第2話 仮想も記憶も非現実

 季節は初夏だ。日が段々と長くなっている為、街の灯りが煌々と灯されているにもかかわらず、空はまだ冥色めいしょくに広がっており、瞬く月や星々の光が目立たない程だった。


 あかりは足早に歩きながら、『有幻ゆうげんメンタルクリニック』へと向かっていた。クリニック自体は二十時までだが、受付けは恐らくその三十分前には終了するだろう。最悪受付け終了時間に間に合わなくても問題はない。あかりの目的は診療ではなくクレームなのだから。


 駅からクリニックへの道筋は少々複雑だ。一度行った場所であるとはいえ、記憶が不確かなことに不安を覚え、あかりはスマートフォンで地図をチェックしながら向かう事にした。


「……あれ?」


 スマートフォンを覗き込みながら、あかりは眉を寄せた。『有幻メンタルクリニック』が検索をしても地図上に現れないのだ。

 ブラウザで検索をかけても、地図アプリで検索をかけても表示がされない。こんな時に電波の調子が悪くなるだなんてついていないとため息をつき、うろ覚えながらも思い出しながら向かう事にした。


——十分程歩いただろうか。

 おかしい。確かあの角を右に曲がって……いや、その前にあの道で曲がった様な? この道は見覚えが無い気がする。スマートフォンを頼りにあまり周囲をよく見ていなかった事が悔やまれる。コンビニの前を通過したかすらも覚えがない。


 そもそも、どうしてスマートフォンで『有幻メンタルクリニック』だけが検索しても出てこないのか……。


 他のホームページやSNSは接続できるのだから、電波が悪いとは思えない。一体何故……?


 ふと、あかりは不気味な事を考えた。


——今日、私は本当に『有幻メンタルクリニック』へ行ったのだろうか?

 裁人さばとにも、皐月さつきにも実は会っていない。電車の中でうたた寝をし、夢を見ていた事を現実と思ってしまっていたのだとしたら……?


 あかりは鞄を開け、財布を取り出した。クリニックを出る時に、診察券を受け取ったはずだ。もしもそれが無かったのなら……。

 震える手で財布を開けると、プラスチック製の見慣れないカードが一枚出て来た。診察券があった! と、ホッとしてそのカードを見つめると、そこには『マルブックポイントカード』と書かれていた。


——昨日行った文具店のポイントカードじゃない……!


 慌てて財布内をくまなく見たが、『有幻メンタルクリニック』の診察券は見当たらなかった。

 本当に頭がどうかしてしまったのかもしれない。と、不安になり、ふと時計を見ると、二十時半を指していた。

 とりあえず今日は帰ろう。家で少し頭を冷やして、明日出直そう……と、財布を鞄にしまい、顔を上げた。


「幸村さん?」


 聞き取りやすく活舌の良い透明感のある声に呼ばれ振り返ると、人の良さそうな笑みを浮かべた男が立っていた。外は薄暗くなっていたが、特徴的な茜色あかねいろの髪と緋色ひいろの瞳は良く目立つ。

 彼はスーツに身を包んでいるものの、ジャケットは脱ぎ、ネクタイをせずに襟元を開け、薄灰色のベストを着ていた。その髪色からも派手派手しく見える為、一見ホストクラブで働く男性の様にも見える。


「ああ、やはり幸村さんですね。どうも、こんばんは」


 穏やかな様子で話す裁人を呆然と見つめた後、あかりはハッとした。クレームを言いに来た事を思い出したのだ。


「あの……SNSの……全然消えてなんかいなくて」


——ああ、情けない。口を開くと上手く言葉が出てこない。

 あかりはぎゅっと鞄を握り締めて、裁人を見上げた。彼はスラリと背が高く、どうしても見上げる形となってしまうのだ。


 裁人はニコリと微笑んで、「消えていますよ」と言った。あかりは首を左右に振り、スマートフォンを見て、「消えてなんかいません!」と、上ずった声を発した。画面にはあかりに対する誹謗中傷の言葉が列挙され、目を逸らしたくなるほどの物だった。


 裁人はあかりの側へと来ると、あかりの手の上から包み込むように大きな手でスマートフォンを持った。ふわりとベルガモットの香りがあかりの鼻をくすぐった。


「幸村さんが削除したかったのは、『黄田麻実こうだあさみ』さんに対する誹謗中傷では?」


——え……?


 あかりは、裁人の目を見上げる事ができず、自分のスマートフォンを見つめたまま固まった。


「私は、貴方がSNSに投稿した『黄田麻実』さんに関する誹謗中傷を削除したんです」

「どうして……」

「どうしてって、気になっていたでしょう?」


——違う! どうして知ってるの!? 私は、この人にそんな話をしてなんかいないのに!


「私は精神科医ではありますが、インターネットやコンピュータ関連の方が専門でして。幸村さんが抱えていらっしゃる問題を突き詰めたところ、『黄田麻実』さんに関する投稿を削除する事が一番の解決策だと思ったわけです」


——まただ。

 何も言っていないのに、彼はまるで心の中を読んでいるかのように話す。


 あかりは薄気味悪さを感じて裁人から離れた。そして震える手でスマートフォンを操作し、数カ月前に自分が投稿した『黄田麻実』についての内容を探した。

 しかし、履歴を追っても表示されず、検索をかけても表示されない。あかりが投稿した内容だけでなく、他人が拡散したものも全てだ。裁人の言うとおり、本当に削除したというのだろうか? しかし、一体どうやって……?


「通常、精神科の受診は数回に分けて問診し、待合室での待機の様子や、診療室で席にかける様子。付き添いの有無の観察から始め、患者の平均的な一日の過ごし方を聞き出したりと長い時間をかけて行います。つまり、心に抱えている問題の根本原因を突き止めて、治療の方針を決定し、患者と共有して進めていくわけですが……」


 裁人は聞き取りやすく、丁度いいテンポでスラスラと説明した後、照れた様に頭を掻いた。


「私は、そういった煩わしい事が苦手でして。全て端折ってしまいました。すみません」

「……はぁ」


 あかりが不審者でも見るような目で裁人を見つめた。裁人はふと周囲を見回し、側にある公園のベンチを見つけ、「長くなりそうですし、座りますか?」と、問いかけたが、あかりは首を左右に振った。


「そうですよね。貴方は完全に私を警戒していますから、いつでも逃げやすい体制をとっておきたいはずです。であれば、人目の多い場所に移動したほうが良さそうですが、あまり周囲に聞かれて嬉しい話題でもありませんので、このまま話し続けますが、宜しいですか?」

「はい……」


 強制的に『はい』と言えとうながされた気がすると思いながらも、あかりが返事をすると、裁人はニコリと微笑んで頷き「では続けます」と言った。


「本来、精神科医と患者との間には信頼関係を構築することが必要不可欠です。しかし、幸村さんの相談内容は『SNSの誹謗中傷を削除して欲しい』という目的が既に決まっていたため、長い時間をかける事をしませんでした。貴方が私を警戒するのも当然というわけです。お気になさらず」


裁人はポケットから煙草を取り出すと、あかりに断ることもせずに火をつけた。もしもこの場にあのクリニックの看護師の青年が居たのならば、すかさず裁人を怒鳴りつけていたことだろう。

 しかし、あかりは煙草の匂いが嫌いだが、不思議と裁人の吐く煙の匂いは不快に感じなかった。一般的な紙煙草とは違うのかもしれない。煙草に詳しくないあかりには、それがどういうものなのかが分からなかった。


 人通りの少ない路地だが、道幅はそれなりにある為、時たま車が通る。ヘッドライトが眩しく、眉を寄せたあかりの前にその光を遮るようにして裁人が立った。茜色の髪がヘッドライトに照らされて透き通り、嫌に神秘的に見えた。


——わざと光を遮ってくれてるの? ヤブ医者のくせにちょっと優しいじゃない。

 と、あかりは少し気まずく思った。


「虐めは、いじめる側の心に問題があると聞いたことはありますか?」


裁人の言葉に、あかりはドキリとした。ネットの記事か何かで読んだことがある、と、頷くと、裁人はふぅっと煙を吐いた。


「ですから、私は貴方が犯していた『いじめ』を削除しました。貴方が『黄田麻実』さんをという事実は無くなりましたので、堂々としても大丈夫です」


 裁人のその言葉を聞いて、あかりは後ろめたさと恥ずかしさでカッと顔を赤らめた。

 見透かされている。裁人にとってはあかりの悩みなど、どうでもいいと軽く思われているのだ。SNSから削除されたとしても、裁人が言うように事実が消えるわけではないのだから。

 あかりはぎゅっとスマートフォンを握り締めると、裁人を睨みつける様に見つめた。


「でも! 麻美の記憶からは消えないじゃない!」


あかりの言葉に、裁人は間髪入れずに「消えますよ」と答えた。


「物理的に証拠が無くなれば、記憶などといったあいまいなものを信用する術が無くなります。貴方だって、インターネット上から『有幻メンタルクリニック』の情報が消え、受け取ったはずの診察券が無かったというだけで、夢だったと思おうとしたではありませんか」


唖然とするあかりに、裁人は微笑んで見せた。


「勿論、長く時間を置いてしまってはそういった物理的削除も意味を成しません。記憶が温かいうちに物的証拠を削除する必要があるというわけです。しかも、インターネットの世界は仮想世界です。実体のない世界での情報程、曖昧で根拠がないものはありませんから」


「私……麻美を虐めて無いことに……?」


ポツリと言ったあかりに、裁人は頷いた。


「はい。無かった事に。幸いにして、『黄田麻美』さんは貴方が自分の誹謗中傷をSNSに書き込んだという事を知りません。ですから、仲直りしてあげてください。彼女は待っていると思います」


——私と、麻美との間にあったわだかまりが消えたのなら、また友達同士に戻れるのかな?


「新しい恋人が出来て良かったと、祝福してあげてはどうでしょうか」

「……うん」


 あかりはスマートフォンを操作し、麻美へとメッセージを入れた。


『ちょっと用があるから、家に寄ってもいい?』


間髪入れずに『うん。いいよ!』と返信があり、あかりは嬉しくなって裁人を見上げた。


「色々と疑問だらけですけど、ありがとうございました」


素直にお礼を言って頭を下げると、裁人は照れた様に頭を掻き、「お役に立てて何よりです」と微笑んだ。


「ああ、それとですね、もう一つ。幸村さんはお父様との関係がかんばしくないようでしたので、そちらについても手を打っておきました」

「え!?」


唖然としているあかりをその場に残し、裁人は颯爽さっそうとその場から離れた。


「では、いつかまたどこかで機会があれば」


そう言って立ち去って行く裁人の後ろ姿を、あかりはポカンとしたまま見送った。

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