第3話 他人への誹謗中傷は自らの心の膿

 自宅への帰り道、あかりは文具店に寄り、可愛らしいデザインのシャープペンシルを購入した。綺麗に包装して貰った為、鞄に入れてしまってはリボンが潰れてしまうかもしれないと気にして、袋を大事に手に持ったまま電車に乗った。


 ふわふわと、なんだか心が軽くなった様な気分だった。裁人の言う通り、麻美に対する誹謗中傷をSNSにアップしたことが、ずっと罪悪感として重くのしかかっていたのだと思い知らされる。


 麻美を誰かに取られるのが嫌だった。あかりが知らない人の話を楽しそうにする麻美を見るのが嫌だった。


『彼氏なんかと別れてしまえばいい』


 そんな思いから、あかりは行動に出てしまったのだ。後悔していた。麻美の顔をまともに見ることすらできなくなってしまったのだから。

 やってしまったという事実を自分の中から消すことはできない。しかし、SNS上から消えたことにより、突きつけられる醜いを目にしなくて良くなった。


 麻美の家の前に到着すると、メッセージをスマートフォンから送った。


『家の前に着いたよ!』


 可愛いらしい『OK』のスタンプが返って来て、玄関のドアがガチャリと開いた。


「あかり!」


麻美は弾ける様な笑みを向け、あかりに向かって手を振りながら家から出て来た。

 いつもの麻美だ。以前と変わらない人当たりの良い麻美の様子に、あかりは僅かに涙ぐんだ。


「用事は済んだの? なんか、いきなり電車降りたからさぁ」

「うん。あの……これ」


 あかりは文具店で購入した包みを麻美に差し出した。麻美はキョトンとしながらもそれを受け取り、「プレゼント? 誕生日でもないのになんで?」と不思議そうにあかりを見つめた。


「あ、新しい彼氏できたって言ってたでしょ? お祝い。文房具好きでしょ?」

「えっ!? 嬉しいっ! 開けて良い?」

「勿論!」


綺麗に飾り付けられたリボンを解き、麻美は包みを破らないように丁寧に開けた。可愛らしいデザインのシャープペンシルに瞳を輝かせて、あかりを見つめ「有難う!」と言った。


「これ、私の好きなメーカーのやつ! 流石あかり、わかってるぅー!」

「喜んでもらえて良かった。それを渡したかっただけだから、帰るね。遅くなるとお父さんに叱られるし」

「もう十分遅いと思うけど、大丈夫? あかりのお父さん、めちゃくちゃ厳しいし……」


 確実に叱られるだろうなとあかりは考えたものの、麻美の喜ぶ顔が見れたからいいと思って「平気!」と微笑んだ。


「じゃあ、またね!」

「うん。あ、今度さぁ、ゆっくり話聞いてくれる?」

「うん! いくらでも聞く!」

「美味しいスイーツの店、見つけたんだぁ! 一緒に行こうっ!」

「分かった。楽しみにしてる!」


手を振って麻美と別れると、あかりは清々しい気分を味わった。

 これでまた麻美と友人同士に戻れる。そんな気がした。自分がやってしまったという事実は変わらない。けれど、もう二度とそんな過ちを犯さないと心に決めた。


 自宅への帰り道、足取りは軽かったものの、玄関前へと到着した途端ずしりと重くなった。


——帰りが遅くなったから。お父さん、めちゃくちゃキレてそう。


 確かに高校生の娘が遅い時間まで出歩くということは、親にとって心配な事だろう。しかし、あかりの父は遅くなった理由も聞かず、いつも頭ごなしに叱りつけるのだ。それはただ自分の虫の居所の悪さを当たりつけているだけに過ぎない。

 途中から何故叱られているのかもよく分からなくなるほどに長い時間叱るので、解放される頃にはぐったりとしてしまう。


 憂鬱になりながらそっと玄関のドアを開けたが、ガチャリと思ったよりも大きな音が鳴り、あかりは青ざめた。


 自室へと駆けあがりベッドに飛び込んでしまいたい衝動を押えつつ、リビングの様子をチラリと覗いた。両親がテーブルに着き、食事をしている様子が伺える。母親があかりに気づき、「お帰りなさい」と言った。


「ただいま……」


 父はあかりに背を向けたまま黙々と食事をしていたが、ゆっくりと振り返った。


——あ、叱られる……。


 瞬間的にそう思ったものの、父はジロリとあかりを見て「遅かったな」とだけ言った。


——あれ?


 叱られる事を覚悟していたあかりは、その様子に驚いたものの「ごめんなさい。ちょっと調子が悪くて」と言った。


「あら、大丈夫なの?」


心配そうに眉を寄せた母に「うん、もう平気」と答えると、父がゆっくりとため息を吐いた。


「……食事はできるのか?」

「うん」

「それなら、早く着替えて来なさい」

「……え。あ、はい……」


 あかりはキツネにつままれた気分を味わいながら、自室へと向かった。こんな気分を味わうのは、今日何度目だろうか。


 そういえば、裁人は別れ際に妙な事を言っていた。


『幸村さんはお父様との関係がかんばしくないようでしたので、そちらについても手を打っておきました』


——一体、何をしたの!? っていうか、あの人何者!?

 あかりは混乱しながら、これは夢ではなく現実だろうかとぼうっと考えて、階段を上る時につま先を強打し、その痛みに間違いなく現実であると理解した。





「裁人。『幸村あかり』さんの件は解決でいいの?」


 カルテを整理しながら皐月さつきが言った。裁人はふぅっと煙を吐いて頷くと、「はい」と言ってにっこりと微笑んだ。


「……あのさ、どうせそんなもの吸ったって何の足しにもならないんだから、止めたら?」

「嫌です。折角『人間らしい行為』だというのに」

「大丈夫! あんたは人間らしくないからっ!」


 皐月は眉を寄せて『幸村あかり』のカルテを手に取ると、裁人へと渡した。

 裁人はさらさらとカルテに書き入れると、再び皐月へと渡し、「解決済みの棚に入れておいてください」と言った。


「まともに仕事してる風に見えないのに、一体何をしたの? どうせまたネットワークと自分の脳みそリンクさせて気持ち悪い事したんだろうけど」

「失敬な。頑張ったと誉めてくれても良いじゃないですか」

「いやいやいや、ずるい事ばっかりして、褒められる訳ないよね!?」


チッ! と、裁人は舌打ちするとふぅーっと煙を吐いた。


「皐月君は私に意地悪です」

「あんたがちゃんとしないからだろ!?」

「生理ですか?」

「ちげぇよっ!!」


カッと顔を赤らめて怒鳴りつける皐月から、裁人はぷいと目を逸らした。


「今回は幸村さんの心のわだかまりを除去したというだけですよ。まず、ネットワーク上の彼女が流した黄田麻美さんの誹謗中傷となりえる情報を全て削除しました。勿論、拡散された情報も含め全てです」

「それなんだけど、どうして幸村さん本人への誹謗中傷を削除しなかったの?」

「削除しますよ? でも、それはです」


——って、何だよ!? まったく、裁人の言う事は聞いたってわかりゃしない。

 皐月は苦笑いを浮かべ、コーヒーを一口飲んだ。


「どうして患者さんの前で煙草なんか吸ったのさ? いつもはあんなことしないのに。しかもそれ、フレーバー付きのだろう? いつもの煙草じゃないじゃないか」

「不信感を抱かせる為です」

「疑わせる為にわざと吸ったって事?」


裁人は頷くと、ふぅっと煙を吐いた。


「人は言われるがままになるよりも、自分で行動した方が納得するんです。あかりさんがクレームを入れにクリニックに再び来る際、ネット上のクリニックの情報を削除することで、彼女はここにたどり着く事ができませんでした。それを演出する為ですよ」

「回りくどい事して……でも、どうやって彼女と父親の折り合いが悪いと分かったのさ? そんなの、ネット上に投稿されてなかった情報だろ? 問診票にだって記載されてなかっただろうし」


裁人はふっと緋色の瞳を細めて皐月を見つめた。


「皐月君、という存在を知らないのですか?」

「……へ!?」


 皐月は驚いて、持っていたコーヒーを危うくこぼしそうになった。


——『スマートスピーカー』だって!? それはつまり、コンピュータに話しかけて天気を聞いたり、家電を操作したり、音楽をかけたりできるアレだろうか……? 裁人はまさか、そこから幸村あかりさんの家庭内会話を聞いたというのか!?


「それ、あんた……盗聴じゃないかっ!!」

「スマートフォンからも周囲の音を拾う事ができますよ?」

「犯罪じゃないか!!」


皐月の言葉に裁人はキョトンとした顔をした。


「皐月君。日本に盗聴を取り締まる法律はありませんよ?」

「えっ!?」

「盗聴器を仕掛ける為に無断で家屋に浸入したというのならば、不法侵入等の犯罪行為となりますが、私の場合そういった行為が不要です」


——し……知らなかった。

 皐月は勝ち誇った様に笑みを浮かべる裁人を見つめ、コホンと咳払いをした。


「そ……それで、どうやって父親の件は解決したの?」


 聞くのも怖い気がするけれど……と、思いつつ皐月が裁人へと問いかけると、裁人はニッコリと微笑んだ。


「まず、父親が叱責する様子の記録を取り、『何月何日、何時から何時』という形でまとめました。それと共に、娘さんが精神科を受診する姿の写真を送りつけられたら、娘を思う父親ならば誰だって自分の行動を改めるでしょう? 何者かが見張っている恐怖も味わうでしょうし」

「うわぁ……陰険……」

「因みに、個人アドレスではなく、父親の会社のメールアドレスに送りつけました」

「そこまでしたのか!?」

「その方がずっと効果的です。ところで皐月君、どうして人間は、自分と関わりのない相手の言葉に生活を脅かされるのでしょうか」


 裁人の突然の質問に、皐月は眉を寄せた。


「誰もが自分と関わり合いの無い相手の情報を真に受けるものなんじゃないの? テレビのだって本だって、裁人のお得意なインターネットだって、自分と関わり合いの無い相手の情報じゃないか。勿論、どんな情報に興味があるかは人それぞれ個人差があると思うけれど」

「成程、『情報の価値観』の問題ですか」


皐月が「情報の価値観?」と、小首を傾げて言葉を返すと、裁人はコクリと頷いた。


「誰が言った言葉なのかという価値と、自分に関係があるかどうかの価値を計算し、より自分にとって関係のあることであればある程、『情報の価値観』が高いということなのでしょう。そういったことを感覚で瞬時に計算ができる人間は本当に面白いですね」


裁人の言葉に皐月は顔を顰めた。

 情報が誰でも自由に手に入る便利な世の中になればなるほど、人は堅苦しくて身動きが取れない空間に押しやられてしまっている気がする。


「……裁人はどうなのさ? 『情報の価値観』があるの?」


 皐月の質問に、裁人は「はい!」と、即答した。


「私は、皐月君から得る情報の価値観が最も高いです」

「どうして? 裁人はいつだってインターネットに脳を接続できるんだから、俺から得る情報なんか大した価値なんて無いだろう?」


不思議そうに言った皐月に手を伸ばし、裁人は突然頬に触れた。柔らかい皐月の頬を指で撫でつける。


「私はこうして皐月君に触れる事ができます。この感触は素晴らしい情報です」

「勝手に触ってんじゃねぇよ変態っ!!」


裁人はハッとした様に診察室の扉を見つめ、「皐月君、お客さんです」と嬉しそうに言った。


「喜ぶな喜ぶな! それに患者さんを『お客さん』って呼ぶなって!」

「すぐ診察室まで案内しちゃってくださいね。カルテはですから」


——って……。まあ、うちは完全予約制だから、誰が来るかは分かっているんだろうけれど。


「宜しくお願いしますねー」


 裁人がヒラヒラと手を振り、皐月は裁人に触れられた頬を服の袖で拭いながら診察室を出て、受付の対応をした。



◇◇◇◇



 彼女は不安気に診察室へと入って来ると、にこやかに微笑む裁人の前へと腰かけた。もじもじとしながら俯き、スマートフォンを握り締めながらチラリと裁人へと視線を向ける。


「あの、ホームページに『当院は昨今のインターネット環境に於ける問題についての解決も得意と致します』って書いていたので……」


裁人が頷くと、茜色の髪がさらさらと零れた。緋色の瞳を細め、微笑みを向けると、聞き取りやすいテンポで言葉を放った。


「『黄田麻実』さんですね。ご相談は貴方が投稿した、『幸村あかり』さんへの誹謗中傷を削除したいという内容で宜しいでしょうか」


 麻美は驚愕の表情を浮かべた後、戸惑いながら言葉を吐き出した。


「あの、私……。あかりが私から離れて行っちゃう気がして、それが嫌で……」

「彼女はずっと待っていました。貴方と仲直りする機会を」

「仲直り、できると思いますか?」

「はい。貴方方はもう仲直りをしています」


 昼間からブラインドを下ろし、太陽の光を遮断した薄暗い電気が灯された室内。有幻メンタルクリニックは今日も患者の心を救うべく、密かに営業中である。

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