第5話 gender(ジェンダー)
午前中の診察を終え、休憩時間となった皐月はコーヒーを淹れていた。ふんわりと良い香りが室内に広がり、ドリップマシンから湯気が上がる。
ホッとする時間だ。
有幻メンタルクリニックは有幻裁人が開業医として営む小さなクリニックだ。現状日本のメンタルクリニックは予約を取る事すら困難で、初診を一か月以上も待たされることすら少なくない。
その間患者は不安定な精神状態のまま、どう過ごしているのだろうか……?
直ぐにでも救いの手を差し伸べて欲しい状況下で、ひと月以上もの間たった一人で戦っていなければならないのだ。
やっとのことで初診を受けられた時には、症状が悪化している可能性が極めて高い。
まして、心の病というものは本人が認めたく無いケースも存在する。限界まで我慢をし、予約を取ろうとした時から更に待たされてしまうという事も多いだろう。
心の病を治す為には医療従事者側の心も疲労する。休憩時間とは次の患者の為の準備として有意義で極めて重要な時間なのだ。
「皐月君、今週末は連休ですし、海に行きましょう」
裁人の突然の発言に、皐月は口に含んだコーヒーが気管に入り、盛大にむせた。
「大丈夫ですか?」
ケホケホと暫く咳き込んだ後、恨みがましい目で裁人を睨みつけると、顔を真っ赤にして皐月は怒鳴りつけた。
「いきなり何を言い出すんだAIっ!!」
「そんな言い方は差別ですよ?」
「人間とコンピュータを一緒くたになんかできるかっ! なんで俺があんたなんかと海に行かなきゃならないのさ!?」
「いいじゃないですか。私は皐月君の水着姿が見たいんです。それとも水着になるのが恥ずかしいんですか?」
顔を真っ赤にしながら
「皐月君も偶には本来の性別に戻ってみては? 水着を選ぶのが苦手なら私が選びます」
「別に俺は女でいる事が嫌なわけじゃなく、女の恰好をするのが性に合わないってだけだっ! 水着なんか絶対着ないっ!!」
「皐月君は性同一性障害ともトランスジェンダーとも違いますからね。珍しい症例です」
「症例って言うなよっ!!」
「ああ。確かに語弊がありました。トランスジェンダーは病気ではありませんから」
裁人は煙草に火をつけると、ふぅっと煙を吐いた。ほんのりと甘い香りが辺りに漂う。
「性には二つの概念があります。生物学的、遺伝学的な性を表す『sex』と、社会的、文化的に構成された概念を指す『gender』。皐月君は特に性転換手術を希望するというわけでもないので、『gender』要素。つまり、トランスジェンダー寄りということですね」
皐月はあからさまに不機嫌になって裁人を睨みつけた。
「最近はすぐそうやって流行り文句みたいに、言葉を無理やり当てはめた言い方をするだろう? そうされるのが嫌だから自分の事を『俺』って呼んで、男らしくしてるだけだよ。俺は単純に、女の恰好をするのが嫌いだってだけで、恋愛対象が女性ってわけじゃない」
幸いにして、皐月は背も高く男性の恰好も良く似合う。顔立ちも美しく中世的である為、どちらの性別の服装をしても違和感がない。
「皐月君、前々から気になっていたのですが、外出先でのトイレはどちらを使うんですか?」
「なんで俺があんたにそんな話をしてやらなきゃならないんだよっ! 俺はあんたの患者じゃないっ!!」
「興味本位です。私はAIですから、性別という概念がありません。肉体的には男性ですから、男性用のトイレを利用します。その方がいざこざが起きずに平和を保てます」
「あーそうかよ!! あんたのトイレ事情なんか、俺の知ったことかっ!」
「兎に角、今週末は開けておいてくださいね」
「『兎に角』じゃねぇよっ!」
「ああ、ほら。もうお客さんが来たみたいですよ? 防犯カメラに映っています」
「患者さんを『お客さん』って言うなってばっ!!」
——こいつ、よくこれで精神科医としてやっていけるよな!?
皐月は苛立ちを押える為にすぅっと深呼吸をすると、口元に笑みを浮かべ、待合室へと向かった。
◇◇◇◇
皐月は砂浜で戯れる海水浴客達を、ビーチパラソルの下で呆然として眺めていた。
「皐月君、ビール飲みますか?」
「飲む。飲まなきゃやってられない……」
裁人から缶ビールを受け取ると、皐月はごきゅごきゅと飲み干した。うだるような熱気の中、良く冷えたビールは喉を潤すのと同時に、くらくらと脳を揺さぶり、思考を鈍らせる。
——いや、待て! どうしてこうなった……!?
がっくりと項垂れた皐月を見つめながら、裁人がへらへらと笑った。
「皐月君の水着姿が見られなくて残念です」
「誰が着るかボケェっ!! 大体、なんだあの登場の仕方は!?」
————今朝方早くから皐月の部屋のスマートフォンが鳴り響いた。
何事だろうかと寝ぼけ眼を擦りながらスマートフォンを覗き込むと、いつの間に設定したのか時刻は午前三時を示していた。
今日は日曜だし、ましてそんな時間にアラームを設定した覚えなど無い。
皐月はぞわぞわと鳥肌を立て、ベッドの上で嫌な予感に襲われた。
ピッ! と、音が鳴り、勝手に部屋の照明が付く。
訊きなれたメロディと共に『五分後にお湯が沸きます』と音声ガイダンスが流れ、風呂場で給湯を始める音が鳴る。
頼んでもいないのにスマートスピーカーから今日の海岸方面の天気予報が流れ出し、皐月は発狂せんばかりに飛び起きた。
——これは……間違いなくヤツの仕業だっ!
「裁人ぉ——っ!!」
「はい。呼びましたか?」
ひょいとキッチンから顔を出したエプロン姿の裁人に、皐月は思わず「ぎゃあっ!!」と叫んだ。
「俺の部屋にどうやって入った!?」
「どうやってって。歩いてです」
「いやいや、ドアに鍵かけてたはずだけど!?」
「電子ロックなら解除しました」
一瞬、裁人が何を言ったのか理解するまで時間を要し、皐月は『これはきっと夢だ』と現実逃避をしたくなった。
電子制御のセキュリティは裁人の前では全く役に立たない。明日からの安眠を考えれば、アナログキーとチェーンロックが必須であるというわけだ。
「もうすぐ朝食が出来上がります」
「俺は朝ご飯食べない派だっ!」
「おや、ではお弁当にしましょう」
「…………」
——今この化け物を追い出す術はない……。
皐月は観念して、裁人にぷいと背を向けて再びベッドの上に転がった。
「皐月君、出かけますよ? 起きてください」
裁人の言葉を無視し、皐月は瞳を閉じた。『無視し続けていたらそのうち居なくなるかもしれない』という淡い期待を抱いて……。
ぎしり……と、ベッドのマットレスが軋んだ。皐月は全身に鳥肌を立てて振り返ると、裁人がベッドの上へと乗って来た姿を見て、目玉が飛び出んばかりに驚いた。
「何乗って来てんだよあんた!?」
「皐月君が起きてくれないので、こうすることが一番早いかと思いまして」
「いやいやいやいや、あっち行けって!! 変態か!?」
蹴り飛ばそうとした脚をがしりと捕まれて、その力の強さにゾッとした。皐月の細い足首を、皐月よりも背が高く男性である裁人が掴み、にこりと微笑んでいるのだ。
「放せバカっ!! 気色悪いっ!!」
もう片方の自由な方の足で裁人の顎をパコン!! と蹴り上げると、解放された足をベッドから降ろし、立ち上がって裁人から離れた。
裁人は顎を擦りながら、「脳みそが揺さぶられました。エラーが発生しそうです……」と言い、皐月は「あんたの存在そのものがエラーだよ!」と、怒鳴りつけた。
ガンガンと隣室から壁を殴りつける音が聞こえてきて、皐月はサッと青ざめた。
午前三時にドタバタと物音を立て怒鳴り散らしているのだから、隣の住人が怒り狂うのは当然だ。
「ご、ごめんなさい!! 静かにしますっ!」
皐月は居た堪れなくなって、仕方なく出かける準備をすることにした。
————で、拉致の様に海に連れて来られたというわけだけど。
皐月はビールを飲み、ほろ酔いになりながら砂浜で戯れる海水浴客達を眺めた。フト、チラチラとこちらへ視線を向けて来る女性の姿がいくつか散見されることに気づいた。
考えてもみれば皐月の服装は男性物だし、傍から見れば男二人で海水浴に来るだなんて、どう見てもナンパ目的に見られてもおかしくは無い。しかも水に入りもせずにレジャーシートを広げ座る姿はどう考えても異質だ。
——気まずいっ!!
「皐月君、お弁当を食べましょう。全て冷凍食品ですが。電子レンジは電波に影響を及ぼす為、苦手です。私の家には置いていません」
「……あんた、冷凍食品詰めるだけでわざわざエプロンつけていたのか? って、そんなことより、俺達すっごく浮いてるっ!」
「浮いてません。地面に座っています」
「そう言う意味じゃねぇよっ!!」
——ああ、だめだコイツ。AIだからちゃんと説明してやらないと分からないんだ。
皐月は声のトーンを落とすと、小声で裁人に話しかけた。
「俺達、周りからナンパ目的だって疑われてるからっ! 勘違いされたら嫌だろう?」
「ナンパ?」
裁人は小首を傾げると、チラリと向けた皐月の視線を追って振り返った。
「いえ、違います。彼女達は私達をカップルだと思って生暖かい目で見守っているのだと言っています」
「カップル!? 生暖かい!?」
「はい。どっちが責めだとか言っていました。流行りのボーイズラブ好きの女性達の様です。しきりに『尊い』と言っています」
——余計嫌だっ!!
皐月はがっくりと項垂れた。
「折角来たんですから、飲んで食べてストレス発散をしましょう」
「あんた、ストレスなんか溜まらないだろ!?」
「全くではありませんが、人間よりは溜まりづらいです。ストレスを感じる事が少ないですから。何をするにも人間より上手にできますし、良平の身体能力が優れていた事も幸いしています。顔立ちも身長も平均以上で、モテる数値です」
『無現良平』。裁人の身体の持ち主だ。皐月は良平の名を聞き、僅かに眉を寄せた。
茜色の髪に緋色の瞳の裁人を見つめ、目を逸らす。裁人が良平の身体を使うようになる前、彼の髪の色は栗色で、瞳は煉瓦色だった。良平の父方がフランス人の血を引いているらしく、彼の風貌は元々日本人離れしていた。
「裁人。どうして良平の髪や瞳の色が変わったの?」
「ストレスじゃないですか?」
「あんた、つい今さっきストレスが溜りづらいって言わなかったか!?」
「ストレスマーカーは生化学的指標と生理学的指標、そして心理学的指標と三者の動態をトータルで考慮する必要があります。私の場合、心理学的指標については殆ど感じられませんが、生化学的指標としては溜まっているのかもしれません」
「俺はあんたといる事が相当なストレスだよ。禿げそうだ」
「診察しましょうか?」
「いらねぇよっ!」
「それは残念です」
裁人はゴクゴクと缶ビールを飲み干すと、幸せそうにへらへらと笑った。
「人間っていいですね」
「……ちっとも良くねぇよ」
裁人の様に、周囲の目を気にも留めずに居られたら、ストレスを感じる事が随分と少なくなるだろう。しかし、それは本人にとっては良いかもしれないが、周囲は異質な存在を見る事がストレスともなり得る。
皐月はいつも当たり障りなく、出来る限り目立たず波風立てない様にと生きる事を良しとする性質だ。二人の価値観が合わないのも無理は無い。
皐月はため息を吐くと、折角海に来たのだから波の音を聞こうと努力したが、それよりも海水浴客達のはしゃぐ声や、周辺でかけられている音楽が混じり合って騒がしく断念した。
プシュ! と、子気味のいい音を出して、裁人が缶ビールを開けた。自分ももう一本飲もうと考えて、ハッとした。
「ちょっ……裁人! 帰りの運転どうする気!?」
二人共アルコールを飲んだ上に、皐月はペーパードライバーだ。ここへは裁人の運転で連れて来られた。
裁人はすっと皐月の後方を指さして、「予約しました」と微笑んだ。
裁人が指さしたそれは、白亜の壁の巨大な高級リゾートホテルだ。皐月はサァっと青ざめると、首を左右に振った。
「待って!? あんたと泊まるってこと!?」
「ええ」
「『ええ』じゃねぇよっ! おいっ!!」
「何か問題でも? 明日は祝日です」
「問題しかねぇっつーのっ!!」
「ですが、飲んじゃいましたし」
裁人はそう言って缶ビールを美味そうに飲んだ。
「あ、夕食はどうしますか? バイキングとフレンチのコースが選べる様ですが。料理長はフランスの有名店で修業したシェフらしいです」
裁人はどこを見ているでもなく、視線を宙に泳がせてそう言った。恐らくホテルのホームページにアクセスしているのだろう。
「何でもいいよもう……」
「料理を取りに行くのが面倒なので、コースにしましょう」
——AIのくせに『面倒』とか言ってるし……。
「そもそもさぁ、どうして海に来たかったの? 泳ぐわけでもなし」
裁人はきょとんとした顔を皐月に向けた。緋色の瞳でじっと見つめられ、皐月は僅かに身を退いた。
「な……なに?」
「言ったじゃないですか。皐月君の水着姿が見たいって。見れなくて残念です。仕方ないので脳内で合成しようかと思います」
「ぶん殴るぞてめぇっ!?」
「エラーになるので止めてください」
——一体どういうつもりなのか、裁人の考える事は全く理解できないっ!!
と、皐月は項垂れた。
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