第36話 あずかり知らぬ所で

 奥さんへの告げ口は、結論から言えば思いのほか滅茶苦茶効いたらしいことが翌日明らかになった。


「え……飯島は会社に来てないんですか?」

『そう。連絡もらった編集長曰く、あいつ昨晩何かやらかして警察に任意同行されてたらしくて、さっき釈放されたんだって』


 通話の相手は炉菊さんだ。大学でお昼を食べていたら連絡が来たので応じたら、そんな言葉を告げられて驚いている。

 炉菊さんの言葉が続く。


『で、なんか「これから奥さんと子供を迎えに行く」とか言って急に有給取ったりもしたんだって。そのせいで編集長が「お盆進行中にふざけんな」ってお怒り状態。……凄くめまぐるしい状況の変化なんだけど、白木くん、君何かした?』

「まぁ一応……奥さんに告げ口しましたけど」

『あー、じゃあそれだね』


 僕にとってもめまぐるし過ぎる……飯島のヤツ、勾留されてた挙げ句奥さんに逃げられたってマジかよ。即効性の毒にもほどがあるな、告げ口。


「逃げた奥さん追っかけるってさ、今更もう遅い! ってことになりそうじゃない? しかも編集長ガチで怒ってるから会社での肩身も狭くなりそうだしね』

「……なんで編集長が怒ってるんですか?」

『今がお盆進行だからだね』

「……さっきも言ってましたけど、そのお盆進行っていうのは?」

『まぁ簡単に言えばお盆前にメッチャ巻きで仕事を収めちゃうこと。お盆って印刷所とかが休みになるから、普段通りの進行だと雑誌とか単行本の印刷が色々間に合わなくなるわけよ』

「なるほど……」

『だから、お盆前の7月と年末は編集ってメッチャ忙しくなんの。そんな時期にしょーもない理由で有給をいきなり取ったらあちこちにひずみが出ちゃうから、編集長のみならず、関係各所からしてふざけんなって話なわけ。編集者ってただでさえ1人で何人もの作家を受け持ってるわけで、1人の編集が消えたらマジでチョーやばいことになる構造だから尚更ね』


 ……出版業界って大変だなぁ。


「じゃあ……飯島は立場的にマズいことをしてる、ってことですよね?」

『その通り。有給はそりゃ取ってもいいモンだけどさ、さすがに取る時期は見定めなきゃダメじゃん? 急病とか事故ったとかでもないのにこんなことやられたらホントに大変だから、多分あいつ別の部署に飛ばされるかもねw』


 とのことで。

 どうやら僕らの密告がピタゴラスイッチみたいに飯島を悪い方向に突き動かし始めたようだ。愉快だな。サザエさんのエンディングを自分の名前で口ずさみたくなる。4文字だから語呂が悪すぎるけれど。


『まぁそんなわけで、あいつは町田さんへの粘着行為どころじゃないと思うから、恐らく君たちの勝利でいいんじゃない? 意識も奥さんと子供に行ったっぽいし』

「それでも、油断はしないでおきます」


 とはいえ、このままフェードアウトしてくれることを祈るばかりだ。


『そういえば……パワハラ問題の手札は結局切らずに済んじゃったわけだね』

「あ、そうですね……でも、三代みしろさんには個人的に手を差し伸べられればとは思ってます」


 情報としてそれを知ったからには、放っておきたくない。

 飯島への復讐カードとして気に掛けるんじゃなくて、僕個人の感情としてどうにかしてあげたいと思い始めている。

 SNSに載せてあるイラストはとてもクオリティが高いモノだった。

 飯島なんかのせいで傷付いて筆を折ってしまったんだとしたら、寧々さんも言っていたけれど――もったいない。


 何より、パワハラが事実なら飯島が無罪放免でいいわけがない。

 別の部署に飛ばされるだけじゃぬるいだろう。

 そこはきちんとクビになって欲しいところだ。

 

『そっか……じゃあ何か手伝えることがありそうなときは手伝うから、遠慮せず連絡してね』

「分かりました、ありがとうございます」


 そんなこんなで通話を終える。

 その後、大学での1日を終えて、僕は羽海も連れてモルトヴォーノに夕飯を食べに向かった。それは飯島が来るかどうかを実地で確かめるためであって、僕らは奥まった席に通されて監視業務に努めた。


 するとなんと――今夜はやはり来なかったのだ。


「――これってさ、解決ってことでOKなのかな?」


 シフト終わりの寧々さんとホームで電車を待つあいだ、そんな風に問われた。

 すると羽海が、ストーカー被害の先輩風を吹かせた素振りで、


「もう数日様子を見た方がいいわよ? 私のときは数日後にヤケクソで襲いかかってきたからね」

「あー……あったな」


 あのときは僕が金的を決めて警察を呼ぶことでトドメを刺したのだ。

 今回もヤケクソ特攻がないとは限らない。

 でも飯島は家庭に意識が向いているっぽいし、どうなんだろう。

 まぁでも、とにかく注意はしておかないといけない。


「そういえばさ……」


 やがて電車に乗り込み、羽海と別れ、目的の駅で降車し、僕と寧々さんはマンションまでの道のりを歩き始めている。そんな中、寧々さんがぽつりと、


「……凛音が一応、こういうとき身体を張ってくれてたなー、とか思い出しちゃった」


 と言った。


「……凛音が?」

「うん……高校んとき、私が男子に話しかけられてウザいなぁって思ってたりすると、そんなあたしを守るみたいに壁になってくれてたんだよ、あの子……」

「まぁ、なんかあいつ……寧々さんのこと異常に好きっぽかったもんな」


 好きというか、憧れだったんだろうなと思う。

 そのせいで最後はなんか、ヤンデレみたいになっていたしな。


「……今更ヨリを戻すとかはないけど、凛音のそこだけは良かったかもしんない……」


 じゃあもし、凛音が飯島の所業を知ったらどうなるんだろう、などとふと思ってしまった。

 凛音が今も寧々さんのことを慕っているのかどうかは分からないが、もし反省してあの熱量を今もまだ保っているのなら、色々と想像出来て面白い。


 ……まぁ結局はただの妄想で終わるだけだから、考えるだけ無駄ではあるんだけれど。



   ~side:飯島~



「――く、くそっ、なんでこんなことに……!」


 同刻。

 育生は闇夜の雑木林を逃げ惑っていた。どういう状況かを説明するには、今日の彼の行動を少し遡らなければならない。


 昨晩の粗相に関して厳重注意だけで釈放された育生は本日、有給を取って恵美子と息子を北関東にある恵美子の実家まで迎えに来ていた。

 軒先で土下座をし、心を入れ替えると告げたものの、恵美子やその両親たちに断固として拒絶され、今日のところは一旦近場のコンビニの駐車場に車を停め、休むことにしたのである。それが数十分前のことだ。


 問題が起こったのは、そのコンビニでのことだった。周囲にまばらにしか民家のない、北関東のとある郊外の途中にあるコンビニである。広い駐車場の割にがらんとしており、ひとけなどない。

 

 育生はそのコンビニで遅めの夕飯を購入すべく、入店した。

 すると、そこにワンオペ店員として存在していたのが――


『……っ、――凛音?』


 栗色のボブカットが目立つ若い女子店員。

 その人物は紛うことなく凛音だったのである。


『……飯島さん?』


 凛音もこちらに気付いて、そこから2人は偶然の再会を喜ぶではないが、他の客が居ないこともあって少し話すことになった。


 聞けば、凛音は現在地元のこちらで更生を図っているとのことだった。色々と反省し、つつましやかに生きているらしい。


 以前までの彼女に比べて、実際落ち着いた雰囲気があった。

 実名報道後に音信を絶った育生を責めてくることもなく、談笑することが出来た。

 そんな中、育生は自分の現状を話し始めたのである。


『実は奥さんと子供に逃げられてね……だから奥さんの実家があるこっちまで迎えに来たんだ』

『逃げられたって、何かしたの? あたしとの関係がバレたとか?』

『それもあるし、イタ飯屋の可愛い厨房スタッフにちょっと入れ込んでるのがバレてね』

『何やってんだか……』

『でもホントに可愛いんだよ。ほら、見てくれよ』


 そう言って隠し撮りしていた町田寧々の画像を凛音に見せてみた。

 結果として――


『――は?』


 凛音の気配がその瞬間、豹変したのである。

 なぜか目を見開いて、わなわなと震え始めている。


『……どうした?』

『飯島さん……寧々のこと狙ってるわけ?』

『え? 知り合い?』

『知り合いってーか……人生で一番推してる子……アイドルでもなんでもないけど、あたしにとっては今もやっぱり捨てきれない、唯一無二の憧れ……』


 そう言って顔を上げた凛音の表情は、ゾッとするほど目から光が消えて見えた。

 飯島が『ひっ……』と驚くのをよそに、


『飯島さんさぁ、これ盗撮? 何やってるわけ? まさか付け狙って困らせたりしてないよね?』

『い、いや、その……軽く言い寄ったりしただけで……』

『あー、軽くだろうと実際言い寄っちゃったんだ? へえ……壮介みたいに守ってくれるならまだしも……寧々を困らせる男とかこの世にマジで要らないんだけど……』


 そんなことをブツブツと呟きつつバックヤードに姿を消し、ほどなくして表に戻ってきた凛音がその手にカッターを握り締めている様子を捉えた瞬間、育生はようやく自分がなんらかの地雷を踏み抜いたことに気付いた。


『ねえ飯島ぁ、とりま覚悟しとけ?』

『うわあああああああああ!!!』


 そうしてコンビニから慌てて走り去って近くの雑木林に逃げ込んだ、というのが現状である。


「――どこ行った飯島ぁ!!」


 凛音の怒声が聞こえてくる。

 一旦彼女を撒くことに成功して木の幹に隠れている育生は、ガタガタと震えながら通報のためにポケットに手を入れるが、


「くそ……こんな時に充電が……」


 元々残り少なかったのが逃げているあいだに切れてしまったらしい。

 そもそも通報出来たところで、すぐに駆け付けてくれるとは思えない。

 かくなる上は自力でどうにかするしかない。

 このまま気付かれずに車まで戻るべきだ。

 しかしもしバレたら殺される可能性があるのがおぞましい。


 育生はタイミングを見計らうことにした。

 凛音がこの場所から少しでも遠ざかったらその瞬間に駐車場まで走って戻る。


「――飯島出て来いっつってんだろ!!」


 ギチギチ、ギチギチ、と威嚇でもするようにカッターの刃を出し入れしている凛音はホラー映画の怪人のようだった。

 育生は未だかつてないほどに心臓が脈打っていた。

 平常心など保てていない。

 だからこそ足元にある枝に気付かず――バキッ!!

 足の位置を少し動かした瞬間にそれを踏んづけてしまったのである。


「――そこか飯島ぁ!!」

「うわああああああああああああああああああああ!!!」


 育生は半べその状態で駐車場の方向に全力疾走し始める。

 しかし普段デスクワークに耽るアラサーの体力など推して知るべしであり――


「――あぐっ……!」


 走っている途中に追い付かれ、背中を勢いよく押されてバランスを崩して転んでしまった。

 そんな育生の背中に容赦なく跨がってきた凛音は――


「――飯島ぁ、死にたくなかったら今から言うこと守ってくんない?」


 そう言って育生の首元にカッターの冷たい刃を押し当ててきた。

 育生はガタガタ震えながらおしっこを漏らしてしまう。

 そんな中、凛音の静かに怒り狂った声が続けられた。


「今後さ、ぜーったいに寧々に近付くなお前。卑しい目的で私の憧れを穢すのは許されない行為だって分かれ」

「は、はいっ……!」

「もし近付いたことが分かったら殺しに行くかんな? お前んちでセックスしたこともあるし住所分かってんだからさ」

「も、もう近付きましぇん……!! だがらゆるじで……!!」

「なら行けば? こっちにはお前を『売春を強制された』つってウソの訴えを起こす手段も残ってんだから、余計なことされたくなきゃ大人しく生きてろっつの」

「ひゃ、ひゃいいい……!!」


 背中から凛音がどいた瞬間、地を這う獣のように手足を動かしてどうにか立ち上がり、そのまま駐車場まで走り抜いて車に乗り込んだ。

 震える手でエンジンを掛け、そのままもう自宅まで帰ることにした。


 恵美子や息子を連れ戻す目的などもはやどうでもよかった。

 今はとにかく自宅で安全に休みたい。


 そんな気分で車を飛ばし、動転していたせいで信号をよく見ていないことが災いし、育生はその帰り道にワゴン車と衝突して全治1ヶ月の重傷を負った。

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