第6話 難発性吃音症

 佐島浩太さじまこうたは、スーツを着込み、緊張した面持ちでホテルのロビーにあるソファに腰かけていた。丁度海水浴シーズンの連休中日である為、ビーチを眼前に構える白亜の高級リゾートホテル内は賑わいを見せており、チェックインに訪れた客達や、待ち合わせ、家族をビーチで遊ばせて仕事をしている父親等、様々な面々で混雑していた。


 ロビーにはオープンラウンジが設けられており、アイロンが綺麗にかけられたワイシャツの上にベストを身に着けたウェイターが、品良く客の前にドリンクを置く姿が見え、浩太はその様子をじっと目で追っていた。


 メニュー表を開いて渡す仕草、オーダーを取る様子。会釈をして品よく歩く姿を眺めては、浩太はため息を吐いた。


「チェックインの手続きをしてきますから、皐月君はこちらで待っていてください」


 お世辞にも静かとは言えないロビー内で、嫌に通る声が聞こえたので、浩太はそちらへと視線を向けた。茜色の髪をした長身の男性が機嫌良さげに笑みを浮かべ、連れとおぼしき青年に声を掛けている。


「ったく、強引なんだからあんたはっ!」


茜色の髪の男性とは裏腹に、連れの青年は不機嫌な様子で鼻を鳴らした。どちらも整った顔をしており、特に茜色の髪という異質さに、浩太以外の者達も彼ら二人に注目していた。


——目立つ人たちとは、関わり合いになりたくないな。

 と、浩太が思い、パッと視線を外した。視線を外した先には空いているソファがあり、それは浩太の目の前にあるソファであることに、嫌な予感を覚えた。


 連れの青年が空いているソファへと近づいてくる。


——頼むから、そこに座るなよ……? ああいった自分の容姿に自信がありそうな類の人は、まるで周囲を牽制するかのようにどっかりと腰を下ろすから、気分が悪い。


 念じるように考えた時、浩太の期待を裏切る形で連れの青年がそのソファへと腰かけた。

 しかし、青年の座り方は物静かなもので、ソファが軋む音すら鳴らさずにそっと掛けた様子に、浩太は意外に思ってじっと目の前の青年を見つめた。


「あ、すみません。誰か来る予定でしたか?」


浩太の視線に気づき、彼は申し訳なさそうに言った。浩太はハッとして口を開きかけたが、言葉を発せずに首を左右に振った。


 気まずい空気が流れた。浩太は席を立とうかどうしようか迷ったが、ロビー内は混雑している為、空いているソファを探すのも苦労しそうだ。

 時刻は十五時半。ホテルのチェックイン時間は大抵十五時からである為、最も混雑する時間帯だ。ひっきりなしにロビーの自動ドアが開く為、その度に外のうだるような熱気が入り込み、ロビー内の気温も上がってきた。


 スーツを着て訪れた事を今更ながらに後悔しながら、浩太は黙って暑さに耐えた。背中を流れる汗が不快にもワイシャツに張り付き、浩太は唇を真一文字に結んで眉を寄せた。


 目の前に座る青年をチラリと見ると、彼は暑そうに手でパタパタと扇ぎ、その僅かな風で彼の長い前髪がサラリと揺れた。白い肌に二重の大きな瞳。紅を指したような赤い唇が女性的に見えた。自分も彼程の美青年ならば良かったのにと、浩太は小さくため息を洩らした。


——いいや。どんなにか僕が美青年だろうと関係無い。僕にはがあるのだから。


 膝の上で浩太はぎゅっと拳を握り締めた。


「お仕事か何かですか?」


目の前の青年が穏やかな笑みを向けて声を掛けて来た。浩太がじっと見つめてくるのだから、声を掛けずにいられなくなったのだろう。

 浩太はだらだらと背に更に幾筋もの汗が流れるのを感じた。


「………」


 苦し気に顔を歪めたまま、浩太の身体が強張った。そのまま十秒以上もの時間を要し、やっとのことで言葉を発した。


「……僕は………」


 再び苦し気に顔を歪め、身体を強張らせた。


——ああ、めんどくさい奴に声を掛けたと、彼は後悔していることだろう。きっと僕の言葉なんか、もう聞いてすらいないはずだ。


 佐島浩太は吃音症きつおんしょうだった。幼少期からその症状があり、周囲から揶揄からかわれていた。わざと彼の真似をし、馬鹿にされる毎日を送っていた。自ずと自分は誰よりも劣るのだという劣等感を持ち始め、小学生の頃の音読の時間は自分の順番を飛ばされる事で強く心を痛めた。

 大学生の時にできた友人からは、吃音が出る度に『落ち着け、ゆっくり話せ。慌てるな』と言われたが、それがかえって仇となった。


 そう言われると、余計に吃音が酷くなるのだ。


 浩太は情けなくなり、瞳に涙を浮かべた。きっと目の前に座る青年は、バカにしたような顔でこちらを見ていることだろう。或いは目を逸らして関わり合いにならないようにしているかもしれない。


「ここに、就職したくて……」


観光客で賑わうこのホテルのウェイターを志望して、浩太は見学の為に訪れていたのだ。


 小学校の頃に酷い虐めに遭い、修学旅行に参加できなかった浩太は、修学旅行代わりにと両親に連れられたこのホテルに宿泊した。海水浴シーズンでは無かったため、凄まじい程の混雑をしてはいなかったものの、食事が美味しいと評判のホテルで、その日も賑わっていた。

 オープンラウンジで食事の前に両親が軽く酒をたしなみ、浩太にも何か飲み物をとメニュー表を差し出した。

 メニュー表と睨めっこをしていると、ウェイターが「ご注文はお決まりですか」と浩太に声を掛けた。ハッとして両親に視線を向けたが、両親は頷いて「好きな物を頼みなさい」と言った。

 浩太の吃音は最初の言葉がなかなか出てこない。ぐっと顔を顰めて言葉を必死に絞り出そうとする浩太の側で、ウェイターは僅かに屈んだ。


 浩太の言葉を大切に、訊き洩らさないようにとしてくれているのだと分かった。


 注文を終えた後、そのウェイターは「かしこまりました」と優しく微笑んだ。彼は浩太にとってヒーローとなったのだ。

 もしかしたら、事前に両親が浩太の吃音症の事を伝えていたためなのかもしれないが、それならば尚の事、自分の様なハンディキャップを持つ客にも分け隔てなく応対ができるウェイターになりたいと思った。

 特別扱いをして欲しいわけではない。浩太が望むのは、誰もが得るなのだ。

 何かしらの障害がある人に対し、まるで赤子をあやす様な口ぶりで話す人が居たりする。本人に悪気は無いのかもしれないが、浩太にとっては見下された気分になり、激しく劣等感を覚えるのだ。

 しかし、そのウェイターは浩太に接してくれたのだ。


 浩太はレストランサービス技能士の資格が取れる短期大学へと入学し、英語も勉強した。そしてこの連休を利用して、浩太は再びこのホテルの様子を見に訪れたのだ。


「成程、だからスーツなんですね。こんな素敵なホテルで働くだなんて、凄いですね」


 目の前の青年の言葉に、浩太はハッとした。まさかそんな風に言われるとは思いもよらず、言葉を必死に発しようとして顰めていた顔を緩めると、目の前の青年はにこやかに浩太に笑みを向けていた。


「……まだ面接を受ける前です。来年受けようと思って」


 先ほどよりも少し言葉が出やすくなった。

 恥ずかしそうに言った浩太に、「目指す事も素晴らしいことじゃないですか」と彼は返した。


——この人、ちっとも僕の事をバカにした素振りを見せない……。


「チェックインの手続きが終わりましたが。皐月君、ナンパしたら駄目じゃないですか」


茜色の髪の男性が来ると、皐月と呼ばれた男性は「誰がナンパだっ!」と、苛立った様に言った。浩太は挨拶をしようとして、吃音で顔を顰めた。


「……こんにちはっ!」


 声に力が込もって思っていたよりも大きな声を発してしまい、浩太は顔を赤らめた。茜色の髪の男性はさらりと「こんにちは、初めまして」と言うと、皐月の隣に腰かけた。皐月は「なんだよ、狭いな。暑苦しいから立ってろよ」と悪態をつき、茜色の髪の男性は「いいじゃないですか」と、へらへらと笑った。

 挨拶だけをしてさっさと去るだろうと思っていた浩太は、彼の行動が意外でならなかった。


「私は裁人さばとと言います。変わった名前でしょう?」


——成程。難発性吃音症ですか。

 と、裁人は浩太の様子を見て思った。

 吃音には三種類の症状がある。連発、伸発、難発のいずれも、言葉の最初が詰まるのだ。浩太の場合は最初の言葉を発するのに時間を要する、『難発』の症状だ。


「裁人が変なのは名前じゃなくて、存在そのものだよ」

「皐月君、無礼です」

「あんたは存在そのものが無礼だ」

「初対面の方の前で酷いです」

「悪かったな、後でもっと酷い事言ってやるよ」


 二人のやりとりに浩太は僅かに笑った。

 妙な二人だ。どちらも穏やかで人の良さそうな笑顔を浮かべているのに、そのやりとりはなかなかに辛辣しんらつなのだから。


「……僕は佐島浩太といいます」

「佐島浩太さんですか」


 裁人は浩太の言葉を繰り返して言った。その様子に、浩太は自分の話をよく訊こうとしてくれているのだと思い、少しだけ嬉しくなった。


「裁人、佐島さんはこのホテルに就職したいんだって」

「……はい。それでスーツなんか着てきちゃいまして、後悔しています」

「暑いですからね。ですが、素敵なスーツで大変よくお似合いですよ」

「……僕はなので、きっと受からないと分かってはいるんですが」


浩太はぎゅっと拳を握り締めて言った。

 吃音症の自分が、接客業に向いているはずがない。恐らく二人もそう思っているはずだ。


 裁人は小首を傾げると、「何故ですか?」と、問いかけた。その問いに、浩太は思わず「え?」と、返した。


「佐島浩太さん。『どもる事は悪い事ではありません』」


裁人のその言葉に、浩太は衝撃を受けた。


——どもることが悪い事ではない……?


浩太は今まで一度もそんな風に言われた事が無かった。吃音症の自分は劣等生なのだと、周囲からバカにされてずっと今まで過ごしてきたのだから。


 浩太の瞳に涙が浮かんだ。


「……でも………………僕は」


——ほら、言葉が出ない。皆が普通に出来る事を、僕はできない劣等生だ。


「このせいで、ずっと周囲から虐められてきました」


やっとのことでそう伝えると、裁人は理解しているように深く頷いた。


「大変な苦労をされたのですね。それでも頑張って来られたということは、佐島浩太さんは素晴らしい方だと思います。もっと自信を持っていいと思います。他人よりずっとずっと努力を重ねてきた自分を誉めましょう。貴方は優れた方です。努力は優れた人を生み出すことですから」


 初対面の、それも見た目にも優れている男性に突然そんな事を言われ、浩太は驚きを隠す事が出来なかった。瞳から零れ落ちる涙を擦り、「ありがとうございます」とお礼を言った。


 その言葉には吃音が現れなかった。


「有幻様、お待たせいたしました。お部屋までご案内致します」


ホテルマンが声を掛け、二人が席を立った。

 皐月は浩太に「会話につきあってくれて有難う」と笑顔で言い、握手を求めた。戸惑いながら握手を交わすと、思いのほか華奢なその手の感触に浩太は少し驚いた。


「今度来た時に、佐島さんに接客して貰うのが楽しみにしています」


皐月のその言葉に、浩太は頷いて「頑張ります」と答えた。

 勇気が湧いてきた。次に彼らと出会った時、浩太は立派にウェイターとして接客ができる様な気持ちになった。


 裁人は念を押すように浩太に言った。


「どもりは悪い事ではありません。どもっていいんです」



◇◇◇◇



 ホテルマンに案内されて部屋へと入ると、皐月は窓の外に広がるオーシャンビューの光景に「おおー!」と、声を上げた。


 客室の設備を簡単に説明してホテルマンが去ると、裁人はバルコニーへと出た。皐月もそれに続きバルコニーに出てみたものの、うだるような暑さを感じてすぐに室内へと戻ろうとしたが、裁人に服の裾を掴まれた。


「何すんだ変態っ! 暑い、放せっ!!」

「夏なのですから暑くて当然です。それより、先ほどの佐島浩太さんへの対応、どこで覚えたのですか?」


皐月は眉を寄せると、裁人の手から服の裾を奪い取る形で離させて、「別に」と言った。


「あんたが患者さんに取る態度を真似ただけだよ。相手の話をよく聞いてるって分かり易く態度に出すんだろ?」


裁人は頷くと、へらへらと笑った。


「吃音症の方には絶対に『落ち着いて』や、『ゆっくり話せ』等の話し方のアドバイスを言ってはいけません。本人は落ち着いているのに、『言葉が出ない』なのですから」

「うん、分かってるよ。裁人は俺によくそう言ってたじゃないか。クリニックに居る時も気を付けてたし、今更何?」

「今日は休暇中ですから。皐月君、よく私の言う事を理解していますね。私の行動もよく観察している様ですし、ひょっとして私に好意を持っていますか?」


裁人の言葉に皐月は思いきり顔を顰めた。


「死ねばいいと思ってるけどっ!?」

「私はAIですから、死という概念がありません」

「クソAIめっ!! だったら消えろっ!!」


 うだるような暑さの中、皐月は裁人を怒鳴りつけた。裁人は全く動じていない様子でへらへらと嬉しそうに笑った。


 有幻メンタルクリニックは、休診日も稼働中である。

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