第二章 01 賢い猫
日常が戻ってひと月も立たないうちに、ジルたちはそれぞれの家に帰ることが決まった。
辺境伯領で剣術を学ぶ兄弟子は、一年か二年ほどで入れ替わる。仕方のないことだが、ラティエルは目に見えて落ち込んだ。本当の兄よりも可愛がってくれたから、味方がごっそりいなくなるかのように心細い。
笑顔で見送りたいのに、顔をしかめていないと涙がこぼれ落ちそうだ。
「ラティ、泣くな。また会いに来るから」
「夏まで、いるって……言ったのに!」
「……ごめん」
ジルのせいではない。謝ってほしかったわけでもない。みんなの眉尻が下がっているのは自分のせいだとわかっている。それでも涙は止まってくれない。目を
「じゃあ、ラティはおれのお嫁さんになる?」
「――えっ?」
「そしたらずっと、一緒にいられるよ?」
パチパチと
後ろから父がラティエルをひょいと抱き上げた。いい笑顔なのに、体から殺気が立ち
「ジルよ、ラティエルが欲しければ、まず私を倒せ」
「うっ……、わかった! 絶対に強くなってやるからな!」
テオに引きずられるようにして、ジルは馬車へ乗せられた。それぞれの馬車から兄弟子たちが手を振る。それに
星乃がこの体に入ってからというもの、魔力
そんなある日、父が黒猫を拾って帰った。あっけに取られる子どもたちの前で、父は嬉しそうに力説する。
「ふたりとも見てごらん。アデルと同じスミレ色の瞳に、ラティエルと同じ黒い毛並みの猫だよ。この子はとってもお利口さんなんだ」
言ったそばから猫パンチを食らって父がよろめく。どうやら鼻にヒットしたようだ。
「ほらね⁉ 普通の猫とは思えないほど、的確に急所を突いてくるんだ!」
評価のポイントはそこなのか。父の言葉にはちっとも共感できなかったが、ラティエルの心はじんわりと温かくなった。
スミレ色の瞳をした黒猫は、父によって『セレ』と名づけられた。母セレーネの名前から取るなんて、顔に出さないだけで父も寂しかったのかもしれない。娘から見ても仲のよい夫婦だったから。
一方、兄アデルは父と猫をうろんな目で
いや、今さらだろう。父は剣を握ると別人格が起動する。そう思えるほどに普段は
黒猫セレは、勝手知ったるといったふうに屋敷の中を駆けていく。ラティエルはギョッとしてあとを追いかけた。屋敷の北側まで走ったセレが、あいていた窓から飛び出す。
「待って! そっちはだめよ!!」
母の研究室を荒らされては困る。裏庭に建てられた二階建ての小さな家には、母との思い出がたくさん詰まっている。ドアが閉まっているからさすがに入れまい。油断したラティエルの前で、セレはドアノブにジャンプし、器用にもあけてみせた。
「うそでしょう⁉」
父の言ったとおり、
「こらっ!! だめでしょ!」
怒られて本棚から飛び降りたセレは、落ちた本に爪を立てる。
「やめてやめて!!」
とんでもないやんちゃ猫だと持ち上げれば、爪が引っかかって本がひらいた。セレを片手で押さえ込み、ひらいた本に手を伸ばす。
「あら……? これは、お母様の字?」
セレが落とした本はどれも手書きの――手記のようなものだった。そっとページをめくってすぐに、その内容に引き込まれていく。八歳のラティエルには読めない単語もたくさんあったが、なんとなくの
「すごい……、お母様って何でもできる魔術師だったのね」
手紙を鳩にして送る
本棚を背もたれにして腰を下ろし、本に興味を示したセレにも見えるようにひらく。
「ん? これ、もしかしてあのときの⁉」
ある記述を詳しく読もうとしたら、セレがさらにページをめくってしまう。お節介な猫だと
「われは月のせいじょ、女神シンシアの友にして、か、かけ……橋となる者なり? これって……」
ラティエルの記憶にある、母が最後に使った魔法の呪文に似ている。まだ習っていない単語がラティエルを
「ええと……、せ、生物の……、命を……じょうか? う~ん、命を奪うってことかな?」
注釈のような走り書きをなんとか想像力でおぎなって、母が何をしたかったのかを理解した。
「この魔法、術者の目に見える範囲の生物を、すべて絶命させることができるのね。でも、術者まで絶命するなんて……あっ! だからあのペンダントを持っていたんだわ」
身を守るためのペンダントとセットで使えば、死ぬことはないだろう。けれど、母が付与した魔法は人間ひとりを守るので精一杯だった――そう考えれば
(だけど……、どうしてこんな方法を取ったの?)
記憶にある母の技量であれば、あんな魔人くらい消し炭にすることができたはず。それをしなかったのはなぜだろうか。もしくはラティエルと転移術で逃げてもいい。
「あっ……でも、あの場所には領民が……」
すぐそばにはケルシュ村があった。魔人を放置して逃げることが、あの母にできるだろうか。答えはノーだ。では、逃げるわけにはいかないとして、“絶命”という方法を取ったのは――
「魔人の姿をそのまま残して、みんなに知らせるため?」
あの魔人は姿からして異様だった。消してしまえば、原因解明も対策も取れない。しかも、トラウマレベルの怪物だ。魔人の
(愛されてるって、こういうことかぁ……)
そんな母の思いを
しかし、その話になると父はのらりくらりと
「お母様……」
あのとき――ラティエルが母の手を
絶望したラティエルは、ありったけの思いを込めて石に願った。そして気づいたらベッドの上だったのだ。『わたしの願いを叶えて』という悲痛な叫びを、星乃は確かに聞いた。
「そうね。健康な体をもらったのだから、願いはわたしが叶えてみせるわ」
思い返せば、あの魔人は自然発生したものではない。作られたものだ。つまり、作り出した者がいる。正体を突き止めて復讐すること。それこそがラティエルの願いだ。とはいえ、八歳のラティエルにできることはほとんどない。
「……まずは、文字が読めるようにならなくっちゃ」
それからもラティエルはたびたび母の研究室に忍び込み、セレと一緒に本を読みあさった。寒さが戻った日も、セレと身を寄せ合えばなんとか耐えられた。
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