11 涙を拭う



 目を開けると、見慣れない天井だった。部屋はかび臭くて狭く扉もなく、代わりに鉄格子が嵌められている――牢獄だ。鉄格子の向こうは長い廊下になっていて、松明が点々と、ぼんやりと灯されている。ベッドと小さなテーブルと、簡易的なトイレ以外は、何もない。




「ほんと、勘弁しなさいよ……」




 フレアは硬いベッドから起き上がった。


 小さな窓にも鉄格子が嵌められていて、外はどうやら夜だった。


 首や肩を回し、体の調子を確認する。特大の雷を落とされたはずだが、痛むところはなかった。




 この牢獄を、フレアはよく知っている。イグニス領内で捕まった犯罪者を、一時的に収容しておくための牢獄だ。


 フレアは躾けの一環として、しょっちゅうここに入れられていた。例えばルカの悪口を言ったとか、侍女に八つ当たりしたとか、そういう些細なことでも、フレアは犯罪者のように扱われてきた。




 慣れているはずだ、こんな扱いは。




 それなのに、今日の牢獄はいつもより寒く感じた。




 滲んだ涙を拭う。お腹が減った。ドレスは泥だらけのままだ。早く汚れを落として熱いお風呂に浸かって、美味しいお茶を飲みながらご馳走を食べたい。




 その時、背後で音がした。ベッドの上に、何かが落ちている。さっきまで何もなかったはずなのに。


 フレアは訝しく思いながら、それを手に取った。手のひらサイズの小包だ。


 顔を上げると、ベッドの真上の、鉄格子つきの窓が目に入った。入れられたとしたらあそこからしかないだろうが、誰が何の目的でこんなことをしたのか、皆目見当もつかない。




「ねえ、誰かいるの?」




 試しに窓に向かって声を掛けてみたが、返事はなかった。


 フレアは改めて小包に視線を落とした。紐で括られたクリーム色の小包には、『フレア・ローズ・イグニス公爵令嬢へ』淡々とした流麗な文字で、そう綴られている。


 とても軽い。重さ的に爆弾ということはないだろう。




 フレアはベッドに腰掛けて、紐を解いた。


 まず出てきたのは、一枚の手紙だった。




『突然の訪問、お許し下さい。刑場にて、貴女をお見かけした者です』




「刑場……」




 フレアは首を捻った。刑場と言えば、前世の記憶を思い出した場所だ。


 そこで出会った人なんていただろうかと思ったところで、倒れた自分に、唯一手を差し出してくれた青年がいたことを思い出した。






『私の心配なんてしないで! 私は気高きイグニスの華よ‼ あんたとは違うの‼』






 確かそう言って、彼の優しさを拒絶したのだ。


 顔はわからなかった。声の感じから、恐らく若い男性だろう。小綺麗な格好ではなかったように思う。みすぼらしい平民という印象だけは残っている。




『気高きイグニスの薔薇姫、その後お加減はいかがでしょうか』




「イグニスの薔薇姫って……」




 フレア自身が自分の事をそんな風に呼んだからだろうが、どうにもくすぐったい。咄嗟にあんなことを言った自分が、今更ながら恥ずかしくなった。




『聖騎士の屋敷に強盗が押し入ったと、王都ではもっぱらの噂です。騎士団に詳細を問い合わせたところ、貴女が牢に入れられたと聞きました。――そんな場所は、気高き薔薇姫には似合わない。早く解放されることを祈っています』




 優しい言葉だった。手紙の下に、何か入っている。


 猫と薔薇のイラストで可愛くパッケージされた、クッキーが数枚と茶葉だった。良い匂いが、ふわりと漂う。




『追伸――普段こういうものは買わないので自信はありませんが、クッキーと紅茶を同封しました。気に入らなければ、捨ててください』




 それはフレアもよく利用する店の商品だった。勿論高級品だ。あのぼろを纏った平民が、そう簡単に買えるものではない。量が少ないのは、これが彼のできる精一杯だったのかもしれない。




 フレアの目から、ぽろ、と涙が零れた。




 それは彼女にとって、生まれて初めての贈り物だった。


 心がこもっていた。温もりに満ちていた。




 顔も名前も知らない、見ず知らずの赤の他人。きっと世間では、フレアが犯人だと噂になっているはずだ。なのにどうして、フレアの事を何も知らない彼が――しかも初対面で、あんなに手酷く拒絶してしまったというのに――こんな手紙と贈り物をよこしてくれたのか、皆目見当もつかない。


 ただ、彼の優しさは、冷たく凍えた心に火を灯してくれた。


 何度も何度も手紙を読み返すうち、小さな火は、やがて燃え上がるような炎となって、フレアの心を優しく温めてくれた。じんわりと心が温まって、張り詰めていたものが、一気に緩んでいく。




 ぽたぽたと落ちた涙が手紙を濡らして、フレアは慌てて涙を拭った。


 声を殺して肩を震わせながら、この手紙を書いてくれた名前も知らない誰かに、想いを馳せた。




 真っ白だと思っていた便箋には、よく見るとうっすら青い花が描かれている。何の花かはわからない。形はどこか、前世で見たことのある、蓮の花に似ているような気がした。




(……青蓮)




 青蓮。




 清らかな心を持った人に、ぴったりの名前だ。


 フレアは、心の中で彼に呼びかけた。




(いつか……いつか絶対、貴方に会ってみせる)




 そして初対面の非礼を詫びた後、この贈り物がどれだけ素晴らしかったか、どれだけ自分の心を打ったか、彼に直接伝えるのだ。


 彼がどう思うかはわからない。彼にとっては些細なことだったかもしれない。名前も何も書いていないということは、詮索されるのを避けたがっているようにも思える。




 けれど、このまま彼との縁が切れてしまうなんて絶対に嫌だ。絶対に直接会って、伝えなければ気が済まない。人生をかけてもいい、彼に会うためなら、どんな手段も使うだろう。彼がどんなに身分の低い者であろうと、そんなことはもうどうだって構わない。




 それほどに、フレアにとってこの手紙と贈り物は、大きな意味を持っていた。




 彼女は何度も涙を拭い、ゆっくり深呼吸してから、手元のプレゼントを見つめた。


 お腹も減ったし、今いただきたい。クッキーはこのまま食べるとして、茶葉はどうするか。


 テーブルの上に水があったが、できれば熱い湯でいただきたかった。




 そこからは迷わなかった。「看守! いるでしょ! 返事しなさい! 早く!! 来なさい!!」と声を張り上げる。やがて慌てた様子でやってきたのは……――






「フレア様! 目ぇ覚めたんですね!?」


「あの、パンもお菓子もいっぱい持ってきました! お口に合うかわかりませんが……」


「おいカノン! ルカ! あまり騒ぐな! 静かにしろ!!」


「お前だってうるせえぞルベル!」






「皆さん、お静かに願えますか……」


 カノンとルカとルベルの後、遅れて看守も姿を見せる。彼は困った様子で肩を竦めた後、「くれぐれも、もう少し静かにお願いします」とだけ言ってそそくさとその場を去った。




 フレアは呆気にとられながら、三人を凝視した。




「貴方たち、なんで……」




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