第4話 OD(起立性調節障害)
有幻メンタルクリニックの診察室は、日中でもカーテンを閉め切っており、明かりも弱く薄暗い。
裁人はパクリとあんぱんに被りつき、コーヒーを一口飲んだ。そして煙草に火をつけて、ふぅっと煙を吐くと、椅子の背もたれへともたれかかった。
「……暇ですねぇ」
バコン!!
皐月はボードで裁人の頭を叩くと、憤然として怒鳴りつけた。
「幸せそうに暇を満喫するなよAIのくせにっ!!」
「殴らないでくださいよ。確かに私はAIですが、今はれっきとした血の通った人間です」
裁人は皐月に殴られた頭を擦りながら言うと、へらへらと笑った。
「本当に、人間っていいですね。美味しい物は食べれますし、煙草は吸えますし。どうして皆がインターネットの世界にアバターなんてものを作りたがるのか、私には理解できません」
「人間気分を満喫するのは勝手だけど、『
皐月が裁人の手から煙草を取り上げると、ぎゅっと灰皿に押し付けた。
『
以来、皐月は裁人を監視するかのようにこうして側で働いている。
「患者さんが来ないってことは、収入が無いって事だって分かってる? その大好きな煙草を買うお金が無いって事なんだけど!?」
「お金ですか? 特に不自由していませんが、気になるのでしたら金融機関のネットワークに侵入して……」
「止めろってのっ!! 犯罪を犯したらだめっ!!」
「どうしてですか? 私なら痕跡を残しませんし、バレません。バレなければ犯罪として検挙されません」
はぁ、と皐月はため息を吐いて、軽蔑の眼差しを裁人へと向けた。
「だからあんたはAIなんだよ。たとえバレなくてもやったらダメな事はダメだ。良心やモラルがあんたには欠けてる」
「良心もモラルも、しょせんはそれを守っている自己満足という欲求を満たす為の定義に過ぎません」
「ああ、そうかよっ!!」
「ですが、人間関係を良好に保つためには適した定義です。私は皐月君と信頼関係を保ちたいので、犯罪行為に手を染めないように気を付けます」
裁人は笑顔でそう答えた後、「患者さんの治療目的意外は」と、付け加えた。
そして診察室のドアへと目を向けると、「お客さんです」とニコリと微笑んだ。
「え? 今日は予約が入って居なかったけど……」
皐月も診察室のドアへと視線を向け、驚いた様に声を発した。
「たった今入りました。そして既にクリニックの入り口前に立っています。防犯カメラにも映っていますね」
皐月は苦笑いを浮かべると、便利なんだか不便なんだかわからない奴めと舌打ちし、受け付けの方へと向かった。
有幻メンタルクリニックは医師の有幻裁人と看護師兼事務員の天野皐月の二名体制だ。
皐月が受付へと行くと、裁人の言う通りクリニックの玄関ドアの前に人影が見えた。それはスッと通り過ぎて、また戻って来るを繰り返しており、皐月は受付から出て玄関ドアの方へと向かった。
皐月がドアを開くと、年齢が三十代後半といった風貌の、スーツを着込んだ男性がハッとした表情でこちらを見た。彼の右側にはランドセルを背負った女の子が立っており、皐月から隠れるように男性の影へと身を寄せた。男性が皐月から目を逸らし、素知らぬ顔でその場を去ろうとしたので、「どうぞ」と、声を掛けた。
「待合室に他の患者さんも誰もいません。暑いですし、中へどうぞ」
有幻メンタルクリニックは建物の二階に構えており、他のテナントも入っている廊下には空調が効いてはいるものの、その日は初夏の暑さとは思えない程の熱気で、共通に設定されている空調温度では追い付かない程の暑さだった。
男性はチラリと周囲を気にした後、皐月に軽く会釈をし、少女を促してクリニックの中へと入った。
診察室よりは待合室の方が明るめだが、それでもブラインドを下ろし、太陽の光を遮っているところは、このクリニックの特徴と言えるだろう。
男性はチラリと皐月を見た。恐らく他の医院とは様子が違うと言いたいのだろうと察し、皐月はニコリと微笑んだ。
「うちでは環境音楽をかけませんし、室内も明るくしていません。音や光を嫌う患者さんもいらっしゃるので」
強い光を負担に感じたり、周囲の雑音を嫌う患者は思いのほか多い。彼らは帽子やサングラスで光を防ぎ、ヘッドフォンや耳栓をして雑音を回避しているが、このクリニックではそういった事にも配慮している。
「あ、あの……娘が、他院で『OD《オーディー》』と診断されまして」
待合室の席に座る間も無く、男性が皐月にそう言った。皐月は「わかりました。まずはおかけください」と促した後、受付から問診票を取って男性に手渡した。
ODとは、
皐月は少女がランドセルを背負っているのを見て、ODからくる不登校だろうと考えた。身体がだるく、学校に行きたくてもいけなくなってしまうのだ。学校にいけないことで勉強の遅れが生じ、それに対しても不安というストレスがかかる。学校に行かなければと思えば思う程圧迫感を感じ、それにより体調が悪化するという負の連鎖となるのだ。
男性が問診票を書いていると、診察室のドアが開き、裁人が待合室へと入って来た。茜色の髪に緋色の瞳をした裁人を、少女は不思議な者を見る様な目で見上げた後、パッと目を逸らした。
裁人は少女の前で屈み、「こんにちは」と愛想よく微笑んだ。そして笑顔のまま男性へと視線を向けた。
「診察室へどうぞ。『
「え……? いえ、私ではなく、娘が」
「いえ。『
裁人の態度は否応なしといった感じだった。男性は眉を寄せ、不審そうに裁人を見たが、溜息をつき、記入中だった問診票を乱暴に椅子の上に放り投げると、裁人と共に診察室へと入って行った。
皐月は『またか』と、思った。裁人は以前にもこういった行動を取った事があった。つまり、この少女がODとなった原因は、父親の方にあると最初から分かっていたということだ。
皐月は少女の話し相手になるべく受付から出て、「お父さんが来るまで一緒に待ってようか」と、数冊の絵本を手に、ソファへと腰かけた。
◇◇◇◇
「何故私だけを診察室に?」
診察室の椅子に掛けた途端、沢井は不機嫌さを
「質問に質問で返さないでください! 娘は他院でODと診断されたんです!!」
「では、何故当院に来たのですか?」
沢井は一瞬怯んだ後、裁人から視線を外した。
「……自宅から、こちらの方が近いので、通院にも便が良く」
「紹介状は頂きましたか?」
沢井は立ち上がり、「結構だ!」と怒鳴りつけた。
「貴方の態度は医者とは思えない!」
「知っています。お掛けください」
ケロリとした態度で裁人はそう言うと、パッと机の方へと身体を向けた。カルテに書き込みながら、「えーと、沢井匡平さん。ふむふむ、ああ成程。奥様とは別居中ですか」と言い、沢井は何故裁人がそんな事を知っているだろうかという疑問に、その場で立ち尽くした。
「あ、立ったままの方が楽でしたら、そのままでも結構ですよ。無理強いはしませんから、安心してください」
「いえ……」
沢井はキツネにつままれた気分になりながら、そっと椅子に掛けた。
「ああ、成程。帆乃夏さんは『母親似』なんですね」
裁人のその言葉を聞いて、沢井はぎゅっと膝の上で拳を握り締めた。
「……それが何か?」
苛立った様に声を発した沢井に動じる事無く、裁人は言葉を続けた。
「親子はどんなにか似ていても、別の人間です。親は、親という人間でも無ければ、子は子という人間ではありません」
「そんなこと、言われなくても知っていますよ」
「いえ、貴方は帆乃夏さんを信じていらっしゃらない様です。沢井さん、帆乃夏さんは、貴方を裏切る様な真似は絶対にしません」
言い切った裁人に、沢井は少し怖気づいた様に口を噤んだ。
診察室内が静まり返ったが、不思議とそこに気まずさは無く、妙な心地良さすら感じる静けさで、沢井の苛立った感情が少しずつ緩和されていく様だった。恐らくそれは、裁人が穏やかな笑みを浮かべ、まるでいくらでも待つと言わんばかりに座って居るからなのだろう。
「……何故、そう言い切れますか?」
沢井の声が不安げに震えた。裁人はにこりと微笑むと、良く通った声質の聞き取りやすいテンポで答えた。
「帆乃夏さんが頼れるのは貴方だけだからです」
裁人のその言葉を聞いた瞬間、沢井の瞳から涙が零れ落ちた。
「沢井さん、先ほど私は、『親は、親という人間でも無ければ、子は子という人間ではありません』と言いました。ですがそれは、お互いが個として生きていられる様になってからの話です。いつか子は親離れし、親を一人の人間として見る様になる時が来ますが、それはまだ先の事です。ですから、帆乃夏さんが子供として親である貴方に愛情を向けるのは、『本能』という主プログラムです。抗いようがありません。対して、親が子供に向ける愛情というものは、『感情』。つまり、主プログラムを守るためのものと言えるでしょう。感情は曖昧ですが、本能は別です」
裁人は、沢井にそう言いながら、『人間とは壊れたプログラムの持ち主だ』と考えていた。
子孫繁栄も『本能』ならば、子育ても『本能』であるはずなのに、それを壊す虐待という行為は壊れたプログラムではないか。生物であるが故に、それを修復するには簡単にはいかない。
——人間って、面白い……!
「ですから、沢井さん。帆乃夏さんを学校に行かせても大丈夫です。必ず家に帰って来ますから。貴方を置いて出て行く事は、帆乃夏さんには不可能です」
裁人の診断は、『帆乃夏はODではない』という診断だった。沢井の不安障害を解消することが最善だと判断したのだ。
「さてと、では折角来て下さったわけですし、この際全部出してスッキリしちゃいましょうか」
「……全部出す?」
「はい。もっと沢山泣いてください」
ボロボロと涙を零し、沢井は恥ずかしそうに俯いた。
「あ、恥ずかしがる必要はありません。泣く事はストレス解消に有効なんです。一人で泣くのが恥ずかしければ、私も一緒に泣きましょうか」
「え……?」
沢井の目の前で裁人はボロボロと涙を零し始めたので、沢井はふっと笑った。
「変わった人ですね、先生は」
「『先生』は止してください、裁人でいいです。さぁ、思う存分、吐き出しちゃってください」
裁人はティッシュペーパーを箱ごと取ると、沢井へと手渡し、ゴミ箱を足元に置いた。
「……娘を、叱責すると私も苦しくて」
「そうでしょう、そうでしょう」
「ほんの少しのミスすら腹が立って仕方が無いのです。娘は妻によく似ているので」
「大丈夫です。殆どの人間は、目は二つ、眉も二つ、鼻と口はひとつなので、似ています」
裁人の言葉に沢井は少し笑うと、鼻をかんだ。
沢井は緊張が解れたのか、自分の感情を吐き出すように裁人へと話し、その内容は纏まっていなくても、裁人は頷きながら聞き、その度にユーモアのある答えを言って沢井を笑わせた。
「……ここへ来て、良かった」
「お役に立てて何よりです」
スッキリした様子の沢井に裁人はそう言うと、待合室へと送って行った。
医師と患者との信頼関係を築くには時間を要するというのに、裁人は独自の情報ルートで患者の口から全てを聞き出す必要も無く把握できるため、精神科医に適していると言えなくもない。そして、AIであるが故か、どんなにか患者に寄り添う行動を取ろうとも、感情移入し過ぎる事が無いというのは利点だろう。
待合室では帆乃夏とすっかり仲良くなった皐月が楽しそうに話をしていて、沢井の姿を見えると、帆乃夏は慌てた様に椅子から立ち上がった。
裁人は屈んで帆乃夏を見つめ、微笑んだ。
「帆乃夏さん。明日から学校に行けますが、大丈夫ですか?」
「……行ってもいいの?」
「勿論です」
「でも、あんまりお勉強得意じゃないから……」
——成績が悪いと、お父さんに叱られる。サボっていたんじゃないかって……。
「帆乃夏。お父さんも、実はあまり勉強が得意じゃなかったんだ」
沢井が申し訳なさそうに言った。
「だから一緒に、勉強しようか」
沢井の言葉に、帆乃夏は小さく頷いた。そして魔法使いでも見る様な目で裁人を見つめた。
「沢井さん、またいつでもお喋りに来てくださいね」
そう言った裁人に、帆乃夏は「お父さんとお友達になったの?」と聞いた。裁人はすぐに「はい!」と嬉しそうに返事をし、沢井は困った様に頭を掻きながら、裁人に向かって感謝した。
有幻メンタルクリニックは今日も患者の心を救うべく、密かに営業中である。
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