有幻メンタルクリニック —AI 裁人—

ふぁる

第1話 有幻メンタルクリニックへようこそ

「成程、SNSでの誹謗中傷、ですか」


 裁人さばとは、ふぅっと煙草の煙を吐きながらつまらなそうにそう言って、目の前で身を小さくしながら座る少女を見つめた。

 少女の名は幸村あかり。高校二年生になり二カ月程経った頃から、SNS上で彼女に対するありとあらゆる誹謗中傷が拡散され、他人の目に怯えながら毎日を過ごしている。


 ここは『有幻ゆうげんメンタルクリニック』の診察室だ。通常メンタルクリニックといえば、明るく開放的で清潔感あふれる診察室だが、この部屋は昼間からブラインドを下ろし、薄暗い電気が灯された陰湿な雰囲気のする診療室だった。


 あかりは不安気にスマートフォンを固く握り締めていた。精神科を訪れたのは初めてのことであったし、そもそもその相談内容が異質である為、何をどう話すべきか困惑してしまったのだ。たった一言、「SNSで、私の悪口が拡散されていて……」と言っただけで押し黙ってしまっていた。


「それで? 貴方はどうして欲しいのですか?」


 煙草の灰を灰皿に落としながら言う裁人の前で、あかりは唇を噛みしめた。


——これが医者なの? 髪の色も派手だし、瞳だってカラコンなんか入れちゃって。おまけにこの横柄な態度。失敗したなぁ、どうしてこんなクリニックに来ちゃったんだろう。この人、どう見ても胡散臭い……。


 あかりの目の前に座る男、有幻裁人ゆうげんさばとはこのクリニックの院長らしい。日本人離れした鼻筋の通った顔立ちである上、あかね色の髪に、緋色ひいろの瞳という随分と特徴的な風貌をしていた。

 あかりが診察室に入った時、彼の医者とは思えない異質な風貌に戸惑いを隠せず、椅子へ座る様に促されるまで唖然として見つめてしまったのも無理もない。


 何も話そうとしないあかりの前で、裁人は嫌ににこやかな笑みを浮かべ、時折煙草を口にしては、ふわりと煙を吐いた。


パコン!!


 と、子気味の良い音が診療室内に響き渡り、ハッとしてあかりは裁人を見つめた。


「くぉら! 患者さんの前で煙草吸ってんじゃねぇよ、だぁほ!!」


 裁人の頭を殴ったばかりのボードを机の上に放り投げたその人は、天野皐月あまのさつき。このメンタルクリニックで働く唯一の看護師だ。

 サラリと長い前髪を掻き上げて、皐月さつきはあかりに申し訳なさそうに眉を寄せた。


「すみません、幸村さん。こいつほんっとアホなんです。でも腕は確かだから、そこんとこは安心してくださいね」

「人の事をアホだなんて言うものではありませんよ、皐月君」


 皐月は女性の様な綺麗な顔立ちの細い眉をぐっと吊り上げると、再びボードで裁人の頭を殴りつけた。


「あんたさぁ! 一応医者なんだよねぇ!? しかも精神科医! 分かってる!? 患者さんの心をケアするどころか、威嚇してんじゃねぇよっ!」

「分かってるから今仕事してるんじゃないですか。いいですか、皐月君。精神科医の診察に看護師などの陪席者ばいせきしゃが居る場合は、陪席の目的を患者に伝える必要があります。勝手に入って来てはいけません」

「だったらちゃんとやりなよね! 俺が入って来なくても大丈夫なようにさぁ!」


やれやれと頭を掻いた後、裁人はじっと緋色の瞳であかりを見つめた。


「さて、どうしたいのです? 貴方の望みを叶えてあげようではありませんか」


身を乗り出してそう言った裁人から目を逸らし、あかりは俯いた。


「望みを叶えるって……」


 そんなこと言われても……と、あかりは押し黙った。


 有幻メンタルクリニックのホームページに書かれていた内容を思い出す。それは一風変わった売り文句だった。


『当院は昨今のインターネット環境に於ける問題についての解決も得意と致します』


 あかりはその売り文句にすがる思いでここへと訪れたのだ。


 しかし、SNSであかりに関する誹謗中傷の内容を見た全員の記憶を消してくれと言ったところで無理な話だろうし、投稿されたものを全て削除してくれと言うのも無理な話だ。

 いっそのこと、自分のことを誰も知らない遠いところに引っ越してしまえたらと考えて、溜息を吐いた。


「ふぅむ、成程。私には造作も無いことですが」


 裁人が言った言葉にあかりは眉を寄せた。

『そのどれも』とは、一体何の事だろうか? あかりはまだ裁人に、何の希望も口に出して伝えていない。


「そうですね、まずは手始めにSNSに投稿したデータの削除から始めましょうか。貴方の事を誰も知らないところに引っ越すのは、最終手段にしましょう」

「え?」


——私、口に出して言ってなんかないよね……? でも、SNSに投稿したデータの削除だなんて、そんな事が可能なの?


「言ったでしょう? 造作も無いことだと。むしろ得意分野です」


 裁人はまるであかりの心の中と会話しているような言葉を発すると、ニコリと微笑んだ。


「人間とは不思議な生き物です。どうして直接関わり合いの無い相手の言葉を気にするのでしょうか」


まるで自分はかのような発言をする裁人を、あかりは眉を寄せて見つめた。


「よし、これでいいですね。完了しました」


 そう言って、サラサラとカルテになにやら書き込むと、「お大事に」とあかりを診療室から追い出した。


 キツネにつままれた気分のまま受け付けを終え、自宅への帰り道を歩きながら、あかりは段々と腹が立ってきた。

 あの医者はつまり、あかりの相談をくだらないと思い、適当にあしらったのだ。何が『手始めにSNSに投稿したデータの削除』だ。そんなことが簡単にできるなら苦労するものか。


 あかりは電車の中でスマートフォンを操作すると、『有幻メンタルクリニック』の酷評をSNSにアップしてやろうと考えた。

 思えば最初に胡散臭いと思うべきだった。HPに記載されている『有幻メンタルクリニック』は、『患者の心を汲み取って適格な治療を行います』とうたっていた。診療室の写真も明るく開放的な写真ばかりで、裁人さばと皐月さつきも優しそうな笑みを浮かべた写真が掲載されている。

 しかし実際は全てが真逆だった。患者の心を全く汲み取らず、診療室も暗く閉鎖的で、裁人も皐月も……いや、皐月は少し優しそうな青年だったが、裁人は言葉遣いこそ丁寧なものの、人を小ばかにしたような態度で、患者を前に煙草を吸うような酷い医者だった。


「ヤブ医者め」


 そう呟いてSNSにアクセスしようとして、あかりは慌てて画面の表示を消した。


 電車内は帰宅ラッシュで混雑していた。誰がいつ自分のスマートフォンを覗き見るやもしれない。それに、この車内にはあかりについての誹謗中傷のSNSの投稿内容を知り、信じ込んでいる人が居る可能性だってあるのだ。


 思わずぎゅっとスマートフォンを握りしめ、チラリと辺りを伺った。自分の事を見ている者がいるのなら、その人は恐らくSNSの内容を知っているに違いない。


 ふと、中年男性と目が合った。あかりは眉を寄せ、ぎゅっと歯を食いしばったまま目を逸らす事ができず、たらりと背を汗が伝うのを感じた。


 男性は咳払いをし、あかりから目を逸らした。


——わからない。誰が私を知っているの……?


 息苦しさを感じながら、あかりは必死に耐え続けた。家の近くの駅にたどり着く事だけを考え、瞳を閉じ、長い時間を無になることで……。


 そんなあかりに最悪の事態が起きた。トンと叩かれた肩の方向を驚いて振り返ると、弾けるような明るい笑みを浮かべた黄田麻実こうだあさみの顔があったからだ。


「あかりじゃん! 電車めちゃ混んでるねー、最悪ぅー」


——本当に、最悪……。

 あかりは顔面蒼白になりながら、何も言えずに僅かに唇を動かした程度だった。


 麻実はあかりの幼馴染だ。家も近所である為、親同士の交流もあり、家族ぐるみのつきあいで出かけた事もあった。麻実は勉強もよく出来て、あかりよりも優秀だし、家も裕福だ。その為、あかりに対して偉ぶった態度を取る事も多かったが、あかりはあまりそういったことを気にするタイプでは無かった。


 麻実の言う事には素直に従っていたし、特段苦にも思わず良い関係が築けていると思っていた。

 ところが、麻実に彼氏が出来、あかりとあまり会話をしなくなったあたりから関係が変わった。


 あかりが、麻実の彼氏に対してヤキモチをき始めたのだ。


 と言っても、特段麻実に何を言うわけでもなく、ただ不満に思うだけで時間が過ぎていった。

 二人が会話をしなくなってから半年程経った頃、あかりは麻実が彼と別れたという話を人づてに聞いた。


 ——麻実は、私とまた遊んでくれるはず。


 そんな期待を持ったのも束の間、SNSでの誹謗中傷にあかりは悩まされる事になってしまった。


「ねぇ、あかり」


 麻実が再び話しかけた。電車内の混雑は大分治まり、身動きが取れない程の状態では無くなっていた。あかりはびくびくしながら「なに?」と、返事をすると、麻実はニヤリと再び笑った。


「私、また彼氏できたんだぁ!」

「……え?」

「あ、前の彼氏と別れたって言ってなかったっけ? 今日さぁ、告ったら向こうも私を好きだったって! やったっ! もー、幸せだわー! 幸せ過ぎて死ぬ!」


あかりは嬉しそうに笑う麻実から視線を外すと、「そっか。良かったね」と小さく言った。


 電車がガタリと揺れ、二人が降りる予定の一つ手前の駅に停まった。ドアが開いた途端、あかりは思いついたように麻実に言った。


「私、用事思い出した。ゴメン、ここで降りるね」

「え!? あ、わかった……」


 あかりが電車から降りて直ぐ、ドアが閉まった。麻実を乗せた下り電車が発車し、あかりは目の前に到着したばかりの上り電車へと飛び乗った。

 車内は空いていて、あかりは椅子へと掛けると、スマートフォンを取り出した。自分への誹謗中傷の内容を確認し、ぎゅっとスマートフォンを握り締めた。


「やっぱり消えてなんかないじゃない。あのヤブ医者……」


怒りをあらわにそう呟いた時、スマートフォンがバイブレーションし、あかりは眉を寄せた。


 覚えのないアドレスから『投稿内容は削除させていただきました —有幻メンタルクリニック 裁人—』と、メッセージが入っており、ゾクリとして顔を上げ、辺りを見回した。


——何? まさかあの医者、私をストーカーしてるんじゃ!?


 静まり返った車内はガタゴトと電車の揺れる音だけが響き、まばらに居る乗客達は皆大人しく自分のスマートフォンを弄っている。しかし、有幻メンタルクリニックで出会ったあの二人の青年の姿は見受けられない。彼らは印象的で良く目立つ風貌である為、明るい電車内で身を潜めるには都合が悪い。


——落ち着こう。このタイミングでのメッセージ受信は偶然だ。受付で連絡先を書いたのだから、きっとそれを見てメッセージを送ってきたに違いない。


 あかりは深呼吸をして落ち着かせると、メッセージ通りSNSの内容が削除されているかを確認した。が、やはり削除された形跡が無く、あかりは苦々し気に思い、ぎゅっと歯を食いしばった。


 時刻は十九時。あのクリニックは二十時までだ。行って文句の一つでもつけてやらないと気が済まない、と、あかりは考えた。

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