているだけだ」


——なんだ、こいつ。ムカツクな。


「気に障ったのなら謝ります。ただ、髪や瞳の色が綺麗だったから聞いただけです」

「不可解だね。悪いけれど、僕にはがない」

「……は!?」

「そんな風に容姿を誉められても、期待には応えられないと言っているだけさ」

「期待って、何のことだよ!!」


思わず立ち上がって振り返った皐月を、彼はメモを取っている手を止めて見上げた。


「あれ? 女性だったのか。それは失礼、勘違いしちゃったみたいだね。男性物のスーツなんか着ているものだから。まあ、どちらにしろナンパにいい返事を返す事はできないよ」

「誰がナンパなんかするかっ! あんたさ、よっぽど自分の見た目に自信があるのか知らないけど、自意識過剰過ぎだよ」

「自意識過剰だって? まさか。僕はいたって冷静さ」

「どこが冷静なんだよ。めちゃくちゃ苛ついてる様に見えるけど!?」


皐月の言葉に、彼は煉瓦色の瞳を見開いてキョトンとした顔をした。気難しそうな様子が一変し、嫌にあどけない表情が垣間見えた。


「ん? ……ああ、成程。イライラしているのか、僕は」


彼はサラサラとメモを書き入れると、ニコリと微笑んだ。


「薬の影響だ。僕が飲んだのはつまり、ドネペジルだ。バルプロ酸を試す予定だったのに……」


——こいつ、自分の身体で薬の副作用を試しているのか?


「キミは患者ではなさそうなところを見ると、ご家族の面会かな?」

「ええ」

「ちょっと待って」


 彼はすぅっと深呼吸をすると、メモ帳を閉じた。煉瓦色の瞳でじっと皐月を見つめ、頷いた。


「よく見るとなかなかの美人じゃないか」

「あんたがナンパしてんじゃないかっ!!」

「いや、そういうわけじゃないけれど。僕が言いたいのは、どうして美人なのに男性物のスーツを着ているのかって話さ」


皐月はため息をつくと、ぼそりと「301号室」と言った。彼はそれでピンときたようで、「なるほど」と頷いた。

 皐月の母が病院の中でも有名な患者であり、個室であることで、部屋番号一つでこの病院の医師であるなら直ぐに感づく。


「僕はレジデント(研修医)の無現良平だ。今日は非番なんだけれど、家に居ても落ち着かなくてね。キミのお母さんについては大変興味深く思っているよ。とても珍しい症例だからね」

「そういう言い方、止めて貰えます? 患者の家族に対して失礼じゃないか。まるで実験体だ」

「分かっててわざとそう言ったのさ。そう思っているのに隠す方がもっと失礼だからね。違うかい?」


 良平の言葉に皐月はすんなりと頷いた。そういうはっきりとした言い方の方がよっぽどいいと思ったからだ。母に対して、周囲の人から「大丈夫ですよ」「心配ありません」と、言われる度、『何がだ』と何度言い返したくなったことか知れない。

 上辺だけの取り繕った言葉よりも、思っている事をずばりと言ってくれた方がまだ楽だ。


 少なくとも皐月にとってはそう感じていた。皐月が男性物の服で面会に来ても、憐れみの目を向けるだけで、それに対して誰も何も触れない。本当は心の中でどう思っているのかと勘繰る手間を思えば、良平の様にはっきりと言ってくれる方がどれほど楽だろうか。


「……俺は天野皐月と言います」

「成程、皐月ちゃんか。お洒落もしたい年頃だろうに、大変そうだね」

「『ちゃん』は止めて貰えます? 俺は元々、女性らしい服装は好みじゃないし、この恰好にも抵抗は無いんです。この件に関して同情して頂く必要はありません」


皐月はいつもその言葉を大にして言いたかった。母の為に兄の身代わりとしてだけの理由で、男性物の服を着用しているわけではないのだと。

 けれど、聞かれもしない事には答えられもしない。憐みの目で見つめられる度、そうじゃないと心の中で何度叫んだことか。


「皐月さんと呼ぶのもなんだか抵抗がある気がするね。じゃあ、皐月でいい?」

「構いませんよ。えーと、無現先生」

「『先生』は止してくれないか。僕の事も『良平』でいい。さん付けも勿論不要さ」

「いきなり呼び捨てにはできませんよ」

「いや、いいんだ。そう呼んでくれると嬉しいから。ほら、呼んでみてくれるかい?」


突然そんな事を言いだす良平に、皐月は遠慮して首を左右に振ったが、彼が期待を込めたような瞳で見つめるので、仕方なく口を開いた。


「……良平」


 皐月が躊躇いながらもそう呼ぶと、良平は嬉しそうに何度か頷いた。

 煉瓦色の瞳が綺麗だ。長身の彼が白衣を着て手を組む様子は絵になる程に美しく見えた。


「先ほどはすまなかったね。僕も何かと外国人扱いされることが癪だったんだ。僕を見て不安気にする患者さん達も多いものだから。僕の父はフランス人ね」

「……?」

「ああ、ほとんど会った事が無いんだ」


 良平はそう言って、手帳から一枚の写真を抜き出して皐月に見せた。雑誌の記事か何かの切れ端で、不機嫌そうに取材を受けるプラチナブロンドの髪に金色の瞳をしたやたらと美しい人物だった。髪や瞳の色はともかく、顔立ちは良平によく似ていると思った。


「これが僕の父だ。フランスの天文学者で、外資系の会社をいくつも経営している大富豪らしい。お陰で金銭的に苦労する事は無かったけれど、直接僕と顔を会わせる機会なんて作ってもくれなかった人さ。だから、僕は尚更に外国人扱いされるのが気に障るんだろうね」


 皐月は良平も自分と同じ『孤独』を抱えた人なのだと思った。そう思うのは寂しさからくる共感者を求めたいが故のことなのだろうかとも考えたが、家族という生まれながらにして当然与えられるべき存在を失っているという点では、少なからず同類であると思えた。


「皐月は、自分の存在を認めて貰えなくて寂しいかい?」


良平の言葉に、皐月は僅かに眉を寄せ、身動きが取れなくなった。


——良平は、どうなの?


口に出来ない問いかけを頭の中で発すると、良平はにこりと微笑んだ。


「この出会いは、運命かもしれないね。僕はそんな言葉を信じない性質なんだけれど、何故だかそう思わずにはいられないんだ」

「……ナンパ?」

「当たり」


 ふっと良平が柔らかく微笑んだ。皐月も困った様に笑うと、スーツのポケットでスマートフォンが振動した。最初の何度かの振動でメールかSNSだと思っていたが、暫く振動するので面倒そうにポケットから出した。


 父の携帯からの着信だ。


 良平が促す仕草をしたので、皐月は電話に応答した。


 しかし、電話の相手は父では無かった。救急隊員が、交通事故に遭った父を今から病院に搬送するので、至急搬送先へと向かって欲しいという連絡だったのだ。

 休憩室内は人気ひとけが無く静まり返っていたので、その会話の内容は良平にも筒抜けだった。


 救急車のサイレンの音が近づいてくる。


 皐月は青ざめたまま窓の方向へと視線を向け、立ち上がった。が、すぅっと冷たいものが首の下へと落ちる感覚があり、よろめいた。看護師を目指す自分でも貧血だと分かったが、倒れる自分の肉体を制御する術が無い。


——ああ、このまま倒れて怪我をするんだろうな……。


皐月は良平に支えられた事も気づかず、そのまま気を失った。

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