第9話 覚悟
「・・しさん、建志さん、起きてください」
名前を呼ぶ声に目を開けると、瞬太が目の前にいた。
ぷかぷかと浮かびながら、心配そうに俺を見つめる。
「建志さん、そろそろ起きないと遅刻しますよ」
「・・・・夢か?」
「何言ってるんですか。本当に遅刻しますよ!」
はっきりと聞こえる声に俺はガバッと体を起こし、瞬太を抱きしめようと手を伸ばすが、瞬太の体はそのまま俺の腕を通り抜ける。
「建志さん、どうしたんですか?まだ、具合悪いですか?」
心配そうに俺の顔を覗き込む瞬太に、俺は苦笑いしながらおかえりと返した。
瞬太は一瞬びっくりしたような顔をしていたが、すぐに悲しそうな、それでいて嬉しそうな表情をしてただいまと小さく答えた。
「じゃあ、二日はお休み頂けたんですね」
「あぁ・・・・」
「じゃ、じゃあ、少し遠出しませんか?」
「遠出?」
「はいっ!昔・・・生きてた頃によく行ってた場所があるんです。久しぶりにそこに行ってみたいんです。きっと建志さんも気にいるはずです」
「・・・・じゃあ、行くか」
「はいっ!」
俺の返事を聞いて心底嬉しそうな表情で、お供えのパンを頬張る。
その笑顔を見て俺もふっと笑みが溢れ、そして、その溢れた音に驚く。
一緒にいるようになって口が緩む事は増えてきた・・・だが、声を、音を出して笑うんなんて思いもしなかった。
驚いたと同時に、まだ俺も笑えるのかと安堵もした。
そして、また心の奥でポチャんと雫が落ちた気がした。それは、いつもより早い音だった。
時間をかけて落ちるのでなく、あの雨の後の水滴のように、ポチャんとしっかりと音を立てて何度も落ちていくのがわかる。
そして、雫と一緒に鼓動がとくんとくんと音を立て、雫と一緒に音を奏でる。
それがとても心地よく、暖かかった。
「・・・ただ、寒いだけじゃねぇか・・・」
両手で腕を摩りながら目の前の光景を呆然と見つめる。
瞬太が行きたいと願った場所は、電車で一時間もかかった海辺だった。
「ごめんなさい。僕、この姿に慣れすぎて寒いという事を忘れてました・・・」
瞬太の落ち込んだ表情に、俺はため息を吐きながら海を見つめ、瞬太の頭を撫でる仕草をする。
「いいよ。それより、お前はよくここに来てたのか?1人で?」
「はい。辛い時や悲しい時はいつもここに来てました」
「・・・・」
「辛い時が多くて、ここに来てぼんやり海を見ながら、たまに泣いたりしてました。でも、不思議と気持ちが軽くなる感じがしたんです。まるで、波が引くときに僕の悲しみを連れてってくれてるみたいで、落ち着くんです」
「・・・何がそんなに辛かったんだ?」
「・・・何もかもがです。この世に僕という人間は存在してないんじゃ無いかと思えたんです。そのくらい僕の存在はあってもなくてもいい存在だと思ってたんです・・・そんな事はなかったのに・・・」
「そうだな・・・少なくとも、お前の親は悲しんでくれたはずだ」
「はい・・・とても・・・とても悲しんでました・・・」
力無い声に俺は海から視線を外し、瞬太へと向ける。
瞬太は海を見つめながら静かに泣いていた。
きっとこの光景は、瞬太が生きている時の光景なのかもしれない。
「瞬太・・・」
「・・・・はい」
「約束してくれないか?」
「何をですか?」
涙を拭いながら、瞬太は俺の方へと顔を向ける。
俺は少し躊躇いながらも、真っ直ぐに瞬太を見つめた。
「いなくなる時は・・・逝く時は黙って消えないで欲しい」
「・・・・」
「せめて、別れの挨拶くらいしてくれないか?」
「・・・・」
「本当は、逝く時は俺も連れて行けと言いたいが、お前はそんな事できないだろ?なら、せめて、また1人になる覚悟をさせてくれないか?」
「・・・・・」
「頼むよ・・・俺、お前がいなくなった時・・・あの冷たく暗い部屋に帰った時、涙が出たんだ。怖かった・・・1人になる事がこんなに怖くて寂しいと思わなかった・・・今まで1人が当たり前の暮らしをしてきたんだ。なのに、お前が転がり込んできて、俺はいつの間にか俺は1人なんだという事を忘れてしまってたんだ。
だから、その責任は取ってくれよ。世話になった恩返しのつもりでさ。
逝くまでは俺の側にいて、逝く時は俺が覚悟できるように別れという勇気を置いてってくれないか?」
ずっと黙ったまま聞いていた瞬太は、また静かに涙を流し、小さく頷いた。
それを見た俺はまたふっと笑い、ありがとうと返した。
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