第35話 最初の崩壊
週明けの月曜日。夏休みが間近に迫りつつあるこの日、しかし僕は残り少ない夏休み前の通学を放棄して寧々さんと一緒に午前の住宅街をうろついていた。
この住宅街は僕んちの近所ではなくて、飯島の自宅がある住宅街だ。
そう、奥さんへの告げ口に早速やってきたわけである。
「ねえ壮介……飯島の奥さんが仕事で不在だったらどうする?」
「張り込む。園児の子供が居るらしいし、迎えとかの影響で飯島より早く仕事を上がってくる可能性があるから」
でも出来れば専業主婦、あるいはリモートワークである方に賭けたい。
そう考えていると、やがて飯島の自宅にたどり着いた。インターホンを鳴らしたら飯島本人が出てくる懸念もあるが、そこは炉菊さんに連絡を取って出社しているのを確認済みだ。
「じゃあ鳴らすよ」
僕は軒先のインターホンを押した。ドキドキしながら応答を待つ。もちろん応答がない可能性もあったわけだが――
『――はい、どちら様でしょうか?』
女性の声が聞こえてきてハッとした。
ひとまず会話の土台には上がれたようだ。
「あ、すみません。飯島育生さんの奥様でいらっしゃいますでしょうか?」
『ええそうですが……どちら様でしょう?』
カメラ越しに警戒するような声色だった。
僕は出来るだけ誠実な態度で、
「奥様からすれば不審な物言いになってしまいますが、僕たちは旦那さんから迷惑をこうむっている者です」
『え……それはどういう……?』
「単刀直入に言わせていただくと、旦那さんは不貞行為を行っています」
僕はこのまま切り込んでいく。
「僕らはその被害者でして、非常に困っているので詳細をお話しさせていただきたいのと同時にご助力いただきたいのですが、ひとまずお時間をちょうだいしてもよろしいでしょうか?」
これでひとまず要点は伝えられたはずだ。
さて……どんな反応が返ってくるだろうか。
門前払いだけは勘弁して欲しいけれど……。
『……不貞行為というのは、浮気ですか?』
「あ、はい……浮気と、軽いストーカーです」
『そう、ですか………………少々……お待ちいただいてもよろしいですか? リモートワーク中でして……中抜けの連絡を、一旦させてください』
そんな言葉のあとに通話が途切れた。
お、これは……。
「……門前払いには……ならなそう?」
「だね……一応話は聞いてもらえそうな雰囲気だったと思う」
それから約2分後――
「お待たせしました……」
玄関のドアが開けられ、黒髪を後ろで束ねた綺麗な女性が顔を覗かせてきた。
「……妻の
そう言って自己紹介をしてくれた恵美子さんは、
「どうぞ中へ……私としても、そのお話を詳しくお聞かせ願いたいですから」
とのことで、僕らの話に興味を持ってくれているようだ。
やはり妻として、簡単に切り捨てられる話ではないんだろう。
「ありがとうございます」
お礼を告げたのち、僕らはリビングに通された。知育用のおもちゃみたいなモノが散見される。そんな中で、
「主人が……浮気と軽いストーカー? をしているというのは、その……本当なんでしょうか?」
ソファーに座るように促され、麦茶を出されながらの問いかけだった。
もちろん僕らは隠し立てせずにすべてを話し始めた。
凛音との浮気の件。
そして現在進行形で行われている寧々さんへの粘着行為。
そのふたつの情報を知った恵美子さんは――
「やっぱり……人はそう簡単に変わらないものなんですね」
と呆れたように嘆いていた。
「……やっぱり、ですか?」
「ええ……昔の話になりますが……主人は学生時代にも、私と付き合いながら他の女性へのしつこいアプローチや浮気を……繰り返していたんです」
……なんてヤツだ。まぁでも……性犯罪の再犯率の高さを思えば、下半身の緩さは治らないのかもしれない。
「それでも……以前私にそれがバレたときは、もうしないって約束してくれたんですよ……それなのに、また……」
恵美子さんは両手で顔を覆い隠し、小さく嗚咽を漏らし始めてしまった。
少し気まずく思い、肩身が狭くなってしまう。
一方で恵美子さんは「……ごめんなさい」と呟きながらティッシュを引き抜いて目元をぬぐっていた。
「……本当、なんですよね?」
そして改めて確認された。飯島の浮気と粘着行為についてだろう。
だから僕らは証拠を差し出すことにした。まずは僕が浮気の証拠を出す。不法侵入セックスをされた際、逃げる飯島の姿を咄嗟にベランダから撮影した動画があるのだ。何かあったときのために撮っておいたモノで、飯島が夜道を駅の方向に走っていく姿を収めている。僕の背後で凛音が必死に言い訳する声も入っているので、証拠としては充分だろう。
寧々さんも、接触されている証拠として例の名刺を取り出し始めていた。
それらの証拠を見た恵美子さんは、
「……どうしようも……ないですね、あの人……」
落胆したように、ため息をひとつ吐き出していた。
「証拠を見せてくださって、ありがとうございます……そういうことでしたら、ぜひ協力させてください」
「本当ですか?」
「はい……そこで提案なんですが、それらの不貞行為には私が自分で気付いたフリをした方がいいと思うんですが、どうでしょう?」
どうやらだいぶ僕たちに肩入れ状態となっているようだ。
そんな提案をしてもらえたことに驚く。
「あなた方がここに来たこと……恐らく主人には伝えない方が良いと思いますから、私が自分で気付いたことにして注意喚起を行う。それでどうですか?」
「それはありがたいですけど……いいんですか? 恵美子さんにメリットはないと思いますが」
「いいんです……それが私に出来る、せめてもの償いだと思いますので。……主人がご迷惑をお掛けして、本当にごめんなさい」
恵美子さんはそう言って頭まで下げてくれた。
この人は……飯島なんかにはもったいないくらい素敵な女性だと率直に思った。
だから気付けば、僕も頭を下げていた。
「こちらこそ……知りたくもない情報を伝えてしまったかもしれなくて、ごめんなさい」
「いいえ、お気になさらないでください……そのお話を聞けたことで、踏ん切りが付いた部分もありますから」
「……踏ん切り、ですか?」
「はい……主人と別れようかなと思っています」
「っ」
……驚いてしまった。
でも踏ん切りが付いたという言い方からすると、前々から飯島に対して何か思うところがあったんだろうか。
そんな僕の疑念を読み取ったかのように、
「……いつまで経っても、悪い意味で少年みたいな人なんです。子供が生まれても父であろうとする意識が薄いと言いますか……子育ても、家事も炊事も、まったく手伝ってくれなくて……編集者は忙しいんだ、全部お前がやれ、って……私が元々リモートワークだからいいようなものの、そうじゃなかったら今頃パンクしてると思います……そういう部分で、愛想が尽きたところがあるんです」
「だからといって……別れて大丈夫なんですか?」
「実家に戻れば平気です……そっちでも仕事は継続出来ますし、子供が小学校に上がる前なので、子供からしたら長く付き合った友達とかもまだ居なくて、私に付き添わせても負担が少なくて済むと思いますから」
なるほど……。
「とにかく、主人と別れる良いきっかけが出来ました……だから謝らないでください。むしろ今回の件、教えに来てくださってありがたかったです」
……まさかのお礼を言われてしまった。
僕はどう応じていいのか迷いつつも、
「いえ、こちらこそ……」
と告げて、ひとまずおいとますることになったのである。
「これで……解決したのかな?」
帰り道。
僕と寧々さんは拍子抜けしたような気分で電車に揺られていた。
「どうだろう……ひとまずは次のバイトのときに飯島が来るかどうか確認すべきだな」
「だね……ちょうど今日バイトないし、明日のシフトんときには告げ口の効力が確認出来そうかも」
……改善されていることを願うばかりだ。
~side:飯島~
(……今日はシフトじゃなかったのか)
この日の夜、育生は仕事終わりにモルトヴォーノに立ち寄ったものの、寧々が居ないことを確認したので何も注文せずに店を出て帰宅の途に就いているところだった。
最近の育生は、寧々のために生きているような部分がある。
もちろん家庭が大事なのは否定しないが、その家庭や仕事から受けるストレスを軽減するための手段として寧々という存在が癒やしになっているのだ。
ほとんど、一目惚れだった。
たまたま入ったあのイタリアンレストランの厨房で、あくせく働く寧々の姿に心を打たれてしまった。
別に妻と別れてまでどうこうしたいとは思わないが、せめて身体の関係に持って行けたら最高だなと思っている。
そう考えている中、やがて自宅に帰り着く。
そして育生は――ちょっとした異変に気付いてしまった。
「恵美子……何やってるんだ?」
おもちゃで遊ぶ息子を尻目に、妻の恵美子は何やら荷物をまとめていたのである。
「あ……おかえりなさい」
「なんだよその荷物……どこかに旅行でも行くのか?」
「いいえ違うわ……ちょっと来て」
そう言って恵美子が廊下に移動していく。
不審に思いながらそのあとに付いていくと――
「ねえ……私たち別れましょう?」
といきなり告げられ、育生は混乱した。
「……は?」
「別れましょうと言ったわ。あの荷物は実家に帰るためのモノよ。悠斗も連れてね」
「な、なんでだよ……意味が……」
「意味が分からない? よくそんな言葉が出てくるものね」
恵美子は目を鋭く細めていた。
「以前、大学生の子と浮気していたんでしょう?」
「!?」
「で、今度は別の子を付け狙い始めているくせに、何をとぼけているの?」
「な、なんで知って……」
「それに気付かないほど抜けた女じゃないってことよ」
「ま、待ってくれ……違うんだよ……」
育生は慌てて言い訳を始めるものの――
「――学生時代に一筆書いてもらったの覚えてる?」
「……そ、それは……」
「印鑑も押してもらってさ。アレ、私まだ持ってるからね? 次やったらもう縁を切る、子供が生まれてたらその子ごと縁を切るっていう一筆だよ? 忘れたとは言わせない」
「あ……ぁ……」
確かに一筆したためている。忘れていない。もし離婚調停や親権の争いに発展した際、アレは証拠として効力を発揮するモノだ。育生は顔を青ざめさせてしまう。
「ま、待ってくれ……」
「待たない。もう私たちはおしまいだわ。冷めてるからちょうどいいでしょ」
「だ、ダメだ、待ってくれ……俺は君が居ないと……」
これまで出会ってきた女性の中で、なんだかんだ恵美子が一番だと思っている。
だから結婚をして子供だってもうけた。
しかし――
「口だけでしょ? もういいって」
呆れたような言葉と共に、恵美子が背を向けてリビングに戻っていった。
育生はこの瞬間、家庭が終わったことをひしひしと感じ取ってしまった。
「……くそっ……」
暗い廊下で頭を抱え、様々な後悔が沸き立ってきてしまう。
しかし恵美子の態度を見るに、そんな後悔は今更なのだろう。
もはや、どうしようもないことがありありと見えている。
「なんで……あぁ、くそ……っ」
育生はこのあと、明るいリビングにもう一度足を踏み入れることが出来なかった。
そんな中、荷物をまとめた恵美子が息子を連れて廊下に現れ、
「人様に迷惑掛ける行為はもうしない、って誓わないなら……二度と会うことはないと思って」
そう言って外に出て行ってしまった。
車のエンジン音が木霊し、ほどなくしてその音が遠ざかっていったのを耳にした瞬間、
「――ああああああああああああ……っ!!! 待ってくれ!! もうしない!! しないから戻ってきてくれ……っ!!!」
慟哭のような大声を張り上げながら、育生は外へと飛び出し、車が去って行った方向に近所迷惑など考えずに叫び始めていた。思いのほか恵美子と息子が自分にとって大きな存在だったことを、今ようやく悟った形であった。
そんな風に叫び続けた結果として近所迷惑で警察を呼ばれたのは当然のことであり、一旦連行されることになった育生は、取調室の中で自分の愚かしい行動をひたすらに後悔し続けるしかなかった。
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